カクテルの情景
著者はバーホッパ―ですが、このようなご時世のため断バー中です。
『耳で聴きたい物語』参加作品として書いたのは、決して鬱憤を晴らすためではありません(笑)
『bar se calmer』
ビルが立ち並ぶ街並みの奥まったテナントビルの地下にそのバーはあった。ビルは昭和の雰囲気を醸し出すシックな造りで、おそらくバブルの時代からここに存在していたのだと思う。
この街は小さい割にバーが多く、カジュアルバーのようなものも含めれば100店舗は下らない。私はここ数年でそんな街のバーの大半を回ってきたつもりなのよね。だけど、こんなところにバーが隠れていたなんて思いもよらなかったわ。
新しい店を発見した時の心の高鳴りはたまらないわね。
初めての店の扉を開くときに感じる期待と不安が綯交ぜになっているこの感覚は、どれだけバーに慣れても胸の内に必ず訪れるの。まるで初恋のようね。
ふふふ……
このバーの一夜は、私にどれくらい素敵な時間を提供してくれるのかしら?
私は重厚で歴史の感じる扉に手をかけて、強い抵抗を感じながらもゆっくりと押し開けていく。
『チリィーン』
ドアベルが小さく鳴った。
「いらっしゃいませ……」
ロウソクの灯のみの薄暗い店内に一歩足を踏み入れると、バーカウンターの奥から、まだ年若いバーテンダーが私を出迎えてくれた。
あら!けっこうイケメンね。
もうすでに素敵な夜を過ごした気分♪
年の頃は20半ばだと思う。おそらく私の2、3歳年下。少し長めの髪を清潔感を失わないように纏めて、その身をバースーツに包んでいる姿は、同年代の男の子たちよりも落ち着いて見える。
「お好きな席へどうぞ」
右手の平を差し出してカウンター越しにイスを指し示す。7席並ぶカウンター席には、まだ客は誰もいなかった。私が最初のお客なのね。
右から2番目の席を選んで座ろうとしたが、ハイカウンターのためカウンターに手をついてイスに腰かけたところで、バーカウンターの重厚な木の肌触りにおや?と思った。
「あら?チークかしら?一枚板なのね……」
厚みもあり、大きさも申し分ない一枚板。これもバーを楽しむ醍醐味よね。
「へぇ……そうらしいですよ」
イケメンバーテンダー君は、感心したように言うとニコリと微笑んだ。
だけどイケメンバーテンダー君では名前が長いわ。名前を聞くのも野暮だし、心の中ではイケテン君と呼んでおきましょう。
それにしても、いいバーカウンターね。継ぎ目もないから、完全な一枚板。色合いも歳を経た重みがあり、厚みも十分にあって重厚感が半端ないわ。
最近はステンレスや色合いから銅板を使用しているバーもあるんだけど、私的にはしょうじき論外ね。厚めのコースターを使用するならまだしもだけど、タンブラーを直置きされた時にはかなり引いたわ。あれは熱伝導率が高いからタンブラーの氷があっという間に溶けちゃうのよね。それとも、さっさと飲んで、はよ帰りなはれという意味だったのかしら?確かに関西圏だったわ。ぶぶ漬けの代り?
あ!さっさと飲めで、嫌なことを思い出したわ。
昔、珍しい品種のオレンジがあると、それで『オレンジブロッサム(※1)』を作ってもらったことがあったの。それは見事な赤色になり、注がれたカクテルグラスを頬杖をつきながら、その綺麗な赤色を鑑賞していたら、隣の見知らぬ男性客が『ショート3口、ロング3分(※2)』なんて熱く語り、お前はバーテンダーに失礼だなんて説教してきたっけ。
失礼通り越して、あんたは無礼よと言ってやりたかったわ。オーセンティックバーはゆったりとした時間を楽しむ大人の社交場よ。大声でヒートアップするのはもちろんだけど、そんなせせこましい飲み方はむしろNGよ。
酒は呑んでも、呑まれるな。そして、酒は呑むのではなく、嗜むものだ。
私には私の飲み方があるの。押しつけ野郎はノーセンキューよ!
「お飲み物は何にいたしましょう?」
「『ジンリッキー(※3)』を」
私は初めてのバーでは必ず最初にジンリッキーを注文するの。
ジンリッキーはシンプルだからこそバーテンダーの顔を見せてくれる。
これが私流のバーの見極め方。
「随分とスタンダードなカクテルを頼まれるのですね」
「あら、シンプル過ぎてつまらない?」
そう言って、クスッと悪戯っぽく私は笑う。
そんな私をイケテン君がじーっと見詰めてくる。
あらやだ!ふふふ、坊や、私に惚れちゃったかしら?
「……いえ」
どきっ!
なんでそのタイミング!
私まるでフラれたみたいじゃない!
「ジンのご指定はございますか?」
「お任せするわ」
イケテン君はライムを絞ってジュースにした後、冷凍庫から『タンカレージン』を取り出してカウンターに並べると、タンブラーに氷柱を入れてリンスを行う。タンブラーに先ほどのライムジュースを注ぎ、ジガーでジン45mlを同じくタンブラーに注ぐ。後は炭酸水をタンブラーの壁伝いに注いでバースプーンで音をほとんど立てずにステアする。
あ、味を確かめたわね。これって間接キス……なんて言うわけないでしょ!
イケテン君はライムの皮をナイフで削り、僅かにグラスから離れたところでツイストしてピールする。それをタンブラー内に添えて完成ね。
私の前にコースタースッと差し出し、イケテン君はジンリッキーの入ったタンプラーをその上に静かに置いた。
「どうぞ」
「ありがとう」
私はタンブラーを手にすると少量口に含み、気づかれない程度に口内で転がして嚥下する。
──美味しい……
転がした口の中でライムの酸味と炭酸で引き立てられた、タンカレーの微かな甘みが私の舌を楽しませる。夜でも暑くなってきた中を歩いてきた私に嚥下した時のライムの酸味と炭酸の爽快感が心地よい。後には僅かなジンの風味とライムの香りが鼻腔に残る。
え?タンカレージンは辛口だから甘いはずがないって?
バカね。確かに辛口ジンだけど糖度はちゃんとあって、作り手しだいでは僅かな甘みをちゃんと感じるのよ。まあ、もっとも飲みなれてないと、ただの辛いだけのカクテルだけど。
え!?お前は飲みなれているのかって?
そうよ悪い?どうせ私は飲兵衛女子よ!
「タンカレーを選ぶとは思わなかったわ」
「お口に合いませんでしたか?作り直します」
イケテン君は私の前のタンプラーに手を伸ばしたが、私はそれを手で制する。
「いえ、美味しいわ。ただ、女の私がリッキーと頼むと『ビーフィータ』を使うところが多くて……店によっては『No.10』や『スターオブボンベイ』なんかもあったわね」
「そう……ですね。香りや甘みが女性に好まれますから」
イケテン君は、私がそれらのジンで作らなかったことに不満を持っていると思ったのね。少し、気落ちした顔が可愛いわ。ちょっと持ち上げておきましょうか。
私はもう一口カクテルを飲むと、タンブラーをコースターの上に戻す。
私は口を付けた縁を指でなぞりながら、イケテン君に流し目を送った。
「私はあなたが作ってくれたジンリッキー……とても好みよ」
「あ、ありがとう……ございます」
イケテン君が少しきょどっているわ。これが大人の女性の魅力ってやつよ。
ふふふ、イケテン君もまだまだ若いわね。
って、私も彼とあまり歳かわらなかったわ。
ん!?誰!アラサーって言ったの!!!
え!?サバ読でんじゃねぇって?
そんな飲み方する若者はいないって!?
悪かったわね!オバサン臭くて!
私はゆっくりとリッキーを飲む。
私のカクテル時間(※4)は30分。
ゆったりと、まったりと……
私にとって一杯にかけるのにちょうどよい時間。
さて、残りも半分を切ったわね。
そろそろ次の飲み物を考えておかないと。
今の気分で飲みたいのは何かしら?
頭の中に色んなカクテルを想像してみる。
さっき考えたオレンジブロッサム?
それとも『テキサスフィズ(※5)』にしてみる?
いっそ、イケテン君おすすめにしてみようかしら。
そんなことを私が考えていると……
『チリィーン』
……ドアベルが再び鳴った。
お客が来たようね。
ここの常連かしら?それとも私と同じ初めてのお客?
歳は?性別は?
素知らぬ顔をしながらも、内心ではどんな人が来たのか興味津々。
だって、バーでの出会いは一期一会。
それはカクテルもお客も変わらない。
何故なら……
作り手が同じカクテルでも、その日その時のカクテルとの出会いは一度きり。
その場で同じ客に出会っても、その日の出会いと過ごした空間はその時限り。
だからバーでの出会いは大切なのよ。
「いらっしゃいませ」
イケテン君がお客を招く。
さあ、今宵はどんな出会いがまっているかしら。
※1 オレンジブロッサム
ドライジンとオレンジジュースをシェイクして作るスタンダードなショートカクテル。近年はフレッシュを使用することが多いので、味の調整にシロップなどを加えたり、オールドファッションに氷を入れるスタイルにすることもある。ロックスタイルはまずシロップを使用してくるので、すごく飲みやすくなるが、アルコールの量は変わらず高めなので、飲むときは注意。なお、昔気質の店でロックスタイルを要求すると説教されることも。
通常オレンジブロッサムはオレンジ色。主人公はおそらくブラッドオレンジを使用したのかと。
※2 ショート3口……
ショートは冷えてるうちに、ロングは氷が溶ける前に飲めよという格言。ちなみにロング3分は誇張です。だいたい10~20分って言われていますかね。でも筆者は死にたくないのでショートもロングも30分かけて飲みます。
※3 ジンリッキー
ジンとライムと炭酸をステアするだけの簡単なスタンダードカクテル。単純で、味付けができないため誤魔化がきかない。ライムの味でその時のカクテルの味も左右されるため、市販のライムジュースを使用する人もいる。昨今はフレッシュがもてはやされているが、味を一定にするために市販ジュースを使用するのはありだと筆者は考えている。ちなみに筆者も最初のバーではこれを選択することが多い。
※4 カクテル時間
彼女(主人公)の造語です。そんな単語はありません。彼女曰く各人の1人でカクテルを飲むのに適した時間だとか。
※5 テキサスフィズ
ジンにオレンジジュース、シロップを入れて炭酸で割ったロングカクテル。分量を少し変えてレモンジュースを加えるとオレンジフィズになる。オレンジブロッサムを含め、飲みやすいがアルコールは強めのカクテル。