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第三十話 姫君乱入

「勝手な来訪をご寛恕いただき、このイワン・ソポロイ感謝の極み」

 歓喜に耐えぬ風でイワンは流れるように腰を折った。

 芸術の守護者を自任するイワンにとって、コンスタンティノポリスは長年夢見た美の宝庫である。

 実のところ一昨日には着いていたのだが、思わず観光に一日丸ごと費やしてしまい、本来の目的であるコンスタンティノポリスでの交渉のために宰相ノタラスの屋敷を訪れたのは昨日のことであった。

 ともに着いてきた秘書官に大目玉をくらわなければ、もっと観光していたいと思っていたのはヴラドには内緒である。

――――――ああ、ここはまさに芸術の理想郷か!?

 広間の正面に飾られた絵画は、あのアンドレイ・ルプリョーフの大作に他ならず、テーブルを彩る器の数々は色絵も鮮やかな陶器ばかり。

 後にビザンツ家具とまで呼ばれる、家具の色調もあでやかな曲線もイワンの心を魅了してならぬものだった。

 今日ほどヴラドに仕えて良かったと思ったことはない。

 もっともイワンに与えられた任務とは全く関係のない話ではあったが。


「イワンと申したか。してワラキア公には如何なる用向きの来訪か?」

 物怖じしない伊達男、イワンの様子に興味をそそられたらしい皇帝が問いかける。

 洗練された物腰に夜会の絵になるような美貌のイワンを送りこんできたワラキア公の思惑は、いったい何か皇帝としても気になるところであった。

「トランシルヴァニアの大半を掌中に収めたばかりか、ヤン・イスクラとの盟を結んでいると聞く。ワラキア公の望みはなんだ? 余にいったいどんな仲裁をさせたいというのだ?」

「いえ、全ては皇帝陛下の御意のままに―――――我がワラキアはいかなる決定でも皇帝陛下の命に従いましょう。それが我が主君の言葉でございます」

「なっ…………!!」

 あまりにも完全に予想外の返答にその場にいた誰もが言葉を失っていた。

 てっきりワラキアに有利な仲裁を引き出すために、イワンからなんらかの提案が行われるものと予想していたのである。

 それでは何のために、わざわざ総大主教庁に仲裁を依頼したのかわからないではないか。



「ト、トランシルヴァニアから撤兵せよ、と命じたならば素直に言うことを聞くというのか?」

「無論、すぐさまワラキアへ戻りましょう」

「何と殊勝な申し出か! 陛下……! せっかくのワラキア公の申し出、ここは有難くお受けしては………?」

 思いのかけぬ僥倖にソマスが明るい声をあげるのを、ヨハネス8世は本能的に押しとどめた。

「待て、待つのだソマス………!」

 危険だ。それだけは何があっても選択してはいけない。

 理性ではなく本能によって皇帝はそれを察した。

 何だ? いったい私は何を見逃しているのだ?

 ワラキアの狙いはどこにある?

 余の歓心を買うことに、意味などないのはわかっているだろうに―――――。

 そう思ったところでヨハネスは気づいた。気づいてしまった。

 違う――――今や滅亡の瀬戸際に追い込まれたローマ帝国にわざわざワラキアが利など求めるはずがない。

 利を求めているのは自分たちであり、試されているのが我々なのだ!

「………どうやらワラキア公は噂に違わぬ人物であるようだな。余を、このローマ皇帝を試したか」

「――――滅相もございませぬ」

「よい、それで何が望みなのだ? まさか余を試すためだけにヤーノシュを敵に回したわけではあるまい?」

 残る寿命も少ないヨハネス8世に往年の気概が蘇りつつあった。

 無謀にもオスマンを敵とし、ローマ帝国の復興を果たそうとした若い日の覇気が。

「さきほど私が申し上げたことは真実であります。公は決して陛下の命に背きませぬ。しかし陛下から再びご下問があったならばこう答えるようにと申しつかっておりました」

「申してみよ。遠慮はいらぬ」

「されば、―――――5年後、ワラキアの力が今のままであれば帝国の滅亡は免れぬものと思召せ」

「なっ!? ぶ、無礼であろう!?」

 不吉なイワンの予測にソマスが激昂し、ノタラスもまた渋面を隠そうとしなかった。

 その現実を誰も否定できないとはいえ、他国の人間から帝国の滅亡を指摘されることが不快であることに変わりはないのだ。

「よい、遠慮はいらぬと申したのは余だ。それで? ワラキアが帝国を救うためには何が必要なのだ?」

 おそらくワラキア公ヴラドは、東西合同や欧州各国の援助では帝国の滅亡を防ぐには間に合わぬと予想したのであろう。

 そのうえでワラキアならば帝国を救うことが可能であると言っている。

 しかしそれは無条件のものというわけではない。

 帝国の存続とはすなわち、今や世界最大最強の国家になりおおせたオスマンを敵に回すということだ。

 当然それに見合うだけの力を手に入れなければ、それは痴人の妄想となんら変わるところがない。

「上部ハンガリーと同盟してハンガリー王位を奪います。おそらくは教皇庁を完全に敵に回すでしょうが陛下にはこれを認可いただきたい」

「トランシルヴァニアばかりかハンガリー王国自体を呑みこむつもりか!?」

 ハンガリー王国はポーランド王国と並んだ東欧の雄であり、対オスマンでは盟主としてキリスト教連合軍を率いたほどの大国である。

 それが戦によって敗北することはあろうとも、まさか滅んでしまうことがあろうとはヨハネス自身想像すらしていなかった。

 しかし考えてみれば、ローマ帝国自体がまさに滅亡の危機に瀕しているのである。

 それより歴史の浅いハンガリー王国が滅ぶことも、当然想定してしかるべきであるはずだった。

「できるか? 公にそれが?」

「我が主ヴラド・ドラクルならば必ずや」

 正直途方もない話過ぎて判断に苦しむところであった。

 しかしそんな途方もなさが、目の前の危機から逃れるために汲々としていたヨハネスにとっては新鮮であり、それが実現してしまうのではないか? と感じさせるヴラドに興味を惹かれずにはいられなかった。

「―――――――それはいささか見込みが甘いのではないか? 使者殿よ」

 朗々たる美声でありながら、わずかに少女特有の舌足らずさを感じさせる、そんな声が広間に響き渡ったのはそのときだった。

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