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金魚は完璧な池を泳ぐ  作者: 蔵前
最終章
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幸せは腕の中に

 すっと腕を解き更紗を解放すると、俺に手放されて不安そうな表情になった更紗の顔を両手で、右手の指先は彼女の髪に隠れるようにして包み、本当は結婚を決めた時に伝えるべきだった言葉をようやく彼女に伝えた。


 逢えなくなってから、結婚式前には彼女に伝えたいと焦っていた言葉だ。


「愛しているよ。」


 大きく彼女の目は見開かれ、俺を見つめたまま、彼女は今すぐに死んでもいいとうわごとのように呟いた。


「死んじゃったら妻に出来ないでしょう。」


 笑いながら彼女を再び抱きしめると、彼女は俺に言葉を返してきた。


「ずっとお慕いしていました。」


 お慕い、という言葉に仄かな寂しさを胸に感じたが仕方が無い。

 彼女を胸に押し付けるように抱きしめて頭を撫でていると、腕の中の婚約者はモゾモゾと動いて俺の腕の中から頭をポンと抜き出して、俺の顔を覗き込むように見上げた。


 その顔は百万本の花が一斉に咲いたかのように輝き、煌めいた大きな双眸からは幸福感が溢れていた。

 腕の中の美女はそのぷっくりとした唇を開いて、なんと俺に彼女の「秘密」を告白してきたのである。


「私は恭一郎に初めて会った時に恋に落ちたの。何て素敵な人だろうって、何て綺麗な人だろうって、こっそりと寝顔を盗み見したりもしていたのよ。」


 更紗も俺をぎゅっと抱きしめ、顔を俺の首筋に擦り付けるように俺の腕に納まった。


「痣が有る今でも、お前の顔は美しいと思うよ。」


 七年前の彼女の言葉が甦る。

 慰めではなく、本当に俺が素敵だと、綺麗だと見ていたのかこの娘は。

 醜くても好きではなくて、美しいから好きだと言われる嬉しさに、いとおしいとつい右手で彼女の頬を撫でてしまった。

 更紗は俺の右手に手を添えて、なんと、うっとりと頬をしっかりと俺の右手に押し付けたのだ。


 無い筈の指先にまで血が廻って温かく感じ、俺の頬には久しぶりともいえる温かい涙が伝い、俺は自分が涙を流せたことで、ようやく人間に戻れたような気がしたのである。


「あぁ、君を愛しているよ。」


 すると、ぎゅっと更紗が俺の右手を掴む手に力を込めた。


「私は今すぐ恭一郎のお嫁さんになりたい。それで、明日も明後日も愛してるって大声で叫んでいたい。」


 殆んど叫び声に近い大声で彼女は宣言すると、グイっと俺は彼女に引き寄せられて彼女に口付けられた。

 俺の身体の内からは、ハレルヤと歓喜の歌声までもが溢れ出す。


 あぁ、なんていうケダモノ。


 俺は大好きな更紗と俺の理想が同居した愛しい女を手に入れたのだ。


 ただし、俺達の感動的な邂逅はここで終いだ。


 執事を自称する男が主人であるはずの俺の部屋に王様の様に出現し、玄関で妹の出奔に怒り狂っている兄に俺の恋人を差し出すために俺達を引き裂いたのである。


 ただし、その夜の出来事により、俺達の一年間の婚約期間は三ヵ月半に短縮された。

 つまり、婚約をした日から三か月半という計算で、一か月後に日付を変えたのである。

 本当は三ヶ月目にしたかったが、ドレスがそれでは間に合わないと言う事でその日から一ヵ月半後の十月十六日に結婚式だ。


 三十日の大安など知ったことか。


 けれども十六日は先負だからと、式は午後と言い張られた。

 ここまで俺は妥協したのに、一ヵ月半では満足な披露宴が出来ないと、母と相良に、更紗の一生に一度の晴れ舞台を台無しにしてと、俺が影でかなり詰られ絞られた。


 ギリギリで俺は踏ん張ったのに、褒めるどころかその仕打ち、何て酷い鬼婆達だろう。


 俺の更紗は、ドレスなどどうでもいいと、今すぐ俺と一緒になりたいと、騒いで暴れてくれたが、鬼婆というものには年の功がある。


「将来子供にドレス姿の結婚写真を見せてあげたいと思わない?」


 俺の母親が優しく唆す。


「お母様そっくりのドレスって素敵じゃない?」


 相良がレース見本生地片手に、何気ない風を装って誑し込む。


 俺の母と相良の悪魔の囁きで彼女は籠絡されたのだ。

 更紗は正造に母の結婚式の写真を見せられた時、それはもう感動したのだそうだ。

 そこを突くとは悪魔の鬼婆共である。


 そして、短縮させた日から俺は完全に更紗に会うことを禁止された。

 約一ヶ月半も、だ。


 おまけに外でも逢わせないとは何事だ!


 お前らは早く赤ん坊が欲しかったのではないのか。


 踏ん張るのではなかった、出来る時にするべきという兵法六韜を忘れた俺の敗因だ。


「誠司!会わせろ!」


「あと二週間でしょ。我慢しようよ。」


「会うぐらいいいだろう。どうして駄目なんだ!」


「あんたらは会うだけで終わらないからだよ!」


 結局、俺は出入り禁止となって一ヵ月、毎日のように相良家に押しかけ誠司を悩まし、俺達の、いや、俺のそんな馬鹿な振る舞いを二階の窓から覗いている更紗の顔を見るためだけに続けている。


 俺はそんなくだらない男なんだから仕方がない。

 だが、俺を見つめる更紗の目は、いつだって俺が「完璧」だと伝えていた。


 あと二週間。

 二週間後、結婚式が終わった暁には、更紗を連れて誰にも邪魔をされない楽園に逃げる。

 青色が大好きな完璧な花嫁の為に、青い海が臨める地まで連れて行くのだ。

 俺の空色のダットサンに乗せて、彼女が望むままどこまでも。


(終わり)

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