和泉の最後の魔法の言葉
「お父さん!」
私が父の側に向かおうとするとグイっと引き戻され、私の腕を掴んだままの和泉が父に馬鹿にしたような目線を投げると鼻で笑った。
「この男は薄情な男だよ。自分一番のロクデナシだ。この男が美緒子の駆け落ちも、妻の出奔による汚名も大して気にしていなかったのは、あの歪んだ女達を厄介払いできて嬉しかったからだろうね。」
「そんな!違うわ!」
「違わないさ。大体ハネームーンで帰宅した新婚家庭の玄関に、お帰りなさいって立つ母親って何だよ。新築の家に勝手に居座るばかりでなく、室内の装飾も勝手に自分好みに変えてしまうんだ。俺の金からね。俺はロクデモない姑をこの男に押し付けられたんだよ。」
父はいたたまれない顔で小さくなった。
研究が生きがいの父は、自分の食事でさえ忘れてしまうだけの人なのに。
そして、憎々しげに語る和泉に、私はもしかしたらと彼に尋ねた。
「母を殺したのは拓郎ではなくて、もしかしてあなた?」
「まさか、拓郎さ。彼と親交を温めていたのは俺だけどね。彼は完全なパラノイアだったよ。世界を転覆させる妄執に囚われて金を集めていたが、その使い方も判らない馬鹿さ。だから人の役に立つように俺に必要な所に金をばら撒かせてやったのさ。時には俺の金庫としてね。預けた金を俺から隠して逃げるとは思わなかったがね。」
和泉は姉と拓郎の完全なる被害者ではなかった?
裸一貫で財を成した純朴で全うな人間ではなかった?
「あなたが拓郎を操っていたの?」
「能無しの屑に仕事を与えただけだ。」
ハハハと若々しい気楽な声で笑いながら、和泉は私に嘯いた。
「金はある。外見は美しい。でも人間的魅力も能力もないから他人に玩ばれるだけの生き物だ。目的意識を持たせて使える男にしてあげたのさ。正造を手にかけようとしてしまうとは計算外だったが。だが、お陰で正造は俺の言いなりだ。」
「君は!君が更紗から私が離れていた方が安全だと言うから!君が、君が更紗が亡くなったと騙して。君が全部仕組んでいたのに、私はその君を信じていたとは。あぁ!」
私は父が嘆く様を見たくなくて彼の元に走った。
顔を覆っている彼の両手を取ると、記憶の中の父の姿ではなかったと実感した。
なんてやせ細ってしまった細い腕だ。
彼は四年の長きに渡って虜囚として囚われていたのか。
最初は娘の私を守るために、その後は死んだ娘の私を追悼するためにと、きっと彼は罰を受けるような気持ちでここまできっと生きていたのだ。
「あなたはどうして私を、私達をこれから言うとおりに出来ると思っているの?私は父と逃げてしまうと思わないの?」
ハハハっと和泉は笑う。
「そうだね、言うことを聞いてもらうために内緒を教えてあげよう。君が記憶を取り戻すよすがになるかもしれないからね。君は周りの人を悲しませたくないから俺の元に戻ってきたのだろう?」
全てを思い出している私は、それでも彼を促した。
私を昨日誘い出そうとしたように、人質にしている誰かが他にいるかもしれないから。
竹ノ塚の家をゴロツキに襲わせたように、誰かを襲う計画があるかもしれないから。
和泉から全てを聞き出して、それから彼を殺して警察に行こう。
私は彼と一緒に地獄に落ちると決めたのだ。
こんなに和泉が歪んだのは、私が美緒子の背中を押したせいだからだ。
「お願い。全部話して。」
和泉はにんまりと笑う。
「君は乱暴されたのさ、十四歳の頃に。俺が呼んだ時に素直に来なかった君のせいだよ。父親が逃げて守る者がいない少女にゴロツキが三人がかりとは可哀相に。そのことは君の愛する恭一郎には知られたくないだろう。」
父がヒッと声をあげて私の手をつかみ、可哀相にと私の手の甲を撫ではじめた。
「私が臆病だったが為に君をそんな目に遭わせてしまったとは。」
ホロホロと次から次へと涙を流して、許しておくれと手を撫でる父の手をゆっくりと外して、顔を上げた父の痩せこけた顔に私はにっこりと微笑んだ。
和泉が信じる「私を壊せる魔法の言葉」……だったもの。
フハハハハと、私はこみ上げた笑いをそのまま、外へと解放した。
それはもう、声が枯れるほどの大声をあげて、目の前の和泉を大きく大きくあざ笑ってやったのだ。




