要らなかったからね
「それでね、俺が忘れていたってのは更紗の台詞だよ。」
矢野は真っ直ぐに前方を見て、真面目な声で話し出した。
「あいつはさ、あんたの事を婚約者だって夢見ているくせに、結婚をするつもりがないからあんたが迎えに来ると困るって言っていてね。だけどあいつはさ、女っぽいのや可愛いものも好きなはずなんだよ。でも、我慢している。姉の結婚で和泉を不幸にしたって我慢していたのだろうな。あいつが暴れん坊なのは自分が大事じゃないからかもしれないって、昔思っていた事を思い出したってだけだ。だからさ、急いで更紗の腕を掴まないと和泉の所に自分から戻っちまうって慌ててしまったのさ。」
「俺に押し付けて既成事実を作っていたのは、記憶を戻した更紗に戻したくなかったからか。俺と結婚したら嫌でも自分で決めた戒めルールを破って幸せになるしかないものな。俺を幸せにするために。」
「よくわかっているね。」
矢野はフッと笑い、その次には俺に凄んだ目線を寄越した。
「あいつを不幸にしたら殺すよ。」
彼が更紗の兄であるのは真実だが、彼の嘯く弟でなく、更紗は彼にとっては常に大事な妹だったようだ。
「隊長、あれを本気で嫁にするので?」
俺の心温まる物思いを破ったのは、俺の生活を守ってくれている田辺だった。
長谷は和泉逮捕の為に昨日から此方の県警と繋ぎを取って動いており、田辺は昨夜から更紗の父の相手をしていたのである。
あのホヤホヤした元大学教授の相手は大変だったから、田辺が本気で嫌そうな顔をしているのだ、と、そう思う事にした。
「本当に竹ちゃん隊長は趣味悪いよね。あれ、悪魔よ。ヤクザが彼女の姿を見て逃げるのよ。いいの?毎日が喧嘩三昧よ。どれだけ矢野が苦労していたか。」
長谷が首を振って「信じられない」と俺に呆れ顔だ。
どうして二人はこんなにも更紗に否定的なのだろう。
「いいじゃないか。普通にいい女だろう?」
「いや、女は顔じゃないから。」
「あれは女じゃないですよ。」
俺の言葉に田辺と長谷が同時に言い返してくるとは何事だ。
更紗が和泉を情け容赦なく蹴り飛ばした時、俺はこんな姿の女もいいなと感激してしまったのだ。
普段はアルテミスでありながら、寝間でプシュケになるのならば、これは夢の女じゃないのかと。
「あの三人はなんてお前に報告した?」
長谷の声に、そういえば和泉の後始末をしなければと思い出した。
見ると、血まみれの顎を押さえている和泉は、ガクガクと震えている。
十四歳の更紗をヤクザに乱暴させようと計画したのかと、俺の殺気を浴びているからかもしれない。
「あの三人って、長谷は知っていたのか?」
「有名だからね。」
長谷はハハっと乾いた笑い声を出して答えた。
「天を襲った三人が返り討ちで地に落ちたってね。天を襲うと豪語していた奴らがある日を境に姿を消したんだ。天の伝説の一つさ。ついでに天の襲撃を知った矢野がそいつらがいた組を襲撃してね。もう、警察の仕事を増やすなって。」
「え、組を襲撃するのは更紗じゃなかったのか?」
フーと息を吐き、肩を竦めて長谷が答えた。
「矢野の方がやばかったの。あいつは愚連隊の頭領していたからね。白狼団なんて名前つけて粋がって、仲間引き連れてヤクザだろうが襲って大暴れしちゃうから大変だったよ。相良をパトロンにつけて当時の手下を相良の警備会社に入れている今は滅多に問題行動はないけどさ。あの天を泣かしたら、あの矢野が出てくるでしょう。数年前の違法喫茶を破壊した大騒ぎはあいつらよ。竹ちゃん隊長大丈夫?」
「あの白狼団だったの?矢野ちゃん。うっそ。俺はアパートの方に住む事にしようかなぁ。」
田辺が遠くを見ながら呟いた。
「やめて!そんなの俺の車に乗せないでよ!ちょっと!更紗、パパを止めて!」
外から田辺の恐れた矢野の悲痛な情けない声と更紗の笑い声が響き、その数分後に矢野の車のエンジン音が遠ざかっていった。
「大丈夫っぽいじゃないか、誠司はいい子だよ。」
田辺は嫌そうに鼻の付け根に皺を寄せて俺を見返し、長谷はそんな俺達に、懐かしいと言って吹き出した。
「さぞ、いい気分だろうな。俺に恥をかかされた意趣返しが出来て。」
俺達の和やかさを壊そうと和泉が恨み言をぶつけて来たが、長谷によって後ろ手に手錠をかけられ、切れた唇から滴った血で白いシャツの首元が赤く汚れている、哀れな状態の男に俺は苛立ちも湧かなかった。
だからこそ、俺は弟に未だに伝えられない言葉を、とりあえずは和泉に返してみようと考えた。
「最初から俺にはいらなかった人を引き取ってくれて、私はあなたに感謝だけでしたよ。意趣返しなんて、とても。」
「殺してやる!」
和泉和匡は拘束の身でありながら俺に向かおうとして長谷に引き戻され、その後も「殺してやる!」と何度も叫び声を上げていた。
俺が実際の和泉の姿を見たのはここまでだ。
取りあえず、今日はここで終わりだ。




