32 生きたい死体です。
もつれる足を必死に繰り出し、セレーネの部屋に飛び込むキリル。侍女達がおろおろと取り囲むソファーからは、金色の髪がダラリと無機質に垂れている。
「セレーネ!!」
主の声に、さっと捌ける侍女達。駆け寄り腕に抱いた白い身体は、氷のように冷たく、呼吸も弱々しい。キリルの顔からは血の気が引き、セレーネに負けぬ程青白くなっていった。
「ジュリ……ジュリは?」
「部屋に居ないのです……午後に出掛けたきり帰っていない様子で。今屋敷中を探しておりますが」
震えながら答える侍女長に、キリルは声を張り上げる。
「私の主治医を呼べ……今すぐに!」
侍女長はほとんど声にならない返事をすると、転がるように部屋を出て行った。
◇
セレーネの全身を診た医師は、心臓の上で止めた手を、カタカタと震わせている。
「……どうだ?」
縋るように問われ、医師は絡まる唾を何とか飲み込み、言葉を発した。
「……奥様には、生活反応が一切ございません」
今度はキリルが、唾をゴクリと飲み込んだ。
「何を……呼吸しているじゃないか!」
「魔力で無理やり心臓を動かし、無理やり呼吸しているだけです。恐れながら……亡くなったお身体を無理やり動かしているだけで、本当に生きている訳ではございません」
「魔力……どういう意味だ?」
返答を躊躇う医師に、キリルはあることを察するも、心がそれを否定したがっている。
上下する妻の胸元。その呼吸と呼吸の間隔は、今にも止まりそうな程……生きている人間ではあり得ない程に長い。
勢いよくドアが開き、帰宅したばかりのハーヴェイが血相を変えて飛び込んで来る。ベッドで眠るセレーネと、傍らの医師を見ると、顔に恐怖を浮かべ叫んだ。
「……ジュリは!?」
「出掛けたきり帰って来ない。屋敷中……どこにもいない」
「兄上、すぐに兵を使って探し出してください。領外へ出さないように、早く」
キリルは立ち上がり、虚ろな目を弟へ向ける。
「ハーヴェイ……お前は何を、どこまで知っているんだ? セレーネは一体」
混乱する兄を見て、ハーヴェイは一旦深く目を閉じる。そして、浅く開きながら冷静に告げた。
「セレーネは……既に死んでいます。セレーネは、黒魔術で蘇った死体なんです」
黒魔術…………
恐れていた答えに、キリルは再びふらりと椅子に座り込む。
重く静まり返った部屋。昏々と眠るセレーネを見下ろしていると、突如、彼らの背後で空気が一変した。
振り返れば、全身汗だくのジュリが、はあはあと息を切らしながら立っている。誰も、何も目に入っていないのか、ただ一目散にセレーネの枕元へ駆け寄ると、その蝋人形のような身体に手をかざした。
「お嬢様……お嬢様……! 申し訳ありません……申し訳……お嬢様……どうか……申し訳ありません」
何度も何度も謝りながら、慣れた手つきで魔力を送っていく。少しずつ呼吸が安定し、白い頬に赤みが差すと、ジュリの目からほろりと涙が零れる。とくとくと一定のリズムを取り戻した胸元へ突っ伏すと、わあと声を上げ泣きじゃくった。
◇
メンテナンスを怠り、生きている人間で言えば一時的に昏睡状態に陥った為、目覚めるまでに少し時間が掛かるとジュリに説明される。
セレーネを侍女長に任せ部屋を移ると、ジュリは兄弟に全てを自白した。
禁忌の黒魔術を使った父を守る為、バラク侯爵と共に黒魔術でセレーネを蘇らせ、メンテナンスを続けてしまったこと。ハーヴェイに秘密を知られ、怖くなり逃げようとしたが、結局はセレーネを見捨てられずに戻ってきたことを。
ハーヴェイは腕を組み、深く頷きながら問う。
「黒魔術でセレーネがあんなに生き生きと蘇ったのは、魔力を吸収しやすい特異体質だからか?」
「……はい。その通りだと思います。高度な父の魔力を以ってしても……母は非常に不完全でしたから。同じく黒魔術で蘇ったのに、お嬢様とは違い、感情も五感も取り戻すことは出来なかったのです。もちろん喋ることも。
父は人形を愛でる感覚で、母の死体と共に暮らしていました。間違っていると分かっていたのに……父の胸中を思うと何も言えなくて。娘なのに止められず、申し訳ありませんでした」
母親の死体を愛でる父親。その異様な家庭で育った彼女の苦悩を思い、兄弟は言葉を失う。
「父娘共々、罪は必ず償います。もうどこにも逃げません。ですから……どうかお嬢様が棺に戻られるまでは、お傍に居させていただけないでしょうか? 犯罪であることは重々承知しております。ですが……少しでも長くお傍に居られるように、限界までメンテナンスを続けさせてはいただけないでしょうか?」
床にひれ伏すジュリ。震えるその背中は、兄弟の目に、まだとても幼く映った。キリルは彼女の言葉には答えず、手を差し出して優しく立ち上がらせる。ほつれた髪がパラパラと掛かるその顔は、こうして改めて見てもやはり幼い。
「棺……か。セレーネは本当に死体なんだな」
ふっと笑いながらジュリの傍を離れたキリルは、窓辺に立ち、星が瞬く空を見上げる。パクパクと開く薄い唇からは、苦しげな言葉が吐き出され、硝子を白く曇らせた。
「……出会った頃から、未来なんてなかったんじゃないか。それなのに未来ばかり見て、未来に怯えて……馬鹿だな……私は」
キリルは両手に拳を作り、弱い自分を握り潰す。やがてゆっくり振り向き、涙だらけの少女へ微笑い掛けた。
◇◇◇
ここ……は?
高くて広い天井。きっと立派なお屋敷に違いない。それなのに……自分の家の、自分の部屋だなんて、図々しいことを思ってしまうのは何故だろう。私の居場所は、いつも暗くて狭かったはずなのに……不思議ね。
何度か瞬いている内に、ふと人の気配に気付く。少しずつ、そちらへ首を動かせば、よく似た二人の男性が涙目で自分を見下ろしていた。
綺麗な人達ね……兄弟かしら。
ぼんやりした意識の中、自分へと伸ばされる、よく似た二つの手。心に導かれるままに、その一つを握った瞬間、全身をビリッと熱が駆け抜け、一気に霧が晴れた。
「キリル……様」
初めて口にした愛しい名に、涙がどっと溢れ出る。このまま、また眠ってしまうかもしれない、これが最期かもしれないと思うと、怖くて怖くて……悔しくて。
「私……死んでなんかいない……ちゃんと生きているわ……私、生きたいの」
証明したい。その一心で、上半身を起こしてみせる。
「ずっと……キリル様の傍に居たい。明るい星を見ていたい。あの家には……戻りたくない。あんな暗い棺になんか……二度と戻りたくない……!」
キリル様の目からも涙が溢れている。憐憫……同情……? 涙の意味がどうであれ、私の為に泣いてくれている。ただそのことが嬉しかった。
貴方に出逢ってから、心臓はずっとおかしい。もうとっくに壊れているんだから、何も怖いものなんてないじゃない。心臓だけじゃなくて、脳も身体も……いっそ全部全部壊してしまえと思った瞬間、ずっと燻っていた想いが燃え上がり爆発した。
「キリル様のことが大好き……未来なんか見てはいけないって、分かっているけど……ずっと、ずっとずっと大好……」
途端に視界が暗くなる。
視神経が壊れてしまったのかしら?
…………違う。
耳を打つのは、自分のものではない誰かの激しい鼓動。逞しい温もりの奥からドクドクと聞こえる音は、今自分が、彼の胸に抱き締められているのだと教えてくれた。
頭上から、熱い息と共に、炎みたいな言葉が降ってくる。
「僕は、未来なんかより、 “今” を見たいよ。今、君のことが好きで堪らないんだから」
好き……?
君って……もしかして、私のこと?
聞き間違い? 勘違い? それとも……まだ夢の中かしら。
「今、君と一緒に居たい。今、君と生きていたい。今……君を愛しているよ、セレーネ」
夢どころじゃない。ここはきっと天国だわ。
そう思ったら、羽が生えたみたいに心が軽くなって。ふわりと想いが飛び出した。
「……私、綺麗じゃないのよ? ヘリオスの魔力がなければ、びっくりする程気持ち悪いと思うわ。最初に会った時よりも、今はもっと」
「君は最初から、ずっと綺麗だったよ。どんな姿でも綺麗なままだ」
「だけど私……病がどんどん進行しているの。これから少し……すごく、変な臭いもするかもしれないわ」
「ヘリオスのおむつで慣れているよ。よく替えたからね」
「辺境伯様が?」
おむつという現実的な言葉に、ここはまだ天国じゃないのかもと引き戻される。綺麗なキリル様が、赤ちゃんヘリオスのおむつをあたふたと替えている所を想像すると、可愛くて胸が温かくなって笑みが溢れてしまう。
それが気に障ったのだろうか。盛大にしかめられる眉に、私は慌てて顔を引き締めるも、彼の口から出たのは意外な言葉だった。
「……やっと名前で呼んでくれたのに」
あっ…………
ぷいと横を向く大人げない顔。ヘリオスによくそうするように、その綺麗な頬を指でちょんとつつき、彼が欲しがっている言葉を口にしてみた。
「キリル……様」
アイスブルーの瞳がくしゃりと垂れ、顔中に笑みが広がる。忘れもしない……初めて心臓が苦しくなった、愛しい愛しい少年みたいな笑顔。
愛し過ぎて、今でもやっぱり苦しいけれど。苦しいからこそ、ちゃんと生きているんだって思える。
苦しいくらいに抱き締められ、痛いくらいに髪や顔を撫でられ、何度も何度も頬擦りされる。それでも何かが足りなくて、もっと “今” を感じたいと、どちらからともなく唇へ向かう。
……それはものすごい引力で。
鼓動も身体も置き去りに、魂だけがふっと互いへ吸い込まれてしまう。
切なくて、でも心地好くて、切ない。
揺蕩う波の中に、ずっと居たいと魂が叫んでいる。
互いの熱も、涙も、吐息も。くっついて熔け合って、とうとう一つになってしまった。
────もう随分前に、そっと部屋を後にしていたハーヴェイに気付くこともなく。
◇◇◇
診察の為ジュリを呼ぶと、キリルは部屋を出て、廊下の壁に凭れ掛かるハーヴェイの元へ向かう。
喜び、哀しみ、安堵、後悔────
複雑な色が入り交じる、空色の瞳を見据えた。
「セレーネは手放さない。実家にも棺にも……お前の元へもな。私が必ず幸せにするよ」
爽やかに言い切るキリルに、ハーヴェイの空色が、ほんの少し楽しげに輝く。それは幼い日、悪戯を共有した時の弟の眼差しを、兄に思い起こさせた。
「幸せに……ね。どうするおつもりですか?」
「そうだな。まずはカプレスク侯爵夫妻へ、至急使いを送る」
「侯爵夫妻へ?」
兄の考えが読めず、ハーヴェイは首を傾げる。
「……この手で、セレーネの命を取り返し、幸せな未来を贈りたい」
キリルは、セレーネを冒涜した者達への煮えたぎる感情を抑えながら、熱い唇に不敵な笑みを浮かべた。




