35 恐怖と闘う死体です。
「「……セレーネは」」
長い沈黙の後、兄弟の口から同時に出た同じ言葉。その表情から、自分が言おうとしたことと弟が訊こうとしたことは同じだと感じ、兄は先を続けた。
「セレーネは部屋で休んでいるよ。体調も良さそうだし、今のところ見た目も変わらない」
「そうですか……なら安心しました」
気まずい顔で笑い合い、またしばしの沈黙をやり過ごした後、今度はハーヴェイが口を開いた。
「……情けないな。さっきまでは覚悟を決めていたのに、いざ兄上を前にすると怖気づいてしまって」
「私も同じだ。こうして緊張する程、互いに大事な何かを抱えているということだな。……よし、ここは勇気を出して、兄である自分から話そう」
膝をポンと叩き気合いを入れると、キリルはジャケットの内ポケットからある物を取り出した。
「以前、セレーネからお前にと預かっていたものだ。うさぎやダンスの礼にと」
濃紺の絹地に舞う、銀の鳥と羽。一目でセレーネの手作りだと分かる、温かで美しいハンカチを受け取ると、ハーヴェイは空色の瞳を輝かせる。キリルはそれを見て、ふうとため息を吐いた。
「……お前のその瞳が怖かったんだ。セレーネを奪われてしまうのではないかと」
弱々しい兄の口調に、ハーヴェイはハンカチから顔を上げる。
「せっかく彼女が心を込めて作ったのに……何も訊かれないのをいいことに、今まで渡せなかった。遅くなって申し訳ない」
下げられた兄の頭とハンカチを交互に見る内に、ハーヴェイの口はぽかんと開いていく。やがて堪えきれず、ハンカチの陰でぷっと噴き出した。
「……ハーヴェイ?」
「いえ……すみません。兄上が抱えていた何かがこれだったのだと思うと……すみません」
ハーヴェイは呼吸を整え、込み上げる笑いを逃しながら、兄に向かう。
「これを渡していたところで、どうにかなんてなる訳ありませんよ。私と逢った時にはもう、セレーネの気持ちはとっくに、兄上にしか向いていなかったんですから。……兄上の気持ちもね」
「そう……なのか?」
「そうですよ。もどかしいくらいに。……まあ、少しでも嫉妬してくださったなら、私の哀れな恋心も報われます。その調子だと、兄上はまだセレーネから贈り物をもらったことがなさそうですし。ヘリオス以外の男性で手作りの品をもらったのは、私が “初めて” ということですね」
鳥の刺繍に唇を寄せながら、軽く挑発するハーヴェイ。キリルの眉間に皺が寄るのを、楽しげに眺めている。
「お先にすみませんが……これは私が頂きますよ。セレーネが私の為に作ってくれた物ですからね」
ハンカチを広げ天井の照明にかざせば、鳥がふわりと羽ばたいた。
「うん……本当に綺麗だ。私も自由に空を飛べそうな気がします」
ハーヴェイは微笑み、ハンカチを丁寧に畳むと、胸ポケットに入れる。羽を休める鳥を、ポケットの上から押さえると、澄んだ空色で兄を見据えた。
「……私も兄上にお詫びしなければいけないことがあります。赦していただけるとは思っていませんし、自分が楽になる一方で、余計に兄上を苦しめてしまうかもしれません。ですが……セレーネがきっかけをくれました」
「セレーネが?」
「はい。今から私が打ち明けることは、今回の “治療” に役立つと思ったので」
ゴクリと息を呑み次の言葉を待つキリル。ハーヴェイはついに長年の苦しみを吐き出した。
「兄上と同様、私には恐ろしい魔力があります。 私は…… “よい” と “よくない” のオーラだけでなく、人の寿命まで視えてしまうのです。16歳の時、熱病で生死を彷徨って以来、ずっと」
恐怖と戸惑いを浮かべる兄に、ハーヴェイは今にも泣き出しそうな顔で続ける。
「アイネに初めて出逢った時から、私の眼には彼女の短い寿命が視えていました。それでも彼女に惹かれ、友人となり、兄上に引き合わせてしまったのです。もし寿命が視えることを……彼女の寿命を伝えていたら……彼女との結婚も、若過ぎる死もどうにかして防げたのではないか。そう自分を責めて、責められるのも怖くて」
ぐっと言葉に詰まるも、胸を強く押さえながら絞り出す。
「アイネを殺したのは、兄上ではなく私かもしれない。なのに……ご自分を責めて苦しまれている兄上を見ても、怖くて真実を言い出せませんでした。謝って赦されることではありませんが……本当に、本当に申し訳ありませんでした」
頭を垂れ、肩を震わせる弟は、自分と同じく大柄なのに随分小さく見える。強張っていたキリルの身体からは力が抜け、ソファーの背もたれにぐったりと身体を預けた。
「……なんだ、そうだったのか」
ハーヴェイの耳に降ってきたのは、予想外に柔らかな言葉。激しい糾弾を覚悟していた彼は、恐る恐る顔を上げるが、兄の薄い唇から連なるのはやはり柔らかな言葉だった。
「寿命は神の定めなんだから……たとえ知っていたとしても、どうすることも出来なかったよ。アイネを愛する気持ちも、死も、きっと止められなかった。逆に知っていたら、抗ったり足掻こうとして余計に辛かったと思う。だから、知らなくて良かったんだよ」
ゆっくり身体を起こすと、キリルは目を伏せ呟く。
「そうか……アイネは寿命だったのか……そうだったのか……」
やがて、怯える弟へ優しく微笑み掛けると、手を伸ばし、その緩やかなウエーブの黒髪を撫でた。
「ずっと怖かっただろう。視たくないものを、誰にも言えずに抱え込んで。気付いてやれずに……一人で背負わせてごめんな」
幼い頃と同じ兄の仕草に、空色の瞳からどっと涙が溢れる。手の甲でそれをごしごしと擦る仕草に、泣きながら自分の後を付いてきた幼い弟を重ね、アイスブルーの瞳からも涙が溢れた。
重荷を下ろした兄弟は、ワインで満たされたグラスを手にする。泣き腫らした目から交わされる視線は、夜明けの空のようにスッキリとしていた。
「……お前の魔力は、確かに “治療” に役立ちそうだな」
「でしょう? 過不足がないように、この眼でしっかり視て差し上げますよ」
妖しい空色を得意気に指差すハーヴェイに、キリルは苦い顔をする。
「……セレーネが今までに受けた仕打ちを思うと、出来るだけ同じように……いや、それ以上に苦しめてやりたいと思ってしまうんだ。この魔力といい、私は悪魔かもしれないな」
「悪魔で結構じゃないですか。セレーネが幸せになるのなら、悪でも善でも構いませんよ。力を合わせて、 “最善の治療法” で攻めましょう」
二人はニヤリと笑うと、グラスを合わせ一気に飲み干す。残酷な色が浮かぶ、兄弟の瞳。だが、夜空の月も星も……美しい悪魔達を咎めるどころか、煽るように輝きを増すばかりだった。
◇◇◇
旅の二日目から、馬車の車内はとても賑やかになった。
キリル様と私はもちろん同じ馬車だけど、メンテナンスの為そこにジュリが加わったり、退屈だからとハーヴェイ様も加わったり。
結局旅路も後半になると、四人で一台の馬車に乗ることが多くなった。ご兄弟の可愛い昔話から、事業の失敗談からの逆転劇、外国に旅行した時のちょっぴり恥ずかしい話など。ハーヴェイ様の巧みな話術で、表情が出にくいジュリでさえも、時折声を上げて驚いたり、涙が出る程笑ったり。
奇妙な一行を包むこの和気藹々とした雰囲気に、私は可笑しな幸せを感じていた。
もし奇跡が起こって、私の細胞が生き返ったら……
今度はヘリオスも一緒に、どこかへ行きたいな。遠くじゃなくて、近くの野原やお屋敷の庭でもいいの。お日様の下で、お弁当を広げてピクニックしたり、思い切り走って追いかけっこをしたり。くたくたに疲れたら、好きな物をお腹一杯食べて、明日が来ることを信じてぐっすり眠る。
……そんな贅沢過ぎる未来を見てしまう。
『……一つだけ、治療の効果を高める為に、お嬢様に約束していただきたいことがございます。本日の昼食以降は、お坊っちゃまの魔力を摂取しないでいただきたいのです』
『……食べちゃ駄目ってこと?』
『はい。お坊っちゃまの魔力にも死んだ細胞を生き返らせる効果がありますから。体内からお坊っちゃまの魔力を減らし枯渇させることで、お嬢様のお身体がより積極的に、別の魔力を吸収しようと働くのではないかと』
『見た目が……醜くなってしまうわね』
『……どのくらいで変化するかは分かりませんが。ですが、辺境伯様を信じて、お心を強く持ってください。どうしても折れそうになったら、ご自分に置き換えるのですよ、奥様』
白いものが交じり始めた金髪は、キリル様が買ってくださった、ベール付きの美しい帽子の中に纏められている。
厚いベール越しにチラリと隣を見れば……キリル様は、変わらぬ笑みを私に向けてくれていた。
◇
いよいよ、午後には王宮に着くという日。
朝、日が昇ると同時に鏡を見た私は、その気味の悪い姿に愕然とした。
髪は老婆のように真っ白で艶がなく、金色は一本も残っていない。病的に白い頬は、痩せこけているどころか、ところどころ皮膚も肉も失われ骨が見えている。金色の瞳は、死んだ魚のように斑に濁るだけでなく、眼窩からギョロリと半分飛び出してしまっている。
歯も全てがぐらぐらと頼りなくて、何とかそこに留まっている状態。おまけに臭いも……
バッグを漁り、嫁いだ時に持ってきた消臭効果のある香水を必死に振り掛けると、力尽きてその場に座り込む。
予想はしていたけれど……嫁いできた時より悪化しているわ。
どうしよう……怖い……見られたくない……
震える手で、旅の間肌身離さず持っていた、小さな二つの紙包みを取り出す。
一つは虹色、一つは金色の。
涙の一滴も流せないことに更に恐怖が募り、迷わず虹色の紙を開く。ころんと飛び出した虹色のキャンディを、骨同然の指で口元に近付けた時────
遠慮がちなノックと共に、愛しい声が響いた。
「……セレーネ」




