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重なる記憶

「でも、竹ノ塚さんが私を婚約者だって言っていたでしょう。耀子さんはその事を否定しないじゃない。そんなことないって。」


「ど阿呆。婚約なんてな、女の方からなら幾らでも解消できるんだよ。馬鹿な考え無しのお前が耀子に乗せられて婚約解消なんて口にしたら、その日の内に俺達はウェディングベルだよ。お前と結婚させられたら俺が地獄じゃないか。お前は竹ノ塚と結婚したかったら、俺の為す事言うことだけを、ハイハイ聞いてれば良いんだよ。わかったか。」


 両肩を誠司につかまれて、ガクガクされながら言い聞かされるとは。

 ああ!殴りたい。


「矢野さん。ちょっと本人の前で言いすぎでしょ。可哀相だよ。」


 田辺は普通の神経を持った優しい人物のようだ。


「俺は可哀相じゃないの!やり手ババァに結婚を無理強いさせられそうで怖くて仕事を何日も休んでいるのよ。もう仕事が溜まりに溜まっちゃってて大変よ。可哀相でしょう。」


 私はとうとう誠司の膝裏を蹴った。

 かなり強く。

 カックンと大柄の男がバランスを崩した姿は非常に楽しく、フヒヒヒと笑いが迸ってしまった。


「――判った。預かるから矢野ちゃんは仕事に行って。」


「タベちゃん!ありがとう!」


 誠司はそう叫ぶと田辺の気が変わる事を恐れたか、物凄い全力疾走で車まで行くと、やはり車も物凄いエンジン音を轟かせて走り去ってしまった。

 あの野郎。

 そうして私は竹ノ塚の家にお邪魔する事になったのだ。


 竹ノ塚の家は玄関脇に広い土間があり、それは元が料理屋か何かの建物だったのだろうかと思わせるほど広い土間で、そして広さとは対照的過ぎるほど小さな竈が奥の片隅にぽつんと置かれ、その横にはタイルを貼った流し台が設置されていた。

 竈には煤の跡が見え、流し台脇にはいくつもタオルや手拭いも干してある。

 少し薄汚れた手拭いがヒラヒラして、なぜか遠い懐かしさを感じた。


「土間でお料理するのは大変ですね。」


「ちゃんとガスのキッチンがあるよ。ガス式のお風呂もね。自慢の文化住宅に隊長が建て直しされる時にこの土間は潰すのが惜しいってね、壁と出入り口に手をいれて残されたのですよ。隊長が土間で車を整備するから家中オイル臭くなってね。それで普段はここが駐車場です。屋根があって車が仕舞えて安心だって、本当の車馬鹿ですよ。」


 呆れたように笑う田辺の言葉に、私の頭の中に青い車の前に立つ竹ノ塚の姿が浮かんだ。


「恭一郎!乗せて!」


「駄目!車だけは好きに乗り回したいから、駄目!」


 空色のライト・ヴァンの前で子供のように「駄目」を連発する彼と押し問答する光景が甦ったのだ。

 彼は何でも「いいよ。」と言ってくれたが、車だけは「駄目」だった。


「本当はこの広い土間だけが目当てで家を買ったのかもしれませんね。外国のガレージのような車専用の部屋が欲しくて。」


 玄関脇のシャッターが、竹ノ塚が手を入れたという車専用の出入り口であった。


「きっとそのとおりですよ、嬢さん。ですが、確かになんだかほっとしますよね、土間に竈がある風景って。あの邪魔なシャッターがあっても。」


「そうですね。私も土間は好きです。夏は特に涼しいから。私は汚し屋で、土間で泥を流すまで家に上がれなくて。でも、恭一郎が泥まみれで帰って来ると、誰も彼に土間で泥を落せって怒れないでしょう。それが面白くて彼を何度泥まみれにした事か。」


 私は腕を組んで偉そうに彼に宣言する。


「ここで泥を落さないと家に上がれないよ。」


 意地悪な私に怒るどころか彼は左の眉毛だけを上げてみせ、それから彼は次々と、恥ずかしさも無く服を脱ぎ出す。

 私が目を丸くして土間の水甕を使って泥を落す彼に呆けていると、バシッと泥の付いた服を投げつけられた。


「それを洗濯室に。そして、俺に着替えを持って来て。」


 彼の仕返しだ。

 私は頬を膨らませながらも、彼の服を抱えて洗濯室へと駆け出していくのだ。


 ハハハと田辺の笑い声が心地よく響いた。


「隊長は嬢ちゃんにそうやって虐められていたんだ。」

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