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あなたを愛しているから私は覚悟を決めた

「うぁっ。」


 硬いコンクリートに叩きつけられた時、私にはまだ意識があった。

 ぼんやりとした視界の中、車が私の元に戻って来た。

 和泉が私に止めを刺そうと戻って来たのだと私はぼんやりした意識の中でもわかっていたが、怖いも、逃げたいもなく、どうしてあの一撃で殺しきってくれなかったのだと詰るだけだ。


 痛い。

 辛い。

 でも、恭一郎は助けてくれない。

 ここに来てくれるなんてことはない!


「う、うう。」


「大丈夫か!」


 私を心配する声?

 私の薄ぼんやりした視界の中に、泥まみれの革靴が一歩、また一歩と私に向かって近づいてきた。


「きょう、い、ちろう?」


 また彼の靴は泥まみれだ。

 いつだって恭一郎の革靴は泥まみれだ。


 そう、あれは恭一郎の靴だ。

 姉と拓郎の血がこびりついた革靴なんかじゃない。


「今日も、靴磨きをしなきゃね、あなたは。」


 瞼を閉じたそこで、土間で恭一郎が靴の手入れをしている後姿が瞼に浮かんで見えた。


「俺は靴職人になれるね。」


 靴の修繕も磨くのもうんざりだと彼は溜息交じりに言うので、私はずっとこうすればいいのに、と思っていた事を言っていた。


「革靴を脱いで裸足になればいいじゃない。草履を履くとか。」


 恭一郎は私を見上げて一瞬悲しそうな顔をしたが、決して人前で脱がない靴下を履いたままの両足の先を動かして彼はおどけてみせた。


「足もね、指が足りないんだ。見たいの?」


「見たい。恭一郎の秘密は全部見たい。」


 彼は何時ものように彼の隣にしゃがんだ私の頭を、いつものようにぽんっと軽く叩こうと手を伸ばした。


 彼は指のかけた右手でなく、いつだって左手を人に差し出す。

 彼が私へと伸ばした手は、いつの間にか逆さまとなっていた。

 左手じゃなくて右手?

 下からではなく上から伸びている。

 なぜ、彼の手が上からなのだろう?


 でも、恭一郎が伸ばした手だ!


 私は痛む体を抱えながら、その手を掴もうと手を伸ばしていた。

 掴んで引き寄せて頬に添えた。

 そして私は恭一郎の手に安心して目を瞑り、暗闇へと堕ちたのだ。


 そう、私が和泉の手を掴んだから、彼は私に止めを刺さなかったのだ。

 私が記憶喪失か判らない時でも病院につめて、私の回復をそこで待っていたのだ。

 だからそんな優しさを持つ和泉を私が責めきる事が出来るわけがない。


「恭一郎。」


 私がいま掴んでいる手は、本物の恭一郎の手。

 左手でなく右手をつかみ、手のひらにキスをして頬によせた。

 この手だけは、彼が誰にも触れてはいない手だから。


 彼の手はあの夏の日と同じ温かく、しかも車のオイルが臭う手だ。

 目を瞑った彼の顔は、目を開けた時よりも彫の深さが際立つ。

 なんて素晴らしい顔だと彼の髪を撫で、撫でられても起きない彼に懐かしさだけが沸いた。


 彼は眠れないのか宵っ張りだが、一度寝たらなかなか起きない。

 私はいつまでも恭一郎が起きて来ないのは、彼が東京に帰ってしまったのではないかと、不安で何度も寝顔を覗いたのだ。

 それがそのうち楽しい日課となった。


 どうしてこんなにも好きなのか判らない。

 父と歓談する姉の婚約者を一目見て、私は雷に打たれたように驚いたのだ。

 こんなに整った顔立ちと貴公子然とした男性を見たのは初めてで、絵本の王子様そのものだと感動した。

 それなのに丸坊主のおかしな姿だ。


「みっともない姿になればきっと大丈夫。」


 そのせいで機嫌を損ねた父親に彼女は殴り殺されたのだ。

 またもや私の責任だ。

 私は復讐が出来るまでこの頭でいようとこの姿だったが、彼を前にして、醜い自分が急に恥ずかしくていたたまれなくなったのだ。


 その上、姉と母の性格を知っている父が結婚を思い留まらせようと掛けた言葉に、まだ、お会いしたばかりですから、なんて彼は答えたのだ。


 なんて間抜けだと、私は彼を大いに馬鹿にしてしまった。

 そしてやはり母と姉が受け付けられなかった彼は、婚約破棄を望んでの行動を起こすようになった。

 子供のように遊ぶ無能を演じ始めたのだ。


 私は大歓迎だ。

 私は百合子の死から遊び友達も失っていたのだから。


 私の遊び友達になってくれた彼は公平で優しい男性だったからか、人目がなくとも私の遊びに付き合ってくれたし、私の頼みを何でも聞いてくれ、そして、私の願いどおりに百合子の事件を解決してもくれた。


 あの夏以来、私は恭一郎を愛している。

 私の横で眠りこける彼の頬に口づける。

 あなたを責任で縛りたくない。

 私は全てを思い出して、全ての私自身も取り戻した。


「だから、決着をつけてくる。和泉と一緒に地獄に落ちてやる。」

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