君はあの風景の中にいた
ツ、タカタカ、ツー、タカタカ。
字面で見れば軽妙だが、実際の俺は恐慌に陥っていた。
濡れて緩んだ急斜面の土手に革靴では、靴底が滑って安定を保てず、どんな悪路も進めたこの俺が、情けなくも足をもつらせているのだ。
いや、殆ど滑り落ちていたか?
慣れていてもこの斜面は危険だろう。
俺は自分が殆ど転がるようにして落ちていっていると知っていながら、更紗が沢に落ちたらと、必死になって彼女を追いかけていた。
だからか、更紗が立つ場所までもう少しのところで、俺は安心するという失態を犯した。
安心という名の気の緩みが起きた俺は、今までなんとか保っていたバランスを崩し、滑って転んでしまったのである。
急斜面でだ。
「うわ、危ない!」
そう叫んで行動を起こしたのは、俺でなく十一歳の少女だった。
彼女は俺を引っ張るのではなく、横からぶつかる形で沢に落ちる寸前の俺を助けてくれたのだ。
「だから危ないって。」
「すいませんでした。反省します。」
情けない事に素直に子供に謝っている俺がいた。
軍で偉い人だった俺はどこに行ってしまったのだろうと、子供に押さえつけられた状況に笑いしか出なかった。
「情けないね、俺は。」
ハハハハと大声で笑った。
着てきた新品のスーツは泥まみれだ。
アハハハハだ。
大声で笑う俺の上から更紗はどくと、変な人だと再び笑い声を上げた。
彼女の笑いかたは少女のようではなく、豪快な少年そのもので、更紗の笑い声が弟と悪ふざけして遊んでいた頃を俺に思い出させた。
弟は俺に気兼ねしたのか座を奪われると恐れたのか、所帯を持ったからと別に住んでいる事もあるが、俺に一切関わらないようにしていた。
俺は親父の跡を継ぐ事も元婚約者の美紗子も欲しいと思ったことは無く、元々要らなかったのだと彼に伝えられるほど厚顔じゃないから仕方が無い。
「今度こそ動いちゃ駄目だよ。」
更紗の少年の声に意識を戻したら、再び彼女が消えていた。
慌てて周囲を見回して、彼女はしゃがんでいただけな事に、俺は胸を撫でおろした。
更紗はスルスルと紐を引き上げ、かがんで何かをつかもうとする。
俺は更紗が落ちた場合の事を考えてしまって、そこで矢張り動いてしまった。
だが、今回はそれが良かった。
バランスを崩した彼女がグラっとよろけたので、俺が咄嗟に彼女を自分に引き寄せたのだ。
気づいた時には、大きく足を開いて座る俺の脚の間に納まる形で、うなぎの罠の竹筒を持った更紗を後ろからぎゅっと抱いていた。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
俺達は笑い、そして道に戻ろうとする段階で、俺は「失敗した。」と痛感した。
大人の俺の体が重すぎるのと、革靴が斜面を滑る事もあり、自力で上まで登れない事に気づいたのだ。
「私が先に登って木の蔦を降ろすから、それで登って来て。」
二十二歳の元中尉だった俺が、十一歳の少女が降ろす蔦を心待ちにしているとは、なんて情けなく滑稽な状況だろう。
そんな状況を生み出した悪魔の子は、片手に一メートル近い竹筒を携えながらも、ひょいひょいと上に登っていった。
俺は更紗の背中に向かって「俺を忘れないでね。」と念を送っていた。
なんとも情けない、俺。
柱時計の音が鳴り響き、俺は七年前の過去から引き戻された。
あの子はもういない。
信じられない。
一緒に死んだ男は映画俳優のように美男子とはいえ、あの頃の更紗だったら選ぶ筈の無い男であった。
あの子が普通の女の子に成長して、外見だけの男に普通の夢見がちの乙女として惚れて、借金苦の男と心中までしてしまったとはね。
苦々しい気持ちが甦る。
俺が美緒子と結婚していれば更紗の暴走を止める事が出来ただろうか。
あのままの更紗で成長させる事が出来ただろうか。
「美緒子さんをそれで見つけたから、あなたに助けて欲しいって話なのよ。」
「すいません。何の話ですか?」
母は全く話を聞いていなかった俺に飽きれた顔を俺に向け、美緒子を誘拐する事を望んだ相良耀子の話をもう一度語り出した。