第2章 自宅
午後六時過ぎ。テレビでは夕方のニュースを放送している。宿題を終えた僕は、それをボーっと眺めていた。どうやらどこかで火事があったらしい。幸い犠牲者はいなかったようだが、家は全焼してしまったそうだ。家を失った家族は、これからどうするのだろうか。まさか野宿ということはないだろうけど、もしかしたらしばらく肩身の狭い思いをするのかもしれない。それを考えれば、どれだけボロくても家のある僕はまだ恵まれている方なのだろう。
そんなことを考えていると、お腹がグウと鳴った。そろそろ晩御飯を食べようか。僕は立ち上がった。一人でいると、自分の裁量でご飯を食べる時刻を決められるので、どうしても遅くなりがちだ。しかし、遅くなればなるほど、次の日にしわ寄せが行くのを僕は経験上理解していた。晩御飯は早く食べるに限る。そして早くお風呂に入って、早く寝るのが一番だ。
僕はキッチンに向かい冷蔵庫のドアを開けた。中には大量のタッパーが入っている。どれもお母さんが作った常備菜だ。お母さんは仕事で忙しく、一緒にご飯を食べることはできないが、こうしてご飯の準備はしておいてくれる。
「せめて、お母さんの手料理を食べて欲しいから。」
そう言って、数少ない休日に常備菜をたくさん作ってくれるのだ。お母さんと一緒に食べられないのは少し寂しかったが、ご飯を食べるときはお母さんの愛情を感じることができて、僕は幸せだった。
冷蔵庫の中からいくつかタッパーを取り出す。フタを開けると、それらは蒸し鶏といくつかの野菜のピクルスだった。僕はそれらを皿に乗せると、これまた冷蔵庫から取り出したマヨベーズを蒸し鶏にかけた。最後に炊飯器からご飯(これも朝にお母さんがセットしてくれたものだ)を茶碗に装い、椅子に座った。手を合わせて、
「いただきます。」
僕はピクルスを口の中に放り込んだ。シャキシャキとした食感とほのかな酸味が口の中に広がる。
半年ほど前のことだっただろうか、ゆかりに
「一人でご飯を食べるのって寂しくない?」
と、聞かれたことがあった。
「少しね。だけどもう慣れたよ。」
その言葉は本心だった。お母さんがお父さんと別れてからもう七年になる。七年間、ほとんどの晩御飯を一人で食べてきたのだ。慣れない方がおかしい。むしろ、晩御飯に誰かがいる方が違和感を抱いてしまうだろう。
そう言えば、ゆかりはこうも言っていた。
「だったら私が一緒に食べてあげるよ。」
それはどういう意味なのかと、ドギマギしたのを覚えている。そんな僕に対し、ゆかりはいたずらっぽく笑ったものだ。
それなのに。
ゆかりは僕のそばにいない。最近では、僕が話しかけても無視をするまでになった。僕の存在を完全に否定するようになったのだ。僕の心がどれだけ傷ついているのか、ゆかりは考えたことがあるのだろうか。いや、そんなこと考えてはいないだろう。ゆかりは薄情な人間なのだ。僕の思いを踏みにじった人間なのだ。
許せない。
許せない。許せない。許せない。
「続いては特集です。悲惨な事故から、明日で一年が経とうとしています。現場となったS小学校を取材しました。」
テレビから流れるニュースを聞いて、僕は我に帰った。S小学校といえば、僕の通っている学校だ。
「一年前の朝礼の時間、S小学校で……」
そうか。もうあの事故から一年経つのか。直接関わったわけではないが、あのときは大変だった。救急車に消防車に、取材陣。様々な連中が学校に来て大騒ぎだった。
「現場となった教室は、今も使われておりません。今でも机の上には花が供えられており……。」
僕はリモコンを取り、チャンネルを変えた。なにもあんな悲惨な話を食事中に見ることはない。せっかくお母さんが作ってくれた料理が不味くなってしまう。
「続いては明日の天気です。今日に引き続き、明日も全国的に晴れ間が広がるでしょう。」
明日も晴天か。晴れだからと言って気分が晴れるわけでもないが、それでも天気が悪いよりはマシだろう。僕は天気予報を聞きながら、晩御飯を食べ続けた。
晩御飯の後は、すぐにお風呂に入る。ウチのお風呂は、ボロい上に狭い。体操座りをしないと、全身をお湯に浸けることができないほどだ。そのため、心身ともにリフレッシュできる環境とはとても言えない。ユニットバスなので、シャワーの扱いにも慎重にならなければいけない。これらの事情から、僕はお風呂に入る時間があまり好きではなかった。
しかし、お風呂をサボるわけにはいかない。少しでも汚いまま学校に行けば、僕に対するいじめは途端に激化するだろう。そうでなくても「臭い」だなんだと言われているのだ。隙を見せるわけにはいかない。
お湯に浸かりながら、明日のことを考える。もしかしたら、朝礼の時間に黙祷か何かがあるかもしれない。あの事故はそれだけ酷いものだった。もっとも、現場の教室にいなかった僕にはどうしても人ごとのように思ってしまうのだけど。
黙祷なんか捧げて、一体何になるというのだろうか。僕のクラスメートたちはいじめをなんとも思わない連中だ。そんなやつらの黙祷に、どれだけの価値があるのだろうか。どうせ本心では祈りなんて捧げていないに決まっている。それなら、黙祷なんてやめてしまえばいいのだ。
ああ、嫌だ。学校に行きたくない。本音を言えば、サボりたい。だけど、サボればすぐにお母さんに連絡が行くだろう。お母さんに心配をかけることだけは避けたい。となると、学校を休むという選択肢は僕にはない。
明日もまた、嫌がらせを受けるのだろうか。頭の中で、新見の憎たらしい笑い声が反響する。僕は頭を振って、その声を追い出した。しかし、僕をいじめるのは新見だけではない。紅林くんを除いた全員が、僕の敵だ。
どうしてなんだろう。一体何がいけないんだろう。僕が何をしたっていうのだろう。
新見なんて死んでしまえばいい。ゆかりもそうだ。そして、ゆかりを奪った長居も、死んでしまえばいいんだ。
あんな男の何がいいっていうんだ。確かに顔はいいかもしれない。だけど、それだけだ。成績だって、僕の方が良かったはず。運動は僕よりもできるだろうけど、だからと言ってクラストップというわけでもない。あんな男に靡くゆかりが許せない。結局のところ、僕がいじめられるようになったから、保身のために僕から離れただけなのだ。あの男じゃなくたって良かったに違いない。あの男は、不当に幸せを得ているのだ。僕がこんな目にあっているというのに。僕が毎日明日に怯えているというのに。
「クソッ!」
僕は自分の左腕を思いっきり叩いた。何度も、何度も全力で叩き続けた。バシッという大きな音が反響する。すぐに左腕は真っ赤になり、ジンジンとした痛みが腕中を駆けずり回った。それでも、僕は止まらなかった。いや、止められなかった。痛みとともに、感情がますます高ぶっていく。脳内がパンと弾けたように光る。クソッ! クソッ! クソッ! 風呂の中に、僕の声が響き渡る。甲高い、気持ちの悪い声だった。腕を叩き、頬を殴り、髪の毛を引っ張る。頭皮に鋭い痛みが走る。何度も、何度も、何度も引っ張る。ブチブチと音を立てて、髪の毛が抜けていく。もう一度頬を殴ろうと、右手を目の前に持ってくる。抜けた髪の毛が濡れた手のひらにべっとりとついている。それを見て、僕はようやく止まることができた。
ああ、またやってしまった。最近はいつもこうだ。感情が高ぶると、自分で自分を傷つけてしまう。これは、いけないことだ。お母さんが見たらなんて思うだろう。怒るだろうか。僕を叱りつけるだろうか。それとも、抱きしめて泣いてくれるだろうか。
……そろそろ、体を洗わなければならない。頭を切り替えなければ。僕はまだ大丈夫だ。本当に壊れてしまっていたら、刃物で手首を切ったり薬を大量に服用したりするはずだ。命に別状のない間は、まだ引き返せる。
僕はバスタブの栓を抜いた。ゴボゴボと濁った音を立てながら、お湯が穴から流れて行く。それと共に、僕の抜けた髪の毛も流れていった。
夜寝る直前、僕はソーイングセットを取り出した。縫い物は、僕の唯一の趣味だった。今は、簡単なカバンを作っている。適当な生地を縫い合わせて、手提げカバンを作るのだ。ミシンを使ってもいいのだが、今は手縫いにしている。その方が集中できるからだ。裁縫に集中している間だけは、学校のことを考えなくて済む。僕にとって、この裁縫の時間はかけがえのないものだった。
一時間ほど縫っていただろうか。不意に壁にある掛け時計を見上げる。もう十一時か。そろそろ寝ないといけない。今日はお母さん帰ってこなかったな。きっと明日の朝にもいないだろう。さすがに針を持ったまま布団に入るのは危ないので、一旦ソーイングセットは片付ける。そして学校カバンに放り込んだ。
布団は薄く、正直寒い。だけど、ウチには新しい布団を買うような余裕はない。我慢しなければ。僕は布団に潜り込んだ。ああ、また明日が来るのか。本当は、眠りたくなかった。眠らなければ、明日も来ないような気がした。だけどそれは、まやかしだ。本当はわかっている。寝ようが寝まいが明日はやってくるということを。だったら、眠った方がましに決まっている。仕方がない。寝よう。僕は目を閉じた。