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夏の墟城  作者: 水鳴諒
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【二】心臓を撫でられた心地。


 休日の朝は、決まって憂鬱になる。週明けまでに、どれだけ勉強が進むか考えるからだ。泥のような眠り。それは、そうか。午前二時あるいは三時まで、俺はいつも勉強をしている。そして学校では、朝七時から小テストが行われる。最低でも朝六時半には家を出なければならないから、起床は五時だ。最後に熟睡した記憶を、俺は思い出せない。


 土曜日の本日、俺はスマホのアラームで目を覚ました。

 いつもと同じ時間、朝五時。眠ったのは、昨日……日付が変わって今日の午前四時だ。


「……」


 髪をかき上げてから、眼鏡をかける。眠い。

 上半身を起こして、暫しの間、ぼんやりとした。寝直した方が頭がすっきりして勉強が進むか、いいやそれは勉強をしたくない言い訳か。考えがまとまらない。


「っ」


 だが、眠気に勝てず、俺は再び眼鏡を置き、そのままベッドに沈んだ。



 ――コンコン。

 と、ノックの音が聞こえた時、俺は目を擦って起き上がった。随分と体が楽になっていた。疲れていたのかもしれない。万が一体調を壊して試験を受けられなかったりしたら、それは最悪だ。たとえどんなに高熱でも、試験だけは出なければ。それがクラスの風潮だ。


 ――コンコン。


「誰だ?」


 上半身を起こしながら問いかける。白いTシャツには皺が寄っている。


『僕だよ、葵だよ。パンを焼いたんだ。食べに来ない?』


 その言葉に時計を見れば、午前十時。既に下宿に隣接している大家さんの食堂の、朝食の時間は終了している。朝夕とお弁当は、そこで食べたり受け取ったりするという決まりだ。これからコンビニに買いに行く手間もあるので、たまにはパンもいいかと何気なく考える。社交辞令ではなく本当に部屋に来たのかと考えながら、俺は答えた。


「……今、行く」


 なれ合うつもりがあるわけではない。ただ、空腹が勝った。

 立ち上がった俺は、クローゼットの中から黒いロングTシャツを取り出す。そして半袖を脱ぎ、洗濯物をまとめているカゴに入れた。それして着替えをして、外へと出ると、そこには葵が立っていた。


「行こうか」

「ああ」


 頷いて一緒に降りる。葵は柔らかな表情で笑っている。二階に降りてすぐ、俺は洗面所へと向かって顔を洗った。そして共有スペースへと向かえば、パンの良い香りがした。横長のソファが三方にあるので、その一角に俺は座る。するとローテーブルの上に、皿に載せたレーズンパンと、紅茶のカップを葵が運んできた。


「どうぞ、召し上がれ」

「いただきます」


 素直にそう告げ、焼きたてのパンを手に取る。口に運べば、柔らかな触感が非常に美味だった。その横で、葵がダージリンを淹れてくれた。


「あれー? お前らなにやってんだ? いい匂いだな」


 その時、階段から長身の下宿生が降りてきた。顔を向けた俺は、軽く会釈する。


「晴臣、おはよう。晴臣も食べる?」

「ん。貰うわ」


 周藤晴臣は、そう言うとひょいと皿からパンを一切れ手にして、俺の隣に座った。隣と言っても、間に人が三人は座れる。


「ここに山鳩がいるのも珍しいな」


 パンを囓りながら、周藤が笑った。実際それはそうだろう、俺は初めてここに来た。


「お前達はよくここにいるのか?」


 俺が尋ねると、んーっと周藤が唸る。


「いや、俺はわりとここにいるけど、葵は料理かお菓子を作る時が多いな。だよな?」

「そうだね。晴臣は試食係。今日からは考成も」


 ふんわりと葵が笑い、続いて周藤にもダージリンを用意した。


「考成は僕のことは知らなかったのに、晴臣のことは知っていたの?」

「同じ高校だから、名前と顔くらいはな」


 俺がそう答えると、小首を傾げて天井を見上げ、ゆっくりと周藤が瞬きをした。

 それから俺を見ると、唇の両端を持ち上げる。


「晴臣でいいぞ」

「……そうか」


 今では、普通科(・・・)の人気者にそう言われ、俺は小さく頷いた。周藤晴臣は明るく快活な性格で、クラスを越えて友達が多く、人気者だ。うちの高校は、特進科と普通科と芸術・音楽科の校舎がこの大橋市にあって、運動科の校舎は南橋市にある。


 時々、晴臣は俺のクラスの三十二名の内の一人の名前を消すことがある。

 運動科の生徒なみに運動もできて、頭も良い。存在感がある。普通科はクラスも人数も多いのだが、一年前までは晴臣が目立つということはなかった。それが今年の春くらいからじわりじわりと噂を聞くようになった。実際、今笑って俺を見ている晴臣は気さくで話しやすそうだ。


「いい匂い」


 そこへ、もう一つ階段を降りてくる足音が聞こえた。何気なくそちらを見て、俺は目を丸くした。真っ直ぐな長髪が最初に目に入る。インナーカラーは赤、同色のメッシュも入れている。黒縁の眼鏡をかけていて、口紅を引いたその端には丸いピアスが見える。ピアスは耳にも複数空いていた。一瞬女子かとも思った。背も低い。声もアルトで男子にしては少し高かった。


「僕にもちょうだい。あ、あとオレンジジュースも。葵ちゃんのオレンジジュース大好き」

「おはよう、ゆづ」


 ふんわりと葵が微笑する。すると苦笑して晴臣が立ち上がった。


「オレンジジュースは俺が出す。葵はちょっと休めば?」

「ありがとう晴臣」


 葵はそう言うと、俺の隣に座った。それを見ていたゆづと呼ばれた少年は、続いてまじまじと俺を見た。


「誰?」


 俺も同じ気持ちだ。ジュースを持ってきた晴臣が、テーブルにグラスを置き、座りなおす。俺・葵と、その正面のソファに晴臣・ゆづに別れて座った。


「考成だよ。南角の部屋の特進科の」

「へぇ。ガリ勉って見た目でもないね。男前じゃん」


 唇に手を添えて、ニッとゆづが笑う。


「ゆづは弓弦って言うんだよ、宜しく。体は男子で心は中性。男子六割・女子四割ってとこかな、僕は」


 にこにこしながら弓弦が言った。これまで、俺の周囲には居なかったタイプだ。


「まぁた葵ちゃんが捕まえてきたんだ?」

「そうかもね」

「誘蛾灯みたい」

「蛾が汚いというつもりはないけど、考成は綺麗だと僕は思うよ」


 何を見てそんなことをいうのかと俺は思った。俺に綺麗な部分が一欠片でもあったならば、手首なんか切ってはいないだろう。そう思うと無意識に押さえてしまった。


「あっ」


 その時俺の肘が触れたため、葵が飲んでいた水のグラスを取り落とした。俺の左袖を水が濡らす。


「ごめん」


 葵が慌てた様子で、俺の左の袖を捲った。ダメだ、やめろ、と、言う前に、そこには昨日処置をされたままの派手な包帯がある俺の手首が露わになった。シンっと、その場が鎮まる。


「あ……ごめん」


 葵は立ち上がった。


「薬箱持ってくる」

「いいから、っ」


 思わず俺は引き留めた。俺の方がここから居なくなりたかったからだ。

 すると。


「え、なにそれ、リストカットってやつー?」


 弓弦に直接的に指摘される。俺は心臓を直接撫でられたかのような気持ちになり、体が凍り付いた。


「病みアピ? きっも」


 嘲笑するような声だった。俺は立ち尽くす。表情を無くした俺が俯くと、弓弦が続けた。


「どうせ浅い傷なんでしょ? 手首なんか切っても死なないのに。バカみたい」


 ニヤニヤニヤニヤ。

 チラリと見れば、弓弦の口紅をつけた肉厚の赤い唇からは毒の棘つきの刃が放たれている。

 息が苦しくなる。なにせ、多くの見解は、弓弦の感想と同一だろうからだ。弓弦の言ったとおりだろうから。誰かが俺の気持ちを分かってくれるわけではない。人間は、所詮一人だ。孤独。他者の気持ちを分かる、分かって欲しい、そんなものは欺瞞だ。


 ――バシン。


「痛っ」


 その時音がして、見れば弓弦がベッドの横に倒れ込んでいた。頭をちょっと強めに叩いた様子の晴臣は、神妙な顔をしている。笑うでもなく、怒るでもなく。


「やり方によっては死ぬだろ、ってそういうことじゃなく。無言で否定しないんだから、考成のそれはリスカなんだろうな。で、死なないと仮定した場合だけども、頭のいい考成がそれを念頭に浮かべずに切ってるわけないと俺は思うぞ。その上この熱い中の長袖、隠してるだろ、アピールの対角だな。弓弦、お前の推測は的外れ。だろ? 考成」


 晴臣がつらつらと言い切ってから俺を見た。射貫くような眼差しだった。黒い短髪が揺れている。黒い瞳は、俺が視線を逸らすのを、許さないというかのような眼光を放っていた。


「……そうだな。出来れば、誰にも知られたくない。黙っていてもらえないか?」


 口止め。

 漸く俺の脳裏に浮かんだ重要事項の筆頭は、それだけだった。


「約束する」

「……分かったよ。そうだね、そうですね! 浅はかでした。謝ればいいんでしょ? まったく。はぁ。ゆづはそういうの言いふらしたりしないから安心していいよ。ただ、『悩みがあったら聞くからね』みたいな優しい偽善者ごっこもしないけど」


 二人の言葉に、俺は漸く一息つけた。


「行こう、考成」


 場を見守っていた葵が、俺に立つように促した。俺は小さく頷き立ち上がる。

 本当は今すぐにでも自室に帰って、布団をかぶって――キモいの一言に抉られた胸が激しく鳴らし始めた動悸を収めたい気もしていたけれど、上手く思考が回らなかったから、道標のような葵の声に、従うことにした。




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