31 眠くなる死体です。
キリルはその熱いハンカチを広げると、あの日と変わらぬ状態であることを確認し、そっと傍らに置く。
じんじんと火照った掌は、まだ何かを解放したがっているようで。握ったり開いたりを繰り返してみる。
今までキリルが使えたのは、人の手に触れている物を奪ったり送ったりする魔力。それが……誰も触れていないばかりか、見えてもいない物を、取りに行こうと考えただけで自分の手に吸い寄せてしまった。
異様な身体に考えを巡らせている内に、ハッとあることを思い出す。ベッドから腰を浮かせかけるも、そのまま留まり、まだ熱い掌に問い掛けた。
……もう一度出来るか?
部屋の隅に置かれた、普段はほとんど使っていない古い机。その一番下の引き出しを見つめ、 “取ろう” と明確に念じてみる。するとさっきの戸棚とは違い、静寂を保ったままの机から、手に固い感触が現れた。
それはアンティークの小箱。キリルがまだ幼い頃、祖父が自分と同じ魔力を持つ孫へと遺した物だ。
『キリル、もしもこの先、自分の魔力に大きな変化を感じたら、すぐにこの箱を開けなさい。自分の鍵で』
祖父の死後、魔力に変化はなくても、好奇心から何度も開けようと試みた。だが、どうしても鍵も鍵穴も見つからず、諦めて机にしまい込んでいたのだ。
“自分の鍵で開ける”
…………もしかしたら。
箱に神経を集中させ念じると、手にカサリとした感触が現れた。
……手紙?
逸る気持ちで広げたそれには、太く丸味を帯びた特徴的な文字が綴られている。
間違いない……祖父が書いたものだ。
『キリルへ
小さかったお前は、今、幾つになったのだろうか。可哀想に、この手紙を読んでいるということは、大きな変化と戸惑いの中にいるのだろう。
出来れば一生この箱を開けて欲しくはなかったが……この特殊な血を受け継がせてしまったことを、祖父として申し訳なく思う。
私は戦時中、不運にも敵の兵器に呪われ、生死を彷徨った後に、魔力が強まってしまった。
人の手に触れている物を奪ったり送ったりするだけではなく、誰も触れていない物や見えない物まで、想像するだけで自分の手に吸い寄せられるようになったのだ。
戦で更に手柄を立てられると。最初はそう単純に喜んでいたが……しばらくして、私はこの魔力の本当の恐ろしさを知った。
それは、アリボン国の奇襲攻撃に遭った時のこと────』
全てを読み終えたキリルは、顔面蒼白になっていた。手紙を握る手まで青くなり、ぶるぶると震えている。
まさか自分に、そんな恐ろしい魔力が眠っていたなんて……この先、一体どうやって共存していけば良いのだろう。
祖父の返事を求めて、最後の文に再び目を通す。
『負の感情をコントロールしなさい。さもなければ暴走してしまう。特に怒りは……非常に危険だ』
怒り……
視線を上げた先にはあの戸棚。硝子戸に走るひびが、まるで黒い稲妻のように光りながらも、キリルを冷静に見下ろしていた。
◇◇◇
久しぶりに何も予定のない午後。
柔らかな日射しをカーテン越しに受け取りながら、小人達の絨毯を織る為、ひたすら毛糸を右へ左へとくぐらせている。
最近では、指に上手く力が入らなくなり、針を繊細に動かす作業は難しくなっていた。
刺繍を先に済ませておいて良かった……と、山ほどの布地を見つめる。
ジュリの見立てでは、私の身体は限界に近付いてきていて、持ってあと二ヶ月らしい。余裕を持って一ヶ月後には棺に戻ろうと、着々と準備を進めていた。
色々な呪いを吸い込むようになってから、沢山の人に喜んでもらえた。もっと時間があれば、もっと役に立てたのにと残念に思う。それでも嬉しくて嬉しくて、自分がこの世に生を受けたことに意味はあったのだと、そう感じることも出来ていた。
……とっくに死んでいるのに、そんな風に思うなんて。何だか少し可笑しいわ。
モスグリーンの毛糸は、こうして織ってみると少し暗く見える。お坊っちゃまが建ててくれたせっかくの新居なのに、小人達の気分が沈んでしまうかしら……と明るい色の毛糸を結んでいた時、この時間には珍しくジュリがやって来た。
「お嬢様、街で買い物をしたいので、少し外出してもよろしいでしょうか。夜のメンテナンスまでには必ず戻りますので」
考えてみれば、ここに嫁いでからジュリが一人で外出することはなかった。
私と違って、生きているこの娘まで屋敷に閉じ込め、最近では自分の予定にあちこち付き合わせてしまっていた。窮屈で退屈だったわよね……何故気遣ってあげられなかったのだろうと申し訳なくなる。
「もちろんいいわよ。気を付けてね。……あっ、そうだわ…………これを。少ないけれどお茶代くらいにはなるかしら」
実家に居た時、内職でこっそり貯めていた僅かな現金。それを財布ごとジュリへ差し出す。
「いえ……頂けません。こちらできちんとお給金も頂いておりますので」
「いいの。持っていても、私にはもう使う機会はないでしょうから。ジュリに使ってもらえたら、すごく嬉しいわ。本当は、もっとちゃんとお礼をしたかったのだけれど……ごめんなさい」
「……いいえ。では、ありがたく頂戴致します」
端切れで作った粗末な財布を、嫌がることなく受け取り、胸に抱き締めてくれる。
……本当に、本当に優しい子。早く死体なんかと別れて、幸せになって欲しい。
鼻水を啜りながら部屋を出て行く、可愛い背中を見送った。
◇◇◇
街へ出たジュリは、目的の物を探して幾つもの店を回っていた。最初の店にあった物が一番良かったかと、来た道を戻ろうとした時、路地裏のカフェに見慣れた人物が入って行くのに気付く。
それはいつもと変わらぬ、貴族然としたハーヴェイと……そんな彼とは、誰がどう見ても不釣り合いな怪しげな男。まだ若いジュリから見ても、堅気の人間ではないことが分かる。
立ち去ろうとするが、どうしても気になりその場を動けない。考えあぐねた末、ジュリは帽子を深く被り、同じカフェへと滑り込んだ。
離れた柱の陰、二人の死角になる席へ座ったジュリは、魔力で自分の聴力を一時的に高め、耳をすませる。
「……いやあ、本当に苦労したぜ。何しろあの家全体が、魔力でガチガチに守られているんだから。居間の記憶一つ視ようとするだけで、何度精神がイカれそうになったか。……こんなヤバい危険を冒したんだ。金は弾んでくれよ、お貴族様」
「ああ、一生遊んで暮らせる額をやる。……信用出来る情報ならな」
男は乾いた唇をひゅうと鳴らすと、声のトーンを落とし話し始めた。
「……ジュリ・ブライデンは、バラク侯爵の実家、ミュレイ伯爵家の遠縁の娘で間違いない。ジュリの父親は、一族の中でも高い治癒魔力を持つ医師で、お偉いさんを沢山治して、ガポガポ稼いでいたらしい。娘にもその魔力が遺伝したんだろうな。頭の方も優秀で、飛び級で医師免許を取得しているれっきとした医師だ」
「そうか……」
「さて、肝っ玉が冷えたのはここからだ。それがよ……ジュリの父親は、なんと死んだ妻を黒魔術で生き返らせて、一時期一緒に暮らしていたらしい。それがたまたま金の無心に来たバラク侯爵にバレて、弱味を握られたそうだ。何しろ黒魔術は、法に触れる重罪だからな。脅されて、財産を奪われ続ける内に、とうとう父親は精神を病んじまって。破産寸前だったブライデン家を、今度はバラク侯爵が援助すると申し出た。その代わりに、ジュリを娘の主治医にしたいから寄越せと」
「……ジュリを連れて行った時期は?」
「辺境伯夫人がラトビルス領に嫁ぐ、ひと月ちょっと前だ」
「丁度だな」
それきり押し黙るハーヴェイに、男は楽しげに手を差し出す。
「ほら、約束の物を。調査したことは全部話したぞ」
ハーヴェイは内ポケットから小切手を取り出すと、男へすっと差し出した。
「一、十、百……うほっ! 本当に遊んで暮らせるぜ! 脳みそがイカれかけても、強引に視た甲斐があったな。お陰で寿命が縮んじまった気はするが」
「安心しろ。お前みたいな奴は、何度殺しても死なないよ。……調査したことを口外しなければな」
鋭い空色に射抜かれ、男のホクホク顔は瞬時にひきつる。懐にいそいそと小切手をしまい込む頃には、ジュリの姿はもう店内のどこにもなかった。
◇
その夜、メンテナンスの時間になっても部屋に来ないジュリを、セレーネは心配していた。
まだ帰っていないのかしら……途中で具合が悪くなった? それとも、何か事故に巻き込まれた? ……買い物に夢中で、遅くなっているだけなら良いのだけれど。ラトビルス領は治安が良いからきっと大丈夫……でも、若い女性が夜に一人きりなんて。
辺境伯様に相談して、誰かに探しに行ってもらおうかと考えている内に、頭がぼんやりしてくる。意識がふわふわと波に乗り、果てない海原へ吸い込まれていくような……そんな久しぶりの感覚。
ね……むい?
ベッドは遠い。せめてソファーまで辿り着こうと懸命に床を這うが、一歩手前で力尽き、床に身体を横たえた。
ふわふわ……ふわふわ…………気持ちいい。
私……やっと眠れるの?
目を瞑り、手放そうとした意識は、海原ではなく空へ舞い上がる。そこには、いつか誰かと見た、満天の星々が広がっていた。
綺麗……ねえ、とても綺麗ね。
隣には確かに誰かが居るのに、その姿はぼやけている。ぼやけているのに愛しくて。愛しくて、愛し過ぎて……哀しくなる。
私……やっぱりまだ眠りたくない。こんなに幸せなのに、寝てしまうなんて勿体ないわ。一晩中……明日の夜も、ずっと先の夜も……貴方と何度も星を見たい。見られたら…………
…………キリル様…………
「奥様、奥様」
きっちりいつもと同じ時刻に、辺境伯夫人へ夜の水を持って来た給仕。先程から数回ドアをノックし、呼び掛けているも返事がない。
もうお休みなのかしら……こんなこと初めてだわと、念の為隣のジュリの部屋にも呼び掛けるが、こちらも返事がない。
「どうしたのですか?」
偶然通り掛かった侍女長に尋ねられ、給仕は事の経緯を説明する。ふと嫌な予感が胸を過り、侍女長は一度「奥様」と呼び掛けただけで、すぐにドアを開ける。
「……失礼致します」
足を踏み入れ、見回した部屋の奥。床の上に散らばる、美しい金色の何かに背筋が凍り付く。目を凝らせば、そこには死んだように横たわる辺境伯夫人の姿があった。
「…………奥様!!」




