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第四十九話 ヘレナの戦い1

 ここで時間は少々遡る。

 ヴラドを見送ったヘレナは、ぼんやりとテラスから西の方角を見つめていた。

 こんな胸にぽっかりと穴が開いてしまったような寂寥感を感じるのは、ヘレナにとっても初めてのことであった。

 自分の才能が認められないことへの虚無感や、ローマの置かれた絶望的な状況に対する無力感を感じたことはあるが、いったい何に自分はこんなに飢えているのかヘレナにはわからなかった。

 ――――いや、本当はヴラドがいないことが原因なのだとわかっている。

 ただそれを言葉で表現できるだけの明確な感情を、ヘレナはまだ認識出来ずにいたのである。

「ううっ、姫様もご成長されて……!!」

 カーテン越しに気配を消した侍女のサレスが、熱っぽいため息とともに夫の出征した方角を見つめ続けるヘレナの様子に満足そうに頷いているのは御愛嬌か。

「つまらぬ……汝がおらんとつまらなくてならぬぞ、我が夫」

 父や叔父とも違う距離感。

 帝国の血を気にする必要のない気の置けぬ男。

 年端もいかぬ少女の政治的才能を、いささかの迷いもなく丸呑みする底なしの器。

 そのどれもがヘレナが喉から手が出るほど欲して欲してやまぬものだった。

 だが今ヘレナが求めている飢餓感はそれとは違う。

 同衾してベッドに入るときのヴラドの何とも言えぬ男くさい体臭であったり、膝の上に乗ったときの細身ながら鍛えられた厚い胸板であったり、少々複雑そうな顔をしながらも大切にしてくれていることが伝わってくるような優しいキスが、もうずいぶん過去のものに思われて切なく胸を騒がせるのだ。

「早く妾のもとに帰ってきてくれ、我がつま

 何気なく口にしてから、ヘレナは沸き立った釜のように首筋まで真っ赤に染まってかぶりを振った。

 長い黄金の髪がブンブンと振られるそのたびに、キラキラと放射状の光を撒き散らしす。

 言葉にならない悶絶の悲鳴をあげてヘレナは羞恥を振り切るように荒いため息とついた。

「わ、妾はどうしてしまったのだ……?」

(姫様! それが恋! 恋なのです!)

 サレスからここぞと言う時に上目使いでキスを強請れば落ちぬ男はいない、と言われていたが、予想していた以上に勇気と精神力を必要とするものらしかった。

 少なくとも今のヘレナにこれまでのような甘え方をする自信はない。

 どうしてこんな気持ちになるものか。

 相手がたとえローマ皇帝であろうと微塵も臆せず、識見と度量で勝負する覚悟のあるヘレナであった。

 自分の才覚を存分に振るえるパートナーが欲しいと思ったことはあるが、傍にいて欲しい、抱きしめて優しいキスをして欲しいと思った相手はいない。

 強いて言えば側近のサレスがそうであったが、羊水の中に帰ったような安心感と気持ちの落ち着く甘い体臭のサレスとは違い、ヴラドに抱きしめられれば心臓は激しく鼓動を打ち体温は上がって、幸せなのにむしょうに悶えたくなるような恥ずかしさを感じる。

 本人だけが気づいていないが、誰がどこから見ても恋煩いの真っ最中のヘレナであった。

「なんだ? あの軍勢は?」

 そんな状態でも異変を感じれば決して見過ごさないのはヘレナ天性のものかはたまたローマの血のなせるわざか。

 砂塵をあげて近づく軍勢に、ヘレナの皮膚感覚とも言える危機感がザワリと神経を逆なでしていく不快感を察知した。

「この時期に首都を辺境貴族が兵を伴って訪れる……か。全く悪い予感しかせぬわ」

 ヴラドに贈られた望遠鏡を手に取り、急いでヘレナは迫りくるその軍勢の紋章を確認する。

 赤地に白い騎士の紋章

 それは公国東部に位置するかつてヴラドに与するをよしとしなかった中立派の大物ザワディロフの紋章であった。

「サレス!」

「御前に」

 やっぱり覗いていたか、とはヘレナは言わない。

 この風変わりな侍女が自分を置いてどこかに行くはずがない、という確信じみたものがヘレナにそんな違和感を抱かせなかった。

「我が夫の留守を狙った謀反人どもがやってくるぞ! 城門を決して開けさせるな! 使えるだけの兵を全て集めて城壁に並べろ! それと、街の顔役を集めさせよ、妾が直々に面会する。妾おるかぎり有象無象どもがこの都を手にいれようなどおこがましいにもほどがあるわ!」

 状況は決して楽観できるものではない。

 楽観どころかむしろ考えるかぎり最悪に近いもので、まともな人間なら迷わず逃亡を選択するところであろう。

 しかしそれではヴラドの妻としての自分の立場がない。

 あの歴史を揺るがすであろう万能の男に並び立つパートナーとして自分が相応しいということを証明してみせる。

 可愛らしい人形のような表情に闘志をみなぎらせてヘレナは不敵に笑った。

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