17 喜ぶ死体です。
キリルは気付かれる前に素早く戸を閉め、踵を返す。
ただ弟と仮初の妻がダンスを踊っていた……それだけの光景に、言い様のない嫌悪感が押し寄せ、爪先を床に乱暴にぶつけながら大股で歩いていた。
あんなに明るい顔で笑うのか……
自分の知っている彼女の笑顔は、控えめで柔らかくて……常に優しい霧がかかっているようなのに。
ハーヴェイの前では……あんなに……
『鳥になって空を飛んだみたいだと、すごく楽しそうな顔で言ったんです』
『もっと高く羽ばたかせてあげたいと、そう思うじゃないですか』
執務室へ向かう廊下には、ぐにゃぐにゃと黒いものが立ち込め、歪んで見えた。
◇◇◇
今日……も?
食卓の上座に、すっと着く辺境伯様を見つめる。
私とお坊っちゃまとハーヴェイ様の三人で摂っていた昼食。何故か数日前から、そこに辺境伯様も加わるようになった。
ご家族水入らずの方がいいんじゃないかしら……そもそも私が居るから、辺境伯様はお坊っちゃまと昼食を召し上がらなくなった訳だし。
そんなことを考えながらお顔を眺めていると、アイスブルーの視線とパチリとぶつかってしまい、慌てて頭を下げた。
お坊っちゃまを中心に、食卓はいつも和やかな雰囲気に包まれている。ハーヴェイ様程は喋らないけど、辺境伯様もお坊っちゃまのお話に耳を傾けたり、微笑みながらお返事したり。
その合間に……何度も私の方を見ては、目が合う前に逸らされてしまう。
気のせいかしら……ほら、また……
ハーヴェイ様から何か報告があって、ご自身の目で私を探られているのかもしれない。もしくは、この間お部屋に運んでいただいた時、何か違和感があって怪しまれているとか。……軽すぎた? それとも……死臭がした?
「義姉上、どうされたのですか? 難しい顔をして」
「して……ましたか?」
「ええ。こんなでしたよ」
ハーヴェイ様が作るお顔が面白く、お坊っちゃまと一緒にお腹を抱えて笑ってしまう。
あ……また……。横目で上座をチラリと見れば、険しいアイスブルーの視線が逸らされた。
「ハーヴェイ様、ローズ通りからお荷物が幾つか届いたのですが。お部屋へお運びしてよろしいですか?」
食後のお茶を飲んでいると、従者に呼び掛けられる。
「ああ、一番大きな荷物だけはここへ持ってきてくれ。あとは部屋へ」
「かしこまりました」
ハーヴェイ様は、リボンの付いた大きな袋を受け取ると、私の元へやって来て差し出した。
「先日、買い物に付き合っていただいたお礼です。どうぞ」
「お礼……?」
「はい。どうぞ、開けてみてください」
お礼なんて……むしろ色々と迷惑をかけてしまったのに。
戸惑っていると、ハーヴェイ様は眉を下げて、袋を切なげに撫でる。
「ほら……早くしないと、窒息してしまうかもしれませんよ。こんなにリボンをきつく結ばれて……可哀想に」
窒息……まさか、生き物なの!?
勢いよく立ち上がると、私は袋のリボンを引っ張った。
…………あっ!!
はらりとほどけ、広がった袋から現れたのは、ふわふわの真っ白なうさぎのぬいぐるみ。頬っぺたと耳の中だけが淡い桃色の毛で、鼻と口はそれよりも濃い桃色の糸で作られている。その上にある二つの円い硝子玉の瞳は、お月様みたいに綺麗な金色だった。
あまりの可愛さに胸を押さえていると、辺境伯様が窘めるように言った。
「ハーヴェイ、彼女を幾つだと思っている」
「幾つだっていいじゃないですか。はい、どうぞ、抱っこしてあげてください」
ハーヴェイ様はそう言いながら、抱える程大きな子を、私の腕へ置いてくれた。
……生きていないのに。ふわふわの毛はほんのり温かくて。瞳はキラキラと輝いている。
可愛くて可愛くて……頬を寄せながら、ギュウと抱き締めた。
「アンティークの店で買った中から、お好きな物をプレゼントしようとしたのですが……貴女はこちらの方が喜ぶかと思いまして」
思わずこくこくと頷いてしまう。
「ずっと……小さい頃からずっと、こんな子を抱っこしてみたかったんです」
「それはよかった。可愛がってあげてくださいね」
「頂いても……よろしいのですか? 本当に?」
「もちろん。“夢のお友達” でしょう?」
空色の瞳に光が差し、深い底の部分まで見えてしまった。それは……ただただ、誠実で優しくて。
こんな自分を、冷やかしたり揶揄う様子は一切なく、輝くような笑みを向けてくれている。
「ありがとう……ございます」
「どういたしまして」
溢れそうなものをぐすんと飲み込み、うさぎの背中を覗けば、尻尾も可愛らしい桃色であることに気付き、笑みが溢れた。
「……ハーヴェイ様が色を選んでくださったんですか?」
「はい。貴女にそっくりでしょう?」
「私に……」
「ほんとだ! お義母様にそっくりですね」
お坊っちゃまが、うさぎへ身を乗り出す。
「そう……?」
「はい! 白くて、瞳がお月様みたいに綺麗で、可愛いです」
確かに瞳の色は同じだけど……こんなに可愛い子と私が似ている?
うさぎとじいっとにらめっこしていると、ハーヴェイ様が長い耳を撫でながら言う。
「貴女も周りから見たら、このうさぎみたいに綺麗で、可愛いんですよ」
真剣な声が、すうっと胸に響く。
……本当に? と上げた視線を、彼は真っ直ぐ受け止め、深く頷いてくれる。
それでも信じられなくて、もう一度うさぎを見下ろせば、金色の瞳がにこっと微笑ってくれたように感じた。
「……ねっ、お父様もそう思うよね? お義母様は綺麗だよね?」
お坊っちゃまの問いかけに、辺境伯様は微かに口角をあげながら、パクパクと口を動かす。
「……そうだな。綺麗だ、とても」
視線はもう逸らされなかったけど……アイスブルーの瞳には冷たい霧がかかり、何の感情も見えなかった。
◇
お坊っちゃまのクラヴァットを作る為の布から、余った部分を丁寧に裁つと、丁度紳士用のハンカチ一枚分になった。濃紺の上等な絹地。これならハーヴェイ様のような地位のある男性が使用しても、恥ずかしくないものに仕上がるだろう。
勝手に使ったりして怒られるかしら。
お詫びとお礼を兼ねているのだし、本当は自分のお金で新しいものを買いに行けたら良いのだけれど……
うーんと少し悩んで、向かいの椅子に座るうさぎを見れば、大丈夫だよと言ってくれている気がした。
……今日から、あなたと一緒ね。
長い夜も、もう寂しくないわ。
可愛い瞳に見つめられながら、あっという間に縁を仕上げると、銀の刺繍糸を針に通す。パッと頭に浮かんだ絵を軽やかに描き始めた。
針を置き、時計を見れば、まだ夜中の二時を回った所だった。
「……お散歩しましょうか?」
うさぎを抱いて中庭に出ると、ブランコベンチに座り、さっきの布と同じ濃紺の空を見上げた。
綺麗……端から端まで星だらけだわ。
腕を伸ばして、ぐるぐるとかき混ぜれば、あのお菓子みたいな素敵な色の星が降ってきそうだった。
だけどあの輝きは、本当は、ずっと高くてずっと遠い。
◇◇◇
────どのくらい眠っていたのか分からない。沢山だったような気もするし、ほんの少しだった気も。曖昧な眠りの後で目覚めたのは、薄暗い場所だった。
カビや埃や、色々な臭いが鼻を突く場所。
黒いフードを被ったお父様が、私を覗いて、嬉しそうにはしゃいでいた。
『……やった! 成功したぞ! 見えるか? 私が見えるか?』
こくりと頷くと、音は? においは? 話せるか? と立て続けに質問される。
身体を起こし、寝ていた場所を振り返ってみて初めて、そこが棺だったということに気付いた。そして、薄暗いこの場所はどうやらどこかの地下室のようだ。
『お前は一度死んだが、私の魔力で生き返ったんだ』
……何故?
『家を救う為に、ラトビルス領の辺境伯の元へ嫁いで欲しい。身体が限界を迎えるまで、死体だということを隠し、やり過ごすんだ。……どうだ? どのくらい持ちそうだ?』
『……一年前後というところでしょうか。お身体のメンテナンス次第ですが』
二人きりだと思っていた場所には、もう一人フード姿の女性が居て、私の身体に手をかざしていく。
『一年持てば充分だ。なるべく急いで嫁がせて……早めに限界を迎えそうなら、療養の為とでも口実を作って戻って来ればいい。そのまま死んだことにすれば何も言わんだろう』
『……立てますか?』
女性に手を取られ、骨みたいな足に力を入れれば、震えながらも何とか立つことが出来た。
私の頭から爪先までを見て、お父様は盛大に顔をしかめる。
『この見た目は……何とかならないのか。まるで老婆じゃないか』
『栄養失調とご病気で、元々お身体が衰弱されていた為に、黒魔術の副作用を強くお受けになったのでしょう』
『……まあいい。向こうは、一年間契約結婚出来れば構わないと言っているんだ。病持ちで見てくれが悪いと、予め伝えて送り込んでしまえば、後から文句は言えんだろう。“契約” だからな』
お父様はフードを外すと、私へ向かい厳しい声を放つ。
『いいか、セレーネ。辺境伯からどんな扱いを受けても、身体が限界を迎えるまでは、絶対に帰って来るんじゃない。お前なら……耐えられるだろう?』
血走った目だけが浮かぶその顔は……もう、文字や算術の本をくれた時の、あのお父様の顔ではなかった。
◇◇◇
……鳥になったら、あの星に触れるかもしれない。
ベンチから立ち上がると、うさぎを抱いて、ワルツのステップを踏んでみた。ふわふわの可愛すぎる身体は、細いコナ先生とも、逞しいハーヴェイ様とも違い、段々可笑しくなってくる。
夜中なのに笑い声が漏れてしまい、はっと口を押さえて、きょろきょろと見回す。柵で囲われているから何も見えないのだわと思い出して、うさぎに照れ笑いを向ければ、くすりと笑い返してくれた気がした。
気を取り直して、再びステップを踏んでいると、誰かが遠慮がちに部屋のドアをノックした。
……こんな夜中に? やっぱりうるさかったのかしら。
「……はい」
部屋に戻りおずおずと返事をすれば、ドアの向こうから響いた声が、心臓を激しく揺らした。
「……私だ」




