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夏の墟城  作者: 水鳴諒
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【一】夏の匂いが嫌いだ。



 夏の匂いが嫌いだ。

 もうすぐ、夏が迫ってくる。


 連休明けのテスト。

 返却された答案用紙の点数は、自己採点した結果と変わらない。

 昼休みに図書館へと、興味もない純文学の本を返却しにいき、俺が教室に戻ると、半分ほど開いた戸の向こうからクラスメイト達の声が聞こえた。


「おーっ、今回の一位は――」


 それを聞いて俺は一度動きを止めた。俺の通う特進コースの二年一組では、そこに在席する三十二名の成績が内々にクラスで開示される。一位から三十二位まで、一覧で印刷された紙が、順位が出しだい教卓の上に置かれる。眼鏡の奥で、俺はきつく目を閉じる。自分でも眉間に皺が寄ったのが分かる。そこに名前が無い場合は、普通科などの別のコースの誰かが上位三十二位に入ったということであり、名前が消えた者の机は休み明けには消えていることもあるという。


 それから目を開け、平静を装い教室へと入った。


「おお、山鳩。三位だったぞ、さすがだな」

「そうか」


 俺は微笑した。

 八クラス、約二百五十名が通うこの私立大橋学英高校の中での三位。

 それが声をかけてきたクラスメイトから見れば、価値のあることだというわけだ。


 窓際の一番前にある自分の席につく。

 そして出しっぱなしにしたままだったノートを見る。山鳩考成という俺の名前を見る。名付けたのは、祖父だと聞いたことがある。祖父は厳格だ。


 その後、午後の授業を終えてから、俺は下宿へと帰った。

 俺の生家は、この地方都市まで車で二時間半かかるところにある。だから地元の高校以外に進学する多くの生徒は、皆下宿をする。今年の三月に新しい下宿が出来たので、俺は春に前の下宿から引っ越した。新しい下宿の方が、高校までの通学時間が短かったからだ。


 三階建ての下宿は、一階が貸し会議室、二階が下宿生の共用スペースと簡易キッチン、浴室、他に洗濯機がある。共用の冷蔵庫もある。そして三階に、四部屋あって、その南の角部屋が俺の部屋だ。階段をそのまま上っていくと、屋上に通じている。


 俺は自室の鍵を開けて、ドアを閉めた。アパートの一室のような造りだ。


「っ、は」


 俺は床に崩れ落ちて、右手で口元を覆う。息が苦しい。

 ――ダメだ、これではダメだ。

 三位なんかじゃダメなんだ、なんのために下宿を越した? 通学時間が減った分を勉強時間にあてるためだろう? それがこのように無残な成績で、これでは、これじゃあ、ああ、怒られる。許されない。頭が真っ白になる。ギュッと目を閉じれば、涙が滲んだ。唇を噛めば鉄の味がする。よろよろと立ち上がった俺は、それから窓際へと向かう。そこには白いカラーボックスがあって、ピンク色の柄をしたカミソリがある。派手なショッキングピンクの柄を右手で持った俺の体は、小刻みに震えていた。左手首を見る。ギュッと目を強く閉じる。ダメだ、これもダメだ。でも。


 俺はブレザーを脱ぎ、左手のシャツを捲って、銀色の刃で肌に線を引いた。

 その線は綺麗だ。同じ場所を前にも同じように切ったから、手本がある感覚だ。

 ただ、回を増すごとに、傷は深くなる。深く切らないと、切った気がしない。

 死にたいわけではないし、この所謂リストカットで死ぬことがあるとも思わない。

 違う。

 俺は、俺はもう、無理なんだ。耐えられない。ギリギリのライン、ブツンと切れてしまいそうなスレスレのところで、必死に勉強をしている。まだ高二、もう高二。受験が近づいてくる。言い知れないプレッシャーは、黒い影で出来た怪物に似ていて、いつも口を開けて俺を飲み込もうとする。そんな時、俺は手首を切る。結果が今回のように悪かった時と、いいや、一位だった時もそれは同様か、一位でもまた次も一位にならなければという強迫観念があって、それで切ってしまうし、そもそもテスト前夜も試験に臨むのが怖くて嫌で逃げたくて切ってしまう。そうしてもどうにもならないことは俺が一番よく分かっているのに、やめられない。だからただ、深度を増していき、紅が溢れる。


「っ」


 カタン、と、音がした。床にカミソリが落ちる。我に返った俺は、愕然とした。

 ああ……また、またやってしまった。ダメだ、ダメなのに。こんなんじゃダメだ。こんなんだから、勉強だって出来ないんだ。俺には、勉強しかないのに。祖父と同じように、父と同じように、いつかは地盤を継いで議員にならなければならないと言われて育ち、それには誰よりも優秀であれと物心つく前から厳しく教育され、躾けられてきたこの俺には、他になにもない。優秀な結果を残すこと以外、存在を証明してくれるものはない。俺が失敗したら? きっと、家族は俺を見捨てたりはしない。優しく接するだろう。『もう無理はしなくていいのよ、あとは邦宏がいるから』と、弟に全ての期待を向けるのだろう。きっと衣食住は保証されるが、家における俺の俺としての人権は消失する。俺は、家族に期待されなくなるのが怖い。いないものとして扱われるのが怖い。


 反面、泣き叫ぶ感情を騒音のように捉えている俺の理性は、機械的に俺の体を動かして、ティッシュペーパーを手に取り血を拭くという作業をさせた。作業だ。治療ではない。この頃になって、やっと少しだけ痛みを感じ始めた。カラーボックスの上の鏡を見れば、眼鏡の奥の俺の黒い瞳は虚ろだった。


「……」


 もう慣れているから、俺は傷口をその後消毒し、ガーゼを貼った。最初は絆創膏一枚でも大きいほどだったのに、今はガーゼでもギリギリ傷が覆えるかというような大きさの痕に変わっている。


「明日の予習……ああ、明日は土曜日か。テスト明けで、完全に休みだったな」


 呟いた俺は、それから窓の外を見た。

 雲の多い空だが、日の光が見える。少し新鮮な空気が吸いたいと思って、俺は窓を開けた。


『Who killed Cock Robin?』


 すると不思議な歌声が聞こえてきた。最初は気のせいかと思い、俺は瞬きをする。


『I, said the Sparrow,』


 ――それは私とスズメが言った。

 頭の中で日本語に訳し、何処かで聞いたなと考える。

 だが曲に聞き覚えはない。


『with my bow and arrow,』


 ――私の弓で私の矢羽で、

 ああ、確か……これは、


『I killed Cock Robin.』


 マザーグースだ。


 ――私が殺した駒鳥を。


 そう納得したが、こんな原曲があるとは思えなかった。俺には音楽のことは分からないが、一度聞いたら忘れないような、そんな曲に思えた。俺は何気なく上を見上げる。歌は上から聞こえてきた。上には屋上しかない。屋上には、下宿の大家さん達家族を除けば、下宿生しか入れない。


「誰か……いるのか?」


 不思議に思った俺は、無性に気になって、部屋を出た。

 一歩一歩、本当に人がいるのか半信半疑で、階段を上っていく。

 屋上に通じるドアのノブに手で触れる。鍵は開いていた。


「!」


 ドアをあけると、正面のフェンスのところで、歌っている姿が見えた。フェンスの前にある台の上に裸足で立ち、背の低いフェンスの向こうを見て歌っている。


 ――飛び降り……?


 焦って俺は、勢いよく走った。この高さから落ちたら、死ぬと思った。分からない。実際には人はそう簡単には死なないのかもしれないが、少なくともこの瞬間俺はそう思った。


「止めろ!」


 大きく声を出し、俺は手を伸ばす。

 すると銀色に染めたふわふわの髪をした、俺と同じくらいの歳の相手が、驚いたように振り返った。そして目を丸くして俺を見ると、ふっと笑った。俺は右手を伸ばす。しかし手が届かなかった。そのまま勢いで左手を伸ばす。すると、その左の手首を、相手が掴んだ。


「ごめんね――」

「自殺なんてやめるんだ!」

「――煩かった? 歌……ん? 自殺? 僕が?」


 相手はそう言って小首を傾げてから、合点がいったというように笑って頷いた。


「ああ、違うよ。僕はただ、歌の練習をしていただけだよ」

「歌の練習……」

「それに自殺というなら、君の方こそ、この手首、痛そうだけど? ガーゼ、真っ赤だよ。もう少しマシな手当をした方がいいんじゃない?」


 誰かにリストカットを見とがめられたのが初めてだった俺は、一瞬で動揺した。

 青ざめた俺は、慌てて手を振り払う。


「……勘違いして悪かった」

「待って。僕の部屋に薬箱があるよ。手当、してあげるよ。行こう。名前は? 僕は葵。君は?」


 ぐいっと詰め寄られて、俺は後ずさる。すると、にやっと笑われた。


「当てようか。山鳩考成くんでしょ?」

「どう、して……」

「隣室の住人の名前くらい、気になって調べるよ。一階の共通玄関に部屋ごとのポストがあるから、すぐ分かる」

「……」

「考成って呼ぶね。僕のことも葵でいいから。苗字で呼ばれるのは好きじゃないから、僕のフルネームが気になるようなら、考成もポストを見たらいいよ」


 堂々とプライバシーの侵害をするよう宣言して笑っているのに、ふんわりとした柔らかな雰囲気を纏っている葵は、不思議と憎めない。身長は俺と同じくらいだから、百七十四センチくらいだろうか。


「さぁ、行こう。僕の部屋、もう君の部屋の隣だって教えたからわかるよね?」


 葵はそう言うと俺の右手を強引に取り、歩きはじめた。足がもつれそうになった俺は、慌ててついていく。なんだか、現実感が薄い。ただ、葵が死ななくてよかったと思った。と、同時に、俺はリストカットについて知られてしまったから、なんと言い訳すればいいか考える。絆創膏一枚で隠せた頃は、街猫に引っかかれたと誤魔化していた。


「……葵、その」

「うん?」


 葵の声は穏やかで優しい。かろやかで弾んでいる。


「料理の……」

「料理?」

「あ、いや……」


 料理中に包丁を落とした。我ながら稚拙すぎる嘘だ。


「……実は自転車を」

「自転車?」

「い、いや……」


 自転車を倒して怪我をした、これも苦しい嘘だ。俺は徒歩通学だ。そもそもこの下宿に俺の自転車はない。


「その、傘が壊れて……」

「大変だったんだね。僕、予備のビニール傘を持ってるよ? でも、今日は曇りだけど雨は降らないみたいだよ」


 微笑しながら、葵が首を傾げる。

 結局言い訳が成功しないまま、俺は葵の部屋へと案内された。同じ間取りだというのに、インテリアが違うだけで、全く違って見える。


「座って」


 俺はラグの上に座らされて、左の袖を捲られた。

 棚の上から救急箱を持ってきた葵は、それをローテーブルの上に置くと、俺の貼ったガーゼに触れた。


「少し痛いかも、我慢してね」

「……」


 俺は何も言葉を見つけられなかった。そんな俺の手首を改めて消毒し、手際よく葵が治療した。そしてガーゼの上に包帯をまいて処置を終えた。ぎゅっと包帯で締められている感覚がする。


「うん。これで大丈夫かな」

「……悪かったな」

「こういう時はお礼を言うべきかな」

「……ありがとう」


 俺は小声で零した。我ながら感じの悪い声だったとは思う。


「心がこもってない」


 どうやら葵も同じ見解だった様子だ。だが俺は、苛立って眉を顰めた。


「注文が多いな。親切の押し売りなら結構だ」

「冗談だよ。さて、珈琲でも淹れようかなぁ。砂糖はいる?」

「……帰る」

「そ? じゃあ、またね。考成、今度遊びに行くね」

「……」


 俺には遊んでいる時間などない。勉強をしなければならないのだから。だが、そうは言わなかったし、そもそも遊びに来るというのは同じ下宿の隣人間の社交辞令だろうと、俺は判断した。


 葵の部屋を出てから、俺は自分の部屋の前に行き、ドアに触れながら俯いた。

 痛みも減ったし、葵の手当の方が優れている。

 だが、それではダメなのだ。


「こんな目立つ巻き方じゃ、周囲にすぐにバレるだろうが。もうすぐ、夏が来るっていうのに。ただでさえ、それだけでリスクはあがるんだ」


 露見する、リスクが。

 ああ……だから……俺は――、


「俺は、これだから俺は、夏の匂いが嫌いだ。嫌いなんだ」


 ドアを開けて部屋に入る。俺の背後で、パタンと音がしドアが閉まった。




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ふうー しんどいね 大人になると 学校なんて ほんとにちっちゃいちっちゃいすごーく狭い世界なのにね 怒るのは誰なのかなぁ 大丈夫よ って抱きしめてあげたいね 夏は嫌だね
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