第4章 狂気
なんとか職員室の前までやって来たところで、息が切れてしまった。僕は戸に手を置き寄りかかった。口を大きく開けて、必死に呼吸を繰り返す。口からよだれが溢れるが、気にしてはいられない。
あいつはどうなっただろう。もしかして、僕の後ろを追って来ているのではないだろうか。もしもそうだとしたら、僕はもう逃げられない。捕まったらどうなるのだろう。僕もみんなみたいに生首にされてしまうのだろうか。
後ろを見るのが怖い。あんな恐ろしいものをもう見たくない。だけど、確認しなければならない。このまま追いつかれてしまえば、本当に打つ手を失ってしまう。まずは、現状を把握しないと。頼む、頼む、頼む! 僕は心の中で叫びながら後ろを振り向いた。
そこには、誰もいなかった。
廊下はガランとしていて、何の気配も感じない。どうやらお化けは追って来ていないようだ。僕の口から安堵の息が漏れた。よかった。とりあえず、助かったらしい。
となると、僕が取るべき行動は一つ。職員室に入るのだ。先生たちの無事を確認して、生きている先生がいれば色々報告しよう。正直に言って、先生がいたからと言って何とかなるとはもう思えないが、何もしないよりは遥かにマシだ。
元の方向へと向き直り、僕は職員室の戸に手をかけた。しかし、
「えっ?」
僕が引き戸を引くよりも早く、戸が開いた。そして、誰かがそこから飛び出して来て、僕とぶつかった。
「うわっ!」
僕は後ろに倒れ込み、尻餅をついた。ぶつかって来た誰かは僕に覆いかぶさるように倒れている。
「何? 誰?」
衝撃で目がチカチカする。混乱する頭を押さえながら、僕はその人物の方を見た。少しずつ焦点が定まり、相手の顔がはっきり見えてきた。
「相沢先生?」
そこにいたのは、一昨年僕の担任だった、相沢先生だった。眼鏡をかけており、いつも陽気で授業も面白く、生徒からの人気も高い先生だ。確か今年は、二年生の担任をしているはず。
しかし、今の先生には普段の面影は全くなかった。
「たす、助けて! 助けてくれえええ!」
相沢先生の口から発せられたのは、懇願の言葉だった。
「助けて、助けて……。」
「先生、どうしたんですか。先生!」
僕は先生の肩を掴んで懸命に呼びかけた。しかし、先生は口から唾を飛ばして「助けて」を連呼していた。その目はこちらを見ているようで、全く見ていなかった。どうやら正気を失っているようだ。
「先生! 先生!」
何が起きたかは見当がつく、だけど僕は先生の口から事情を聞きたかった。ようやくまともな人間に出会えたのだ。簡単に諦めるわけにはいかなかった。
「先生! クソッ! 先生すみません!」
僕は先生の横っ面を思いっきり張り飛ばした。バチンと大きな音が廊下に響、先生の叫びが止まった。
「先生、大丈夫ですか? 話せますか?」
「生首……。」
「え?」
「生首が、たくさん! 職員室中に生首が! また生首があ!」
やはり職員室の先生たちも生首になってしまったらしい。
「生首生首生首ナマクビナマクビナマクビイイイイ!」
先生は耳をつんざくような大声で絶叫した。そばにいた僕はたまったもんじゃない。耳がキーンとして、一瞬何も聞こえなくなった。
「ああああああああイヤアアアアアアアア!」
最後にそう叫ぶと、相沢先生はがっくりとうなだれ、僕の方へ倒れ込んだ。そしてそのまま先生は動かなくなった。
「先生、先生ってば!」
どうやら気絶してしまったようだ。先生の体重が僕の体にかかって、重い。僕は必死に先生を押しのけようとした。このままじゃいけない。もしも今あのお化けがやって来たら。いや、あいつだけじゃない。もしかしたら他にも何かいるかもしれないのだ。動けないのは致命的。だから、早く先生をどかさないと。
筋力のない僕にとって、大人の男性を一人動かすのはかなり骨の折れる作業だった。それを成し遂げるのに、体感で数分かかった。もしかしたら、もっとかかっていたかもしれない。
相沢先生はと言うと、完全に伸びてしまっているようで、微動だにしない。仕方がない。先生は置いて行くしかなさそうだ。まずは職員室に他の先生が残っていないか確認しないと。
僕は立ち上がると、今度こそ職員室の中へと入っていった。そこの空気もやはり赤く染まっており、そして暗かった。その異常性は、僕たちの教室と変わらないようだ。そして、
「先生たちもか……。」
職員室の机の上にも、生首がたくさん並んでいた。若い先生も年配の先生も関係ない。全員が生首だけになってしまっている。小柄で優しかった加藤先生も、運動会で大活躍していた栗山先生も、厳しそうに見えてよく生徒のことを見てくれていた教頭先生も、全員が生首になってしまっていた。どれもこれも口は情けなく開いており、涎を垂らしているものもいる。肌は真っ青で、まるで病気になっているかのようだ。目は多くの者が血走っていて、狂気に染まっているとしか思えなかった。
相沢先生は、この光景を見たのだろう。それで動転して、あんな風になってしまった。すこし動転しすぎな気もするが、そこは考えても仕方がないか。しかし、どうして相沢先生だけは無事だったのだろう。それがわかれば、助かるヒントになるかもしれないのだが……。
僕は職員室を一周した。その途中で、相沢先生の席を見つけた。他の席と違う、数少ない生首の乗っていない席。僕が入ってきた戸からはだいぶ離れた位置にある。僕は机の引き出しを覗いて見た。そこにあったのは、わずかなお菓子と、授業用のプリントくらい。大したものは入っておらず、ナゾを解くヒントになりそうなものはなかった。
相沢先生の席の向かい側に、稲垣先生の席があった。ついでに引き出しの中を覗いてみると、そこには手帳が入っていた。ペラペラとめくってみると、どうやら先生の日記、というか感想をまとめたものであるようだった。
『九月二十八日 武田から相談を受ける。いじめを受けているとのこと←嘘
他の生徒がじゃれているのを、武田がいじめだと思い込んでいるだけ。むしろ、周囲に心を開かない武田の弱さが問題。武田に指摘するも、理解は得られず。
そもそも武田の言ういじめ行為は存在するのだろうか。武田の狂言という可能性もある。私のクラスでいじめなんてあるわけがない。そんな中でトラブルがあるかのように行動する武田こそ害悪。』
僕はそっと手帳を閉じると、引き出しの中に戻した。稲垣先生の机の上にあるものすべてをなぎ払ってしまいたかった。僕が悪い? 僕が害悪? 何にも見ていないくせに、何もしようとしないくせに! 僕が見せたいじめの証拠も、自分で作ったと思われていたのか。ちくしょう!
僕は早足で稲垣先生の席から離れた。一瞬でも近くに居たくなかった。そのまま職員室をぐるりと回って見たが、これ以上の情報を得ることはできなかった。
職員室を出ると、相沢先生はまだ転がっていた。これをどうにかする方法は僕にはない。残念だが、このまま置いて行くしかないな。
さて、これからどうしよう。この惨状をどうにかするなんて、僕にはできない。生首だけでもどうしようもないのに、あのお化けだ。僕の理解を完全に超えてしまっている。
先生たちに状況を報告すると言う目標が潰えた今、僕にできることは何もない。ならばするべきことは一つであった。逃げるのである。こんな場所、長くいるべきではない。とにかく、ここから脱出しよう。そうすれば、どうとでもできる。家に帰って布団にくるまったっていい。そうすればこの悪夢も終わるかもしれない。
僕は靴箱に向かった。靴を取り出して、上履きを放り込む。取り出した靴を履こうとするが、足が震えてうまくいかない。早くしないといけないのに! またあのお化けが来るかもしれないのに! 結局履くまでに数十秒かかったが、その間は特に何も起きなかった。
僕は、校門に向かって歩き出した。校門までの距離はせいぜい二十メートルくらいだ。すぐにたどり着く。門も開きっぱなしのようだし、あそこから出られれば、全てが終わるはずなのだ。
ゆっくりと、だけど確実に一歩一歩踏みしめていく。心を落ち着けて、歩き方を忘れないように。大丈夫。さっきは慌てていたからうまくいかなかっただけだ。落ち着けば、いつものように歩けるに決まっている。
右足を出して、左足を出す。それだけに集中して、僕は進む。そのせいで、僕は気づいていなかった。今、僕自身に起きている異常事態に。
それに気づいたのはしばらく後のことだった。
「あれ?」
おかしい。これだけ歩けば、校門なんてとっくに過ぎているはずだ。それなのに、僕はまだ校門を見てすらいない。
僕は顔を上げて周りを見た。そして、青ざめた。そこは、靴箱から出てすぐのところだった。
「なんで……?」
どうして進んでいないんだ。いくらゆっくり歩いていたからって、こんなことはありえないはず。僕は前を見た。確かに約二十メートル先に校門がある。
まさか、校門にたどり着かないのか?
嘘だ、そんなことはありえない。
僕は最悪の想像を頭の隅に追いやった。そしてキッと校門を睨みつけた。今度は絶対、たどり着くはず。僕は再び歩き始めた。今度は校門を見続けながら。
しかし、僕が校門にたどり着くことはなかった。どれだけ歩き続けても、校門までの二十メートルが減っていくことはなかったのだ。何度進もうとも、気づけば僕は靴箱のすぐそばにいた。
僕は、学校に閉じ込められてしまったのである。
「そんな……。」
愕然として、立ち尽くす。逃げることは叶わない。だからと言って、どうにかすることも僕にはできない。万事休すだ。
本当に呆然とすると、人間は何もできなくなるのだと言うことを、僕は知った。今までかろうじて動いていた足が、途端に重く感じられる。呼吸すら忘れて、僕は固まっていた。校門は見えているのに。それなのに!
その時、僕の視界に小さな黒い影のようなものが飛び込んできた。どうやってもたどり着かなかった校門から、こちらに向かって影は大きくなる。一体何だ? 暗くてよくわからない。僕は目を凝らした。それは、少なくとも人型をしていた。まさか、またお化けか? だとしたら、ここにいるのは不味い。僕は靴箱まで後ずさりすると、その影に隠れた。
黒い影は、肩を揺らしながらこちらに向かっている。どうやら走っているようだ。ここから見る限り、首があるように見える。僕は両手を合わせて握り込んだ。頼む。首のある人間であってくれ。
その願いは、叶った。
「なんだ? どうしてこんなに赤いんだ?」
その人の口から、確かに言葉が漏れた。やった! これは間違いない。まともな人間だ。しかもその声は、聞いたことのあるものだった。
「紅林くん!」
僕は靴箱の影から飛び出した。そこにいたのは、紛れもなく紅林くんだった。僕以外で、唯一生首にならずに済んだ人間。彼も僕と同じで、遅刻してきたらしい。
「武田? お前、こんなところで何をしているんだ?」
「それどころじゃないんだ。大変なんだよ紅林くん!」
紅林くんは怪訝な表情でこちらを見つめている。どうやら紅林くんは、この惨状を知らないらしい。
「紅林くんは、今登校したんだね。」
「ん? そうだが、一体何だって言うんだ?」
「説明するよりも、実際に見てもらった方がいいと思う。僕についてきてくれないかな。」
意外にも、紅林くんはあっさりと頷いた。
「ああ、わかった。どうせ遅刻だしな。多少遅れたって構うもんか。」
紅林くんが頷いてくれたことが、僕は少しだけ嬉しかった。彼は僕のことを多少でも信用してくれているのだ。
僕は紅林くんと一緒に六年二組まで上がった。
「多分、見たらショックを受けると思う。心の準備をしておいてね。」
「何が何だかわからんのに、準備もクソをあるかよ。」
そう言って紅林くんは、僕の制止も聞かずに教室の戸に手をかけた。
「おはようございます。」
そう言って戸を開いた紅林くんは、そのまま固まった。当然だ。いくら紅林くんの肝が座っているからと言って、この状況を見て動揺しないわけがない。
「大丈夫?」
僕の言葉には耳を貸さずに、紅林くんは教室に入っていった。そして、手近な机の上に乗っている生首をじっと見つめた。
「これは、どう言うことなんだ?」
その声は、思っていたよりもずっと冷静なものだった。
「一体何が起こったんだ。」
「わからない。僕が学校に来た時には、もうこうなっていたんだ。」
「それはいつのことだ?」
「ええっと。大体朝礼の時間だったと思う。」
「他の教室は?」
「僕が見た限り、全部の教室がこうなっていたんだ。」
言いながら、僕の声が震え始めた。
「隣の教室も、職員室も、みんな生首になっちゃって、僕にはどうすることもできなくて。それに、お化けみたいのも出て来て。僕、怖くて逃げようとしたんだけど、それもできなくて……。」
話しているうちに、目頭が熱くなってきた。あまりのショックの大きさに感覚が麻痺していたが、本当に恐ろしかったし、無念だった。その思いが涙と一緒にどっと溢れ出して、僕の頬を濡らした。
「落ち着け、武田。」
紅林くんはこちらへ振り返ると、僕の肩を掴んだ。
「泣くのは後だ。今は状況説明が欲しい。詳しく話してくれ。」
「だけど、僕たちだけじゃどうしようもないよ。こんな異常な状況じゃ、何にもできない。」
「何もできないかどうかは、聞いてから決めればいい。大丈夫だ。一人では思いつかなくても、二人なら何とかなるかもしれない。」
「……無理だよ。」
僕は俯いて首を振った。なぜか紅林くんと目を合わせることができない。
「武田! お前の話が必要なんだ! お前ならこの状況でも色々情報を集めたはずだ。それが必要なんだよ。」
紅林くんはしゃがみこむと、無理やり僕と目を合わせた。その目は本気だった。今までに見たことがないくらい、真剣な目つきだった。
紅林くんが、僕を必要としてくれている。それも、「お前なら」と言ってくれた。小さく固まった僕の心に、その事実がゆっくりと染み込む。なぜだかわからないけど、紅林くんは僕のことを買ってくれているのだ。さっきもそうだった。紅林くんは僕を信用してくれている。それなのに、答えないままでいいのだろうか。