ガラス瓶の中の夢
山羊は夢を見るのか。
ドナが出会った二匹の山羊に、聞いてみれば良かったと、今になってドナはよく思う。あの双子の山羊はとても賢かったから、夢くらい見たかもしれない。
あの二匹の山羊にドナが初めて出会ったのは、もう十年も前になるだろうか。
生物学と遺伝子学、そして超能力学の権威と言われたあの男……今はもう本名も忘れられ、ケイオス博士というあだ名だけが記憶に残るあの博士が、大学院生だったドナの大学で講義をした時、手伝いを頼まれたのが始まりだった。
ケイオス博士は鋭い目つきの神経質そうな痩せた五十絡みの男性で、ドナはまだ二十代の半ばだった。
「ラングレイ博士が君を推薦していたが、君は優秀な学生のようだね。」
講義内容のこと以外で何か話しかけられると思っていなかったドナは、ケイオス博士のかすれた少し高い声に驚いた。資料がうず高く積み上がっているデスクの並んだ、乱雑な研究室の中には、今はドナとケイオス博士しかいない。
「買い被られているだけです。私は、便利に使われているだけですよ。」
特に謙遜したつもりはなくドナが言うのを、ケイオス博士は細い顎を撫でながら聞いていた。日にあまり当たっていない白い肌。顎にはぽつぽつと薄茶色の無精髭が生えている。
事実、ドナがケイオス博士の手伝いを頼まれたのは、ドナが優秀だったからではなかった。面倒な仕事を頼もうとラングレイ博士が周囲を見回した時、一番断りそうにない学生が、ドナだったというだけなのだ。ドナは褐色の肌に縮れた黒髪だが、背は低く、どちらかといえば華奢な部類に入る。メガネをかけていて気の弱そうなドナを、他の学生は馬鹿にしてすらいた。
ドナがケイオス博士の研究所を訪れたのは、ラングレイ博士に頼まれてのことだった。大学での短期の講義を終えて、大学に来なくなった後、ラングレイ博士がケイオス博士に借りたままだったという本があったことを思い出し、ドナにそれを届けるように頼んだのだ。理由はやはり、ドナが断りそうになかったというのが主だろうが、ドナももう一度あの博士と話してしたいと思っていたので、二つ返事で了承した。
安っぽい正義感か、好奇心か、ドナには確かめたいことがあったのだ。
ケイオス博士は人体実験を行っている。
それはこの業界ではまことしやかに囁かれる噂。
孤児となった子どもを買ってきて、ケイオス博士は実験に使っているというのだ。
もしそれが本当ならば、彼の権威は地に落ちる。そうさせたいのか、ただ真相が知りたいのか、ドナにも分からなかった。分からないままに、ラングレイ博士の癖のある字で書かれた住所を見ながら、ドナは古ぼけた一軒の家にたどり着いた。
夕暮れ時の路地は冷たく濡れ、街灯の光に青白く光っている。人の身長よりも遥かに高い鉄柵がぐるりと広い庭を取り囲み、その尖った尖端が空を突くように立ち並んでいる。策の中は木々がうっそうと茂り、家の様子はよく見えなかった。
遠慮がちに押したはずなのに、呼び鈴がけたたましく鳴って、ドナは飛び上がりそうになる。仰々しい鉄柵の門に鍵がかかっている様子はなかった。速くなった心拍を何とか抑えて呼び鈴をもう一度押したドナだが、反応はなく、途方にくれて当たりを見回した。何故か、郵便受けが鉄柵の向こうに僅かに見える家の扉の脇にしかないのだ。これは恐らく、ケイオス博士に郵便物がほとんど届かないことと、郵便受けを出して置いたらいたずらをされるからだろうと予測はできたが、ドナにとっては不運でしかない。
もう一度出直すにしても、またこの不気味な館に来なければならないかと思うと、ドナは立ちすくんだ。
十分もそうしていただろうか。もう一度だけ。最後にいる一度だけと、呼び鈴をドナが押した時だった。
茂みの向こうの扉が細く開いて、高い声が聞こえてくる。
「どなたですか?」
天の救いとばかりに、ドナはその声にすがった。
「大学で博士のお手伝いをしていた、ドナ・ウェルトンといいます。博士が忘れて行った本を届けにきました。」
丁寧に説明するドナの声に、扉がもう少しだけ開いた。
「お父さんは、食料品を買いに行っています。お手伝いさんがいなくなってしまったの。私は嫌いだから、もう来て欲しくなかったんだけど。」
幼い雰囲気の物言いに、ドナは戸惑った。
恐る恐るという雰囲気で顔を出してきた少女に、ドナは驚いた。
あまりにも白い。
日光に当たっていない白さというのではなく、髪の毛から肌にうっすらと生える産毛まで、完璧に透けるように白いのだ。白いまつ毛に縁どられた薄赤い目が、好奇心旺盛にドナを見ている。
「あなた、アクラね!」
今、正に自己紹介したばかりというのに、言い切られてしまって、ドナは唖然とした。
「私はドナ…。」
「私は、ミリアム。でも、ルシュなの。だから、あなたもドナで、アクラなんだわ。良かった。ルシュが私なのに、アクラがいないなんておかしいと思ってたの。ちゃんといたのね。」
最早ドナの言葉など耳に入っていない様子で、ミリアムは裸足のまま外に出てきて、鉄柵の門を開けた。親しげにドナの腕をとり、中へ導く。
「本を届けに来ただけなんだ。」
「ルシュに会っていって。お願い。ルシュはアクラと会えなくて、とても悲しくて塞ぎ込んでいるの。」
色素が欠落している以外は、非常に愛らしい少女に懇願されて、ドナは断ることができなかった。
先天的な色素欠乏症であろう少女は、小柄なドナより背丈は少し小さいくらいだが、手足は折れそうに細かった。薄水色のワンピースをひるがえす彼女は、いかにも寒々しい。
「こっちよ。」
手招きするミリアムについて行って、薄暗い廊下を歩いて行くドナ。お手伝いさんがいなくなってしまったのがいつからか分からないが、廊下の隅には薄っすらとほこりが積もっていた。
淀みなく素足で廊下を歩き、ミリアムは二つ並んだ扉の前に来る。ためらわずに彼女が開いたのは、右の扉だった。
足を踏み入れる前から、何かが駆動しているような音が部屋の中から響いて来る。早くと急かすミリアムに続いて部屋に入ったドナは、息を飲んだ。
ガラス瓶の中に、白山羊の頭部が浮かんでいる。
最初に目に入ったのは、そんな光景だった。よく辺りを見回してみると、大小様々なチューブがそのガラス瓶の中に入り込んで山羊の頭と繋がっており、ガラス瓶が置かれたテーブルの周囲には、規則正しく上下するプラスチックケースに入ったチューブと繋がれたふいごのようなもの、高い位置から吊るしてある点滴パックのようなもの、車のエンジンを思わせる仰々しい音を立てるもの……ドナには全く理解できない機械類がぎっしりと取り囲んでいた。
「これは……。」
ドナがその後に続ける言葉を失っていることに気付いていない様子で、ミリアムは誇らしげに告げる。
「ルシュよ。もう一人の私。」
ルシュと呼ばれた白山羊は、ガラス瓶の中にただ浮かんでいる。
「ルシュには人間と同じ声帯はないから、こうやって話しかけるの。」
目を閉じているルシュに、ミリアムは近づいて行き、斜め前のデスクの上に乗っているパソコンのキーボードを叩いた。
『起きて、ルシュ。アクラを見つけたわ。』
ぶぅんとパソコンのタワー型の本体が唸り、コードで繋がれた液晶画面に文字が浮かび上がる。黒い画面に光る緑の文字。
その文字に反応するように、ガラス瓶の中の白山羊、ルシュが目を開けた。
『アクラ?私のアクラ?』
光る緑色の文字が、ミリアムがキーボードに手を触れていないのに、流れるように現れる。
『もう一人のアクラを、見つけたの。』
デスクに備え付けてある椅子に腰かけ、素早く文字を打つミリアム。ルシュは縦の虹彩の黄色い目をきょろきょろと動かした。
『あなたが、アクラなのね。もう一人の、アクラ。』
黄色い目がドナを真っ直ぐに見つめて来た時、ドナは恐怖よりも吐き気を覚えた。こんな状態でも、この山羊は生きている。しかも、人間とコミュニケーションをとれる。
これは何かのトリックで、ルシュはよく出来た玩具ではないのかと、ドナは思いたかった。けれど、あまりにもリアルな黄色い目と、よく分からない透明の液体の中で濡れて揺らめく体毛が、その山羊を本物だと信じさせてしまう。
『ガラスが邪魔をして、声が聞こえないの。お願い、声を聞かせて。』
懇願する様子の文字列にドナは戸惑いを隠せなかった。ミリアムが無邪気に微笑んで手招きしている。
「ここに文字を打ち込んで。そしたら、ルシュに伝わるから。」
何も疑っていないミリアム。そんな彼女に、自分が何をしに来たのかもう一度説明しようとするが、薄赤い目が期待しているのを感じて、ドナはため息をつき、椅子にかけた。
『私はドナ。アクラじゃない。』
素っ気なく打ち込んだはずなのに、白い山羊は目を瞬かせ、舌を出した。
『いいえ、あなたはアクラ。私と同じミリアムと対になる存在。』
狂っているとドナは空恐ろしくなった。この光景も少女もみんな狂っている。ケイオス博士の家になどくるのではなかった。
逃げようと立ち上がり踵を返した時、ミリアムが間近から見上げてくる。透けるようなけぶる睫毛の美しい少女。華奢な手足は今にも折れそうだ。
その腹が可愛い音を立てた瞬間、ミリアムは毛細血管の浮き出るほど白い頬を赤らめて俯いた。
「お父さんの料理は、美味しくないんだもの。」
言い訳のように呟いて、ミリアムは頭を掻く。
「私が悪かったのは分かってるのよ。でも、あのお手伝いさん、私を頭がおかしいんだって決め付けて、意地悪をしたのよ。信じられる?子どもにはお仕置きが必要だなんて言って、お父さんがいない時に、私を納屋に閉じ込めるのよ。」
不当な扱いに怒る彼女の中に聡明さのようなものが見え始めて、ドナは戸惑う。狂っているのは自分なのだろうか。それとも、彼女だろうか。
「それに、私は子どもじゃない。」
真っ直ぐな射抜くような目に、ドナは目を背けられない。
「私は、帰らないといけないから。これを、博士に渡して。」
本を押しつけて帰ろうとしたドナが振り返ると、扉のところにケイオス博士がいた。ミリアムはケイオス博士の姿に気付いて大喜びでその腕に飛び込んでいく。
「お帰りなさい、お父さん!」
「ミリアム、これは他人に見せてはいけないと言っただろう?」
諌める口調が父親らしく、どこか優しいような気がして、ドナは戸惑った。ミリアムはむくれ顔でケイオス博士に説明する。
「だって、ドナはアクラだったんだもの。私がルシュであるように。」
「彼が、アクラ?」
つま先から縮れた髪の毛までじろじろと見られて、ドナは居心地が悪くなって俯く。俯いたまま、ミリアムに手渡した本を指さした。
「ラングレイ教授に頼まれて本を届けに来ただけです。このことは、誰にも言いませんから!」
逃げるように帰ろうと走り出すドナの腕を、ケイオス博士がぐっと掴んだ。細い筋張った手なのに、物凄い力でドナは怯んでしまう。
「あ、あの……。」
「ミリアムが気にいるなど、珍しい。この通り、使用人が辞めてしまって困っているんだ。バイト代わりに家事を手伝ってくれないか?」
否を言わせぬ口調に、ドナは唾を飲み込んだ。凄みのあるケイオス博士の笑顔に、逃げ出したい気持ちが募る。
「それに、会ってみたくないか、アクラに。」
あの瓶の中の白い山羊ルシュと、同じだというミリアム。
そして、ミリアムとルシュが、ドナと同じだというアクラ。
好奇心は猫を殺すというが、結局、ドナは好奇心に負けた。
大学の講義が終わると食材を買って、ケイオス博士の家に行くのがドナの日課になった。ミリアムは毎日笑顔でドナを迎えてくれる。色素から見放された不思議な少女。
ドナがアクラと出会ったのは、ケイオス博士の家に通い始めて三日目のことだった。ケイオス博士はアクラにドナを紹介した。ルシュと同じくガラス瓶の中に頭部だけで存在していた。立派な角とあご髭。一目で雄だと分かった。
『博士から聞いている。君が私の半身か。』
黒い画面に光る緑色の文字列。ドナにはそれが現実味を帯びておらず、目が滑る。
『キーボードを打つといい。そうでなければ、私には聞こえない。』
ルシュよりもやや落ち着いた雰囲気のアクラに、ドナは問いかけた。
『君はそんな姿になって、苦しくないのか?』
後方で見ているケイオス博士の笑い声が聞こえたが、気にする余裕などなかった。頭部だけになって落ち着いていられるなど、薄気味悪くて仕方ない。
『苦しい。ルシュも苦しいだろう。会えないことが、何よりも苦しい。』
アクラは語る。ルシュと共に過ごした母親の腹の中のこと。生まれ落ちてからもずっとルシュと一緒だったこと。
『私の代わりにルシュを慰めてほしい。』
アクラの思考を映す文字に、ドナは何も言えなかった。
翌日、夕食の準備の前に、ミリアムに手を引かれて、ドナは嫌々ながらルシュのいる部屋に向かった。アクラのいる部屋と全く同じ作りで、同じ場所かと勘違いしてしまいそうになるが、ガラス瓶の中の山羊の頭部の色だけが違う。
ドナはアクラにしたのと同じ問いかけをルシュにもした。ルシュは答えた。
『体がなくなって悲しい。アクラの子どもが産めなくなってしまった。』
その瞬間、ドナは悟った。人語を解そうとも、理路整然と話しているようでも、これは確かに動物なのだと。双子の兄弟の子どもを生みたいなど。
『アクラに会いたい。』
ルシュの呟きを表す明滅する緑の文字に、狂気を感じた。
ミリアムは山羊のことを除けば、明るく賢い少女だった。少女じみているが意外と大人なのかもしれないとも思えた。ミリアムと過ごす日々はドナにとって、少しだけ楽しかった。馬鹿にされないし、見下されもしない。それどころか、笑顔で迎えられる。
そんな平和な日々に幕を下ろしたのは、ケイオス博士、その人だった。
「実験は最終段階に入った。」
ある日、興奮したケイオス博士が夕食の準備をしていたドナと、それを手伝っていたミリアムを呼んだ。
「山羊の双子は共鳴し合っている。ついに、離された部屋でも会話をできるようになった。」
連れて来られたアクラの部屋では、液晶画面に一面、文字が踊っている。ルシュとアクラの会話。
「この日を待っていた!」
大声で笑いながら、ケイオス博士はアクラのガラス瓶に繋がれたチューブに手をかける。ミリアムが悲鳴を上げた。同時に液晶画面にルシュの悲鳴が映し出される。
「ミリアム、天国と地上を繋ぐ架け橋が架かるぞ!」
チューブが引き抜かれる直前に、緑の文字がドナの名を呼んだ。
あとはたのむ、と。
断末魔の悲鳴を上げるための腹筋を持たない頭部だけの黒山羊は、ガラス瓶の中で痙攣して事切れた。嬉しそうに走ってルシュの部屋に入るケイオス博士を、泣き叫ぶミリアムとともにドナは追いかける。
「聞こえるか?片割れの声が聞こえるか?」
物凄い勢いでキーボードを叩くケイオス博士に、ルシュは一言、答えた。
『もう、何も聞こえない。』
きゃあああああああああ!と壊れたように悲鳴を上げたミリアムの前で、ルシュの目が濁っていく。ぐるりと反転した白目を剥き、舌を出してルシュはこときれた。
「違う!こんなはずじゃない!死者と話ができるはずだったんだ!」
気絶したミリアムを抱きとめたドナの耳に、ケイオス博士の叫び声だけが虚しく響いていた。
後にドナは知る。
ケイオス博士の妻がミリアムを産んですぐに自ら命を絶っていること。そして、その理由をケイオス博士が知りたがっていたこと。
あれから十年。ケイオス博士は死んだ。ミリアムも死んだ。研究に没頭していた博士はそれを失ったことで、ルシュに同調していたミリアムはルシュを失ったことで、取り返しのつかない傷を負ったのだろう。
ドナのそばには、今、二人の子どもがいる。極めて珍しいと言われる、黒人と白人の双子。母親のミリアムは死ぬ前にその子達に、アクラとルシュという名前をつけた。
アクラはやんちゃな男の子に、ルシュはおてんばな女の子に育っている。
ドナはいつかこの二人に語るだろう。双子の山羊の話を。ガラス瓶の中の悲しい山羊達の話を。