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だってそこにプシュケがいる!

「長谷、来ていたんだ。」


「ハセちゃん、俺がせっかく天から隠した手紙まで天に見せちゃったからさ、最悪。この馬鹿自分から和泉に電話しちゃったの。戻るって。」


 そこで矢野は胸の前で両手の指を交互に絡めるように組んで、甲高く甘ったるい声を出した。


「おねがああい、あたしが戻るからもう何もしないでぇ。」


 ガンっと蹴る音のすぐ後に、更紗が痛みに目を瞑っている。

 縛り付けられても足が自由だったかんしゃく玉が矢野の足を蹴るべく攻撃したが、矢野はひょいっと足を避けたらしく、彼の座る椅子の足を思いっきり蹴ってしまったようだ。

 更紗は足の爪が割れていたのでは無かったのか?


「ちょと、つま先は大丈夫なのか!」


「ばーか。」


「矢野!ほら、更紗も!」


 煽る矢野から遠ざけようと、俺は椅子ごと暴れる更紗を後ろに引いた。


「大丈夫か。だけどね、和泉の所に行こうだなんて、君が馬鹿でしょう。」


 俺の言葉に俺を見上げた更紗はジワっと潤んだ悲しそうな目をしたが、見慣れた表情なのでパシッと頭を軽く叩いた。

 叩かれた更紗から「チっ。」と音がして、やはり、と思っていたら、ぐいっと更紗は顔を上げて真面目な顔になると俺に懇願し始めた。


「手紙には周りの人間を悲しませたくなければ戻って来いって。私が美緒子と結婚させたから和泉があんなになっちゃったんでしょ。私のせいなのよ。」


 悲痛な声を出す更紗に、あの毬栗頭の少女を思い出した。


「みっともない姿になれば酷い事をされないかもって、二人で頭を刈ったの。そしたら百合ちゃんが殺されてしまった。全部私のせいなのよ。」


 彼女は全部自分の責任だと思い込み誰も頼らない。

 頼る事を知らない。

 俺はいくばくかの寂しさを噛みしめながら、更紗の頭にポンと手を載せ、今度は撫でた。

 すると、更紗の瞳の色があのプシュケの色を取り戻し、なんと俺を見つめながら艶然と輝いたのだ。


 唇まで、先ほどとは違った色に、しっとりと輝いて見える。

 俺が触れるとあの幻の女が目覚めるのか?

 俺の心臓はドクドクと元気に活動を再開した。

 俺の女がここにいるのだ。


「おい、竹ちゃん。あんたのゲテモノ趣味は判ったからさ、今夜は天をあんたに預けるからって、ちょっと聞いてってば。ちょっとそれ置いてあんたの書斎に行こう。でないとあんた、話し合い出来ないでしょ。」


 矢野の酷い言いざまの提案に田辺がさっさと書斎にむかい、矢野がその後に続いていった。

 俺はその時になってようやく自分の右手がずっと更紗の髪を弄び、左手が彼女の頬を撫でていたのだと気づいた。


 何たる事。


 だが、されるがままになっている更紗が驚いた顔のまま固まってはいるが、官能の輝きも瞳に覗かせていたのだ。


「わ、私も話し合いに参加したい。」


 上ずった声で唇をわななかせ懇願する更紗がいとおしくて、俺は思わず彼女に口づけていた。

 柔らかい唇を俺の成すがままであり、俺を嫌がる素振りのない彼女に俺は有頂天になっていた。


「ちょっと、竹ちゃん。」


 書斎から矢野の大声が響いた。


「君があいつを殴りたくなる気持ちがわかってきたよ。」


 ふふっと更紗と目線を交し合い、俺は俺を見つめる彼女の目元に唇を当てていた。

 俺の唇に彼女の長いまつ毛が触れる。


「ああ、更紗。ちゃんと後で話すから待っていて。」


 彼女の輪郭を両手でなで上げ、今一度口づけをしようと顔を近づけた時に、グッと、背広の背中を捕まれた。


「後でいくらでもしていいから。早く!」


 俺は後ろ髪引く気持ちで書斎に連れて行かれた。

 こんなにも書斎というものを疎んだのは初めてであった。

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