5 温かい死体です。
今朝もコップを手に庭へ向かい、昨日と同じように、花壇の花達に水を飲ませる。だけど、そこにはもう、マリーゴールドは一株もなかった。
……昨日、辺境伯様が部屋を出て行かれた後、すぐに庭師が来て、花壇を “整えて” いった。マリーゴールドが咲いていた場所には、今は別の黄色い花が遠慮がちに風に揺られている。
何故マリーゴールドの代わりに別の花が植えられたのか、何故マリーゴールドではいけなかったのか。その理由を知ることもなく、私は一年後にはこの部屋を去るのだろう。
帽子の広い鍔の下から薄目で空を見上げるも、今日はカラスは飛んでいない。……落とし物がなければあの子もここに来ることはないわね。お父様に注意されてしまったでしょうし。
ホッとするも、言い様のない寂しさを感じていた。
空のコップを手に立ち上がった時、タッタッタッと元気な足音が近付いて来た。
まさか……
顔を上げれば、柵の向こうに、昨日と同じ温かな気配を感じた。
どうすべきかとその場に立ち尽くしていると、柵の下からあの小さな手が伸びる。虹色の丸い何かを幾つか芝生の上に置き、すっと引っ込んだ。
「これ、あげます。美味しくないかもしれないけど、身体があったかくなる魔法のキャンディですよ」
高く可愛い声に引き寄せられ、私は柵の前にしゃがんだ。虹色の紙に包まれたそれはキラキラと輝いて見え、思わず痩せた掌に乗せてしまう。いけないと分かっているのに、綻んだ口元から自然と声が出てしまった。
「キャンディ……私に下さるのですか?」
「はい。この間、お指がとても冷たかったので」
「……ありがとうございます」
温度などないはずの包み紙から、じわりと温もりが広がった。
「あの……僕の新しいお義母様ですよね? 昨日はちゃんとご挨拶しなくてごめんなさい。僕、ヘリオスと言います」
「……私はセレーネです。よろしくお願い致します」
「よろしくお願いします」
柵越しに可愛い笑顔が見えた気がして、自分もつい微笑み返してしまう。
「ここに来てはいけないと、お父様に注意されませんでしたか?」
「はい、されました。秘密の抜け道を全部塞がれてしまったので、今日は柵や木の上を乗り越えて来ました」
「まあ! お怪我はありませんでしたか?」
「はい。とても楽しかったです。お父様はまだ僕を小さな赤ちゃんだと思っているので、こんなことが出来ると知ったらビックリすると思います」
ふっと漏れてしまった笑い声に、彼もつられて笑ってくれる。でも……
「私はお父様に、今日のお坊っちゃまの素敵な冒険をご報告しなければなりません。お父様とお約束致しましたので」
「……はい」
しょんぼりした様子に、胸がキュウっと締め付けられる。でも、すぐにハキハキとした声が届いた。
「じゃあ僕も、お父様にちゃんとお話しして謝ります。約束を破ってしまいましたので」
「……そうですか」
「僕、これからは簡単に約束をしないことにします。自由がなくなってしまいますから」
「約束は自由を奪うだけではありませんよ。大切な人の安全を守ったり、居場所を保障したり。……私は、約束が羨ましいくらいです」
するりと溢れてしまった言葉。お坊っちゃまは少し考えると、真っ直ぐに答えてくれた。
「……難しいので、よく考えてみます」
可愛くて、快活で、そしてとても利発な子。
「次の “聖なる日” に、お会いするのを楽しみにしています!」
遠ざかる足音に手を振りながら、「私も」とハッキリ呟いていた。
◇
ジュリに頼み、執務室へ伺う許可を得ようとしたけど、また辺境伯様の方から部屋に来てくださった。
私の容姿のことは受け入れてくださっているようだけど……この部屋から出ることは、やはり快く思われないのだろう。
ソファーに向かい合うと、今朝のお坊っちゃまの素敵な冒険譚を語った。辺境伯様は「仕方ないな……」と呟き息を吐くものの、怒っている様子はない。ホッと胸を撫で下ろし、その瞳を覗けば、アイスブルーの奥に温かいものが差していた。
私は膝の上で大切に握り締めていたものを、テーブルに置いた。
「お坊っちゃまが私に下さったものです。身体が温まる魔法のキャンディだと。……申し訳ありません。お気持ちが嬉しかったので、思わず受け取ってしまいました。お返しするのは忍びないので、辺境伯様に預かっていただいてもよろしいでしょうか?」
「……あの子が貴女へ差し上げたのでしたら、私が預かるべきではありません。魔力が込められているので美味しくはないと思いますが、もし貴女のお身体に合うようなら是非。ご無理はなさらないでください」
「……はい! ありがとうございます」
もらってもいいの?
嬉しくて嬉しくて。可愛い虹色を掌に掬うと、両手でギュッと握り締めた。
一人になると、早速虹色の包み紙を開け、中身を取り出してみる。コロコロとした丸いそれは、包み紙と同じ虹色のキャンディだった。鼻を近付ければ、ふわりと甘い香りが漂う。
唾液の分泌がほとんどない今の状態では、キャンディを舐めることは難しいだろう。それでもどうしても味わってみたくて、水で湿らせた舌で、少しだけ舐めてみた。
……いつものような、食べ物に対する拒絶反応がない。
それどころか、死んでいるはずの細胞がざわざわと動き出し、もっともっとと求めているような気がした。
ひと舐め……もうひと舐め……と味わう内に、痺れるような甘さが広がっていく。美味しくないどころか、今までに食べたどんなものよりも舌が喜んでいるのが分かる。
堪らず丸ごと口に放り込んでしまったが、唾液はなくても、すうっと溶けては沁みていく。沁みては溶けて、溶けては沁みて。
あっという間に空っぽになってしまった口。気付けばもう一つの包み紙を開けて、新しい虹色を放り込んでいた。
最後の一つだけは何とか開けずに我慢すると、硝子の小物入れに大切にしまう。それをテーブルに置きしばらく眺めた後、裁縫箱から、空色の布と七色の刺繍糸を取り出した。針を持とうとした指先に、違和感を覚えピタリと止める。
…………温かい?
手を開いたり握ったりを繰り返す。
気のせいなんかじゃない。確かに身体の内側から、熱が発せられているのだわ。
硝子の中の虹色に再び視線を移せば、キラキラと嬉しそうに輝いて見える。
そういえば……あの子の指先にもキャンディにも、確かに温もりを感じた。痛みだけでなく、温度の刺激にも鈍い死体のはずなのに。
……もしかしたらあの子は、すごい魔力を持っているのかもしれない。
温かい指先が導くままに、私は幸せな絵を描いていった。
◇
その夜、メンテナンスの為部屋にやって来たジュリは、私の顔を見るなり目を瞠った。
「……お嬢様、何があったのですか?」