第3章 始動
次の日の朝、僕が目覚めた時、最初に目に入ったのは時計だった。それはどこにでもある、普通の目覚まし時計だった。だから、本来であればその光景はいつも通りのもののはずだった。しかし、そうではなかった。時計の針が、いつもの朝とは違う場所を指している。
少しずつ、頭が覚醒していく。長い針が指しているのは、十二のところだ。そして、短い針が指しているのは、八だった。
僕は飛び起きた。まずい、寝坊した。普段起きるのが七時、そして今は八時だ。朝礼が始まるのが八時二十分。このままでは、確実に遅刻してしまう。
朝ごはんを食べている時間はない。僕は急いで服を脱いだ。そして、学校指定の制服を取り出すと、すぐさま着込んだ。振り向いてもう一度時計を見る。この時点で、八時十分。今から出ればギリギリ間に合うか?
だけど……。僕は固まった。もしも今の状態——髪の毛ボサボサで顔も洗っていない——で学校に行ったらどうなるだろう。そうでなくてもギリギリになる分目立つのに、こんな状態で行けばきっとクラスの笑い者になってしまう。遅刻回避を取るか、いじめ回避を取るか。逡巡。答えはすぐに出た。僕は洗面所に向かった。
水道水でバシャバシャと顔を洗いながら、考える。どうして寝坊してしまったのだろう。こんなことにならないように、昨日も早く寝ようとした。しかし、実際はなかなか寝付けなかった。ここ数ヶ月で、眠りにくくなった気がする。眠っても、すぐに目を覚ましてしまう。だから、早く眠ろうとしているのに。
それにしても、一時間も寝坊してしまったのはなぜだ。考えられるのは、目覚ましが鳴らなかったことだ。実際、時計が鳴った記憶はない。きっと、昨日セットするのを忘れていたんだ。忌々しい!
もう遅刻は確定したようなものだ。それでも、できるだけ早く行った方がいい。うかうかしていると、お母さんに連絡が入ってしまうかもしれない。僕は髪の毛を乱暴に撫で付けると、ランドセルを背負って家を飛び出した。
外は不自然に暗かった。空は分厚い雲に覆われて、日の光は全く見えない。今日は晴れるんじゃなかったのか? そう疑問に思いつつも、気にしている余裕はない。僕は学校まで走り続けた。
僕はあまり体力のある方ではない。特に走るのは苦手だ。長距離走にいたっては、学年でビリが取れる自信がある。そんな僕でも、今日は五分程走り続けることができたと思う。横腹には鈍い痛み。それでも止まるわけにはいかない。学校は、もうすぐそこだ。
側から見れば、実に無様な姿だっただろう。最後はよろよろと道を左右にぶれながら走っており、今にも倒れそうだった。しかし、なぜか今日は誰ともすれ違わなかった。それどころか、道を歩く人も、遊んでいる子供も、誰も見ていない。
いやいや、それがどうしたというのだ。外が暗いのも、人がいないのもたまたまだ。どうでもいいことではないか。考える必要のないことだし、こんな姿を誰にも見られずに済むのだ。むしろラッキーなくらいだろう。
それなのに、どうしてこんなに胸騒ぎがするのだろう。
結局七分ほどかけて、僕は校門までたどり着いた。門はまだ開いている。僕は力を振り絞って校門を駆け抜けた。その時、
「ピリッ」
何かを感じたような気がした。背中に流れる、電流のような……。
僕は急いで靴箱に靴を放り込むと、上履きを取り出した。中身を覗くが、今日は画鋲も何も入っていないようだ。すぐに上靴を履くと、僕は階段を急いで上がった。
駆け上がる最中も、僕の胸騒ぎは収まらなかった。何かがおかしい。いつもとは何かが違う。一体なんだ?
考えてみると、答えは簡単だった。静かすぎるのだ。いくら朝礼が始まっている時間とはいえ、この学校には三百人以上の生徒と数十人の先生がいる。どんな時だってそれなりにガヤガヤとしているはずだ。それなのに、何の音もしない。不気味なほどの静寂。まさか、誰もいないのか? いや、そんなことはありえない。今日は平日だ。普通に生徒は来ているはず。
もしかして、黙祷か? あの事故から今日で一年、昨日も考えたが黙祷を捧げてもおかしくはない。だとすれば、静かな時間があるのも頷ける。とはいえ、こんなに長く静かであるだろうか。
走り疲れた僕は、ハアハアと息を乱しながら、階段を上っていた。ここまでくれば、もう走る必要もないだろう。と言うよりも、もう走れない。
僕の教室は四階にある。六年二組だ。この階段を上り終えて、一つ向こうの教室である。入る時、どうすればいいだろうか。無言で入るわけにはいかないだろう。とりあえず、引き戸を開けて、黙祷をしていればそのまま入ろう。そうでなければ「遅れてすみません」だ。
フラフラになりながらも、僕はようやく階段を上り終えた。疲れからか、視界が妙に赤く感じられる。いや、これは外からの影か? なぜか学校の中が赤い。夕焼けのような健康的な赤さではない。まるで、怪我した時に流れる血のような赤さ。おかしいな。外は暗かったはず。赤いなんてありえない。やっぱりおかしいのは僕の方か?
教室の戸にたどり着く。僕は一旦立ち止まり、呼吸を整えた。吸って吐いて、吸って吐いて。よし、少しだけ落ち着いた。僕は戸の引き手に手をかけた。
ゆっくりと戸を開く。そこにあった光景は、僕の想像とはまるで違うものだった。
「えっ?」
僕の目に飛び込んで来たものは、生首だった。
最初は人形かと思った。マネキンか何かの人形の首が、教卓に乗っているのだと。しかし、そうではなかった。人形にしては、あまりにもリアルすぎる。目は暗く虚ろで、顔色は青白い。口はだらんと開き、舌が見えている。まるで生気のない表情は、とても人形に出せるものではない。近づいてみると、それは確かに稲垣先生の首だった。
「せん……せい……?」
僕は思わず、その生首に手を伸ばした。触れてみると、それからは人肌の温もりが確かにした。
「うわあ!」
我に返った僕は、教卓から後ずさりした。先生の生首! 死んでいるのか? だけど体温はある。何だよこれ。どうなっているんだ?
「ああっ!」
教卓から離れた僕は、教壇を踏み外し、後ろにバランスを崩した。かろうじて一番前の席に手をついた僕は転ばずに済んだ。そのままの勢いで振り返ると、そこには……。
「ひいっ!」
そこには、またしても生首があった。こちらは濁った目がひっくり返っている。それは、長居の首だった。
「そんな、嘘だ……!」
僕は又しても後ずさり、教卓に背中をぶつけて尻餅をついた。ガシャンと音がなって、先生の生首がゴトリと床に落ちる。だが僕は、そちらを見てはいなかった。それよりも、もっと恐ろしい光景を目にしていたからだ。
教室のほとんどすべての机に、生首が乗っていた。
どれもこれも、まるで死体のような顔をしている。右を見ても、左を見ても、生首生首生首……。生徒それぞれの机に、それぞれの生首が鎮座していた。
あまりの衝撃に、僕は数秒固まっていた。異常なんてものじゃない。ありえないとか、そんな言葉では表しきれない。背筋を冷や汗が流れる。心臓は早鐘を打ち、手先はブルブルと震えている。
まさか、クラス全員が生首になっているのか? そうだとしたら、
「ゆかり……、ゆかりは!」
僕は立ち上がろうとしたが、足がすくんでしまっているのかできなかった。
「ゆかり……!」
僕は四つん這いになりながら、懸命にゆかりの席に向かった。ゆかりの席は、一番左端の後ろから二番目だった。そこまで這いつくばって進むと、ゆかりの席に手をかけて無理やり体を起こした。
「ゆかり!」
そこあったのは、変わり果てたゆかりの姿だった。可愛らしかった小さな口は半開きで、目は曇り左右で違う方向を見ている。魅力的な赤い頬も、今では青ざめ見る影もない。そして何より、ゆかりも首から下がない。生首だった。
「そんな……。」
何とか立ち上がって、改めてクラスを見渡す。ゆかりや長居だけではない。新見や他の僕をいじめていた生徒たちも、生首になっている。生首のない席は、二つだけだった。
他の教室は? 隣の六年一組はどうなっているのか。もしかしたら、この異常事態はこのクラスだけかもしれない。そうだとしたら、まずは伝えなくちゃ。誰か、大人に。
僕はよたよたと教室を出た。廊下には誰もいない。そしてやはり、静かすぎる。ということは、六年一組も……。僕は最悪の事態を想像しながら、教室の戸を開いた。
そこには、やはり生首が並んでいた。六年一組の担任で、美人で有名だった神崎先生の生首が教卓に乗っている。そして、生徒たちの生首も、すべての机の上に置かれていた。
なんということだ。もしかして、すべてのクラスでこの現象が起きているのか? 生徒も先生も、全員が生首になってしまったとでも言うのか?
僕は駆け出した。震える足を無理やり動かし、階段を駆け下りる。職員室だ。もしかしたら、職員室なら誰かいるかもしれない。
慌てる気持ちとは裏腹に、体はなかなか言うことを聞かない。駆け下りながら、右足が左足に引っかかり、階段を転げ落ちる。踊り場に叩きつけられた背中に激痛が走る。僕は呻いた。だけど、止まってはいられない。早く確認に行かなくちゃ。僕はよろめきながらも立ち上がった。幸い、骨折も捻挫もしていないようだ。よかった。これならまだ進める。だが、走ることはできないだろう。
一歩一歩、慎重に階段を降る。こう言う時、四階は本当に不便だ。ただの公立の小学校でしかないS小学校には、エレベーターなどはついていない。辛くても、自分の足で降りて行かなければならないのだ。
数分をかけて、ようやく階段を降り切った。このまま右に進めば、一年生の教室があり、さらに奥へしばらく行くと職員室がある。職員室へと向かいながら一年生の教室も覗いてみたが、やはりここの生徒たちも生首になってしまっているようだ。
僕は変わり果てた一年生の姿を見て、口元を押さえた。あまりにも、むごすぎる。さっきまできっと元気いっぱいだったに違いない一年生たち。それが、こんな生とは真逆にありそうな姿になってしまうだなんて。あまりのショックに、吐き気を催してしまう。しかし、まだ全てが終わったわけではない。誰か、生首になっていない人がきっといるはずだ。そのためにもまず、職員室に行かないと。
一年生の教室は三つある。一年一組、一年二組、一年三組だ。そしてその奥には今年は使われていない教室がある。去年、事故のあった教室だ。職員室は、これらを超えていくつかの教室を挟んだ先にある。
一年生の教室を越えて、使われていない教室の戸を横切る。その時、教室の中からガシャンという音がした。もしかして、誰かいるのか? こんなところに生徒がいるとは思えないが、それでも生きている人がいるなら……。
戸の引き手に手をかける。お願いだ。誰かいてくれ。
僕は戸を開いた。なぜか鍵はかかっておらず、戸は何の抵抗もなく開いた。教室の中はやはり赤く、暗かった。窓際の席のあたりに、花瓶と花が落ちて居た。音の原因はこれか。そして、どうやらその向こう側に誰かいるようだ。屈んでいるのか、机に隠れて姿は見えない。小柄なのかもしれない。
「ねえ。そこにいるんでしょ。だれ?」
僕は恐る恐る誰かに近づいていく。
「僕は生首じゃないよ。だから安心して。」
教室の奥までたどり着き、ついに誰かの背中が見えてきた。これは、どうやら一年生のようだ。
「よかった。こっちにおいで?」
その言葉を聞いたからだろうか、四つん這いになっていた誰かはフラリと立ち上がった。その姿を見て、僕は悲鳴をあげた。
「あ、ああ、あああああ!」
そこにはいたのは、首のない子供だった。両手両足は揃っているのに、胴体の上にあるはずの頭部が欠片ほども存在していない。何かに切られたのか、首元の傷口からは鮮血が流れ出している。手足の肌は真っ白で、着ている制服は首から流れている真っ赤な血で染まってしまっている。大きさはやはり一年生くらい。だが、首のない姿を見て、それを人間だと思うのは難しい。それは異形でしかない。
立ち上がったそれは、こちらに手を伸ばし、ゾンビのようによろよろと歩いてくる。一歩歩くごとに大量の血がボトリと床に落ちる。そして、手の先にも血痕がこびりついており、痛ましいことこの上ない。その今にも壊れてしまいそうな姿からは、声にならない悲鳴が聞こえて来るかのようだ。
「来るな、来るなあ!」
肺がはち切れそうなほど、出せるだけの声を出して僕は逃げ出した。教室を飛び出し、廊下を急ぐ。
どうなっているんだ。何だ今のは。お化けか。首のないお化け。あんなにたくさんの生首が並んでいると言うのに、唯一動いていたものは首なしお化けだなんて。どうなっているんだ。どうなっているんだ!
僕は今出せる全力を振り絞りながら、廊下を進んだ。右足と左足を交互に出す。それだけのことが、今は本当に難しい。普段できていることなのに、どうして! 焦る気持ちはどんどん大きくなっていく。そしてその度に、足は動かなくなっていく。