6 実に不思議な死体です。
「何がって?」
首を傾げていると、ジュリはドレッサーから手鏡を取り、私へ差し出した。
……鏡。嫌だな。醜い自分をわざわざ見たくなんてない。それでもジュリの指示で毎朝一回は、目玉が落ちていないかなとか、歯が全部揃っているかなとか確認しているけど。
夜も見なきゃいけないってことは……半日の間に、顔によっぽどの変化があったんだわ。
恐る恐る覗き込んだ手鏡の中には、怯えた表情をした自分が映っている。
うん……いつも通り醜い。老婆みたいな髪に、死んだ魚のような目。だけど目玉と歯はあるし、特に腐敗も進んでいない……あれ。
「お分かりですか?」
分かる……分かるわ。骸骨みたいに痩せこけていた頬っぺたに、お肉がついてふっくらしている。透けてしまいそうな程白かったのに、ほんのり赤みまで差して。
もしかして、腐敗して膨れちゃった?
心配になり指でそっとつまめば、ガスなんかじゃなくて、厚い肉と張りのある皮膚の感触がちゃんとあった。
どうしてかしら…………あっ!
「何があったのですか?」
口を押さえていると、さっきと同じ質問が投げられる。私は思い当たることを正直に答えた。
「魔法の……キャンディを食べたの」
「魔法の?」
「ええ」
テーブルに手を伸ばし、虹色が輝く硝子の小物入れを引き寄せた。
「この家のお坊っちゃまに頂いたの。身体が温まるからって。魔力が込められているみたいよ」
「キャンディを……舐めたのですか? 唾液が出ないのに?」
「ええ。すごく美味しくて、思わず口に放り込んでしまったのだけど、舌の上でスッと溶けてくれたわ」
「美味しかった……溶けた……拒絶反応もなく?」
「ちっとも。夢中で二つも食べてしまったわ。しばらくしたら、身体がとても温かくなっていたの」
ジュリは丸い目で、私と小物入れを交互に見る。
「貴女にも味を見てもらいたいんだけど……これは最後の一個だから、大切に取っておきたいの。ごめんなさい」
それには答えず、ジュリは冷静な声で言った。
「……とりあえず、お身体を診てみましょう」
いつもより丁寧に身体を診ながら、メンテナンスをしてくれるジュリ。かざしていた手を下ろすと、難しい顔で唸り出した。
「実に不思議ですね……確かに死体であることに変わりはないのですが。魔力で、死んだ細胞の一部が生き返っています。体温調節が出来るようになったのも、ふっくらされたのもその為でしょう。……恐らく一時的なもので、しばらく経つと元に戻ると思います」
「じゃあ、ずっと食べ続けたらどうなるの?」
「それは……」
私達は顔を見合わせた。
◇◇◇
実に不思議な娘だ……
手元のランプだけが灯す薄暗い執務机で、キリルは考えていた。
二度も勝手に自分の庭まで来た息子に対し、窘めつつも温かく接してくれたという。
私にも非難めいた報告をする訳ではなく、彼にとって……幼い子供にとって、それがいかに楽しい冒険だったかを、優しい顔で語ってくれた。
『でしたら……どうか叩くことは止めていただけませんでしょうか? お食事を抜くことも』
まさか侯爵令嬢が、親に叩かれ、食事を抜かれて育ったというのだろうか。……金と引き換えに、未婚の娘を後妻にと差し出す親ならあり得るかもしれない。しかもたった一年間の契約結婚。この国では、離縁された女性は世間から非常に厳しい目で見られるというのに。元々病持ちだから構わないとでも?
キリルは椅子の背もたれに身体を預け、険しい顔で天井を見上げる。
……今日、ヘリオスのキャンディを嬉しそうに握り締めていた彼女は、初めて年相応に見えた。
まだ17歳……人生で一番華やかで眩しい時期だろうに。病を抱えながら、こんな辺境の十二も歳の離れた子持ちの男の元へ嫁がされ……契約結婚であることは覚悟の上だろうが、部屋に閉じこもれという酷な条件まであっさり受け入れてしまった。
一年後、自分と離縁した後は、実家で肩身の狭い思いをしなくても済むように、良い嫁ぎ先を見つけてやりたい。病や容姿で差別せず、彼女の内面を見て大切にしてくれるような、そんな男と再婚出来たらと思う。
……少し難しいかもしれないが、弟に任せれば問題ないだろう。
身体を起こし、残りの仕事を片付けてしまおうとペンを取った時、ドアの向こうから従者の声が控えめに響いた。
「失礼致します。奥様の侍女が、旦那様にお目通り願いたいとのことですが」
背筋を伸ばし執務室に入って来たのは、襟の詰まった地味な灰色のドレスを着た女。前髪から後れ毛まで、その黒髪は一本も乱れることなく、全て一つに纏められている。平らな額ばかりが目立つ素朴な顔立ちと、落ち着いた身のこなし。セレーネ嬢の侍女兼医師という彼女は、主と同様、自分よりもずっと年上に見えた。
「夜分に申し訳ありません。ヘリオス坊っちゃまがお嬢様に下さったキャンディのことで、少々お伺いしたいのですが」
キリルはああと理解し、ジュリに向き合う。
「やはり身体に合わなかったか?」
「いえ……逆にお身体の調子が良くなられたと仰っています。いつも冷え性だったのに、体温が上がり、お顔の血色も良くなられました」
「そうか。それは良かった」
「つきましては……毎日召し上がっていただき、お身体の状態を診させていただきたいと考えておりまして。もし可能でしたら、同じキャンディを沢山頂きたいとお願いに参りました」
「分かった。明日息子に用意させよう」
「……ありがとうございます」
案外すんなりもらえた返事に、ジュリは安堵する。
“聖なる日” 以外は息子に会うなと契約妻に命じたらしい辺境伯が、息子の魔力を契約妻の為に使うことに対しては抵抗がないようだと。
キリルはキリルで……一瞬緩んだジュリの表情を見て、彼女は意外と若いのかもしれない、などと考えていた。
頭を下げ部屋を出て行こうとするジュリを呼び止め、キリルは机の引き出しから、小ぶりの篭を出して手渡した。中には、茶色や黒の紙に包まれた、小さな四角い菓子のようなものが入っている。
「私の携帯食だ。キャンディではなくチョコレートだが……これにも息子の魔力が込められているから、とりあえず持って行くといい。キャンディよりもすぐ溶けるから、不味くても食べやすいだろう」
「不味い……のですか?」
「ああ。セレーネ嬢もそう言っていただろう?」
「いえ……むしろ、美味しくてスッと溶けてしまったと」
目を合わせ、きょとんと首を傾げるキリル。
辺境伯のその意外と柔らかな雰囲気に、ジュリは勇気を出して尋ねてみた。
「あの……お坊っちゃまの魔力というのは……」
◇◇◇
翌朝、日が昇ると同時にドレッサーの鏡を覗いたけれど、ふっくらした頬はそのままだった。
キャンディを食べてから大分時間が経っているのに……すごいわ。
テーブルには、夕べジュリが辺境伯様から頂いたというチョコレートの篭。
これもキャンディみたいに美味しいのかしら、と胸をときめかせていると、給仕が朝の水を運んで来た。
またお花に飲ませてあげましょうと、トレイをぼんやり見下ろせば、ピッチャーとグラスの間に、これまでとは違うものが載っているのに気付く。
「あのっ……これ」
手に取り声を上げるも、ドアはパタリと閉じてしまった。
……手紙?
封筒に書かれた自由な愛らしい文字を見て、私はくすりと笑った。