4 痛みを感じない死体です。
どうして……? 刺繍に何か問題が? それとも刺繍をしたこと自体がいけなかったのかしら。
部屋にあったから勝手に使ってしまったけれど……許可を取らなければいけなかった?
恐怖の中、身を縮こめて考える私に、辺境伯様は掲げた布を揺らしながら問う。
「この絵は何だ」
絵……? 絵は……黄色とオレンジ色で花びらを、緑色で葉を描いたマリーゴールド。その隣には、カラスが落としていった、あの子の大切な “金色の何か” を描いた。お菓子みたいな形の…………あっ……!
「……申し訳ありません。今朝、中庭でお坊っちゃまに接触してしまいました」
辺境伯様の顔が一層険しくなる。
「どういうことだ」
「中庭で……散歩をしておりましたら、カラスが金色のものを花壇に落としていったのです。お坊っちゃまはそれを返して欲しいと、大切なものだと仰ったので、柵越しにお渡ししてしまいました。話してはおりませんし、顔は見られていないと思いますが……勝手なことをしてしまい申し訳ありませんでした」
「何故それを、わざわざ刺繍に?」
「……分かりません。気付いたら描いていました。……申し訳ありません」
辺境伯様は私の手首を解放した。さっきまでの怒気はすっかり消え、代わりに哀しい影のようなものが彼を包んでいる。
「……息子にはよく注意しておきます。約束を破って、越えてはいけない場所まで侵入したのですから。事情も訊かずに、感情的になってしまい申し訳ありませんでした」
「いえ……」
逆に謝られてしまったことに驚く。
もっと怒られるかと思ったのに……最悪体罰も覚悟していたのに。体罰……! ああ、どうしよう。
「あっ、あの、お坊っちゃまをお叱りにならないでください」
「え?」
「あの……カラスは光る物を好みますから。大切なものを取られてしまったので、追い掛けるしかなかったのだと思います」
「……理由はどうあれ、約束を破ったことは事実です。きちんと注意しませんと」
「でしたら……どうか叩くことは止めていただけませんでしょうか? お食事を抜くことも」
あんなに小さい子が、自分と同じ目に遭うと考えただけで胸が苦しくなる。
私の必死の訴えに、アイスブルーの瞳が瞠られた。
「……そんなことをする訳ないでしょう。まさか、貴女のご実家では、親が子供に体罰を行っていたのですか?」
親が……子供に? 違うわ。お義母様だけでなくお姉様達も……使用人達もよく隠れて私を殴った。悪いことをしたら体罰を受けなければいけないと、そう思っていたけれど。
答えられずにいると、辺境伯様は厳しい口調で言った。
「我が家では、子供にはもちろん、使用人にも決して体罰を与えることはありませんよ。注意すべきことがあるのなら、言葉で伝えます」
「そう……なのですか。出過ぎたことを言って申し訳ありませんでした」
「……いえ」
あの子が痛みにも、空っぽのお腹にも耐えなくて良いと知り、とりあえずホッとする。
下を向いていると、足音が自分から離れ後方へ向かった。恐る恐る振り向けば、辺境伯様が中庭へ出て花壇を見下ろしている。黒いシャツのせいか……陽の中で佇むその姿は、濃い影みたいにぽっかりと浮かんで見えた。
「後で庭師を呼んで、花壇を整理させます」
整理? あんなに綺麗に咲いていたのに?
何も訊いてはいけない雰囲気に、ただ「はい」とだけ答えた。
部屋へ戻って来た辺境伯様は、私にソファーを勧めた。
向かい合って座ると、先程口にしていた “聖なる日” について話し出す。
「毎月、聖なる日の夕食には、私と貴女だけではなく息子も同席させます。普段の接触は禁止させていただきますが、大切な日だけは特別に三人でと思いまして」
三人? 辺境伯様だけでも意外なのに、お坊っちゃまも?
……毎月二十日の “聖なる日” 。それは我が国の主神の月誕生日で、特別な事情がない限り、夜は家族揃って食卓を囲み、神に深い祈りを捧げるという風習だ。この風習を守ることで、神の加護を受け、一家に繁栄がもたらされると言われている。
母が生きていた頃は、温かな食卓で共に祈りを捧げたが、父に引き取られてからは一人で過ごしていた。
侯爵家の誰にとっても、私は “家族” ではなかったから。
「貴女は昨日、ご自分の容姿が息子の傷になると仰っていましたが、そのようなことはありません。この領地は三国が隣接しており、貴女がお育ちになったサフライ領よりも、大勢の外国人が行き交います。いずれこの領地を受け継ぐ者として、息子には多様性を受け入れ、偏見の目を持たないようにと教育しております。……貴女との接触を禁じているのも、私の個人的な理由からで。決して貴女の容姿が理由ではありません」
昨日と同じく、気味の悪い自分を真っ直ぐに見つめてくれる。その眼差しから、彼の優しさが伝わった。
「私は北方出身の母の血を引いており……元々異様なので偏見の目には慣れております。ですが今の見た目は、病を患った為で……見るに堪えないと思われますが」
「でしたら尚更です。病に苦しむ人の容姿を差別する者が、人の上に立てる訳がないでしょう。……私の妻も身体を悪くして亡くなりましたので。幼くも病に寄り添ったあの子ならば、理解し受け入れると信じています」
『髪も瞳も変な色。見たことがない』
『……この色で男を誘惑するのよ。人の夫を盗んだ、泥棒猫の娘だからね』
『何でお父様はこんな子を引き取ったの?』
『決まっているじゃない。また誘惑されたのよ』
『母親だけでなく娘まで……ああ、本当に気持ち悪い』
髪は黒か茶系、瞳は青系の人がほとんどのこの国では、異様すぎた自分の容姿。
金色の髪に金色の瞳。醜いそれは、義母達に酷く疎まれた。
引き取った当初は私を気に掛けてくれていた父も、義母の当たりが余計に強くなることを知ると、私と距離を置くようになった。
一度死んで、黒魔術で蘇った私の身体は、激しい副作用に襲われた。金色の髪は老婆のように、瞳は死んだ魚のように。生前よりも、もっと醜い姿になってしまったのだ。
変わらなかったのは、栄養失調と病で痩せ細っていたこの身体と……この心で。
『 “家族” を救う為に、辺境伯の元へ嫁いで欲しい』
蘇った自分に放たれた、父の残酷な言葉。安らかに眠ることも許されなかったその理由に、心が激しく痛んだ。
でも、やっと役に立てるのかもしれない。私がお姉様達の代わりに、一年間の契約結婚を務めて家を立て直すことが出来れば。そうしたらお義母様も、私を家族だと認めてくださるかもしれない。
そんな想いだけで淑女教育を受け、馬車に乗り込んだのだった。
「食事は無理に摂らなくて構いません。同じ食卓で共に祈りを捧げていただければ」
「……本当によろしいのでしょうか?」
「ええ。たとえ一年間の契約結婚でも、法律上貴女は “家族” ですから」
ずっと欲しかったその言葉が、温かく……そして哀しく響いた。
ソファーから腰を上げると、辺境伯様は私の手首に視線を落として言う。
「……さっきは申し訳ありませんでした。痛みはありませんか?」
「いいえ、何ともありません。お気遣いありがとうございます」
……身体は痛くないのよね。死体だから。