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幸運の男

 田辺は電話で報告を入れた三日後の朝食時に、かなり血色のいい顔で意気揚々とした風情で帰ってきた。


「日光の湯は良かったか?」


「そりゃあ、もう。帰ってから隊長の世話を考えましたらちょいと贅沢したくなりましてね。あ、これ、みやげです。」


 俺が朝飯がまだな事を知ると、田辺は朝飯を作ろうと冷蔵庫を開けたが、中を確認して声をあげた。


「何も無いじゃないですか。」


 彼は恨めしい顔で俺を睨んでいるが、食べてしまったのだからあるわけが無い。


「買出しくらいしておいて下さいよ。氷も入っていない。」


「昨日も一昨日もそんな暇がなかったんだよ。すまないね。」


「仕事で、じゃ無いですよね。あんなくだらない陰険な悪戯を思いつくのはあなたぐらいだって、どうして気が付かなかったんだろう。」


 田辺はちらっと俺を見透かしたような視線を投げると、これ見よがしに大きな溜息をついた。

 彼は今日の朝刊を読んでいた模様だ。


「何も無いから朝食はそれですね。全く卵ひとつありゃしない。」


 少々怒った声を出しながら彼は湯を沸かし始め、俺は渡された饅頭の四角い箱を恨めしそうに眺めた。


「俺は饅頭はそんなに好きじゃないんだがね。それで、担当刑事はどうだった?お前から連絡がちっともだからやきもきしてしまったよ。」


「心配は解消と電報を打ったじゃないですか。」


 憎たらしく田辺は笑いながら俺から箱を取り返すと箱を開け、取り出した饅頭を皿に二つ盛って俺に渡した。

 俺が渋々という態で饅頭にかぶりつくや、すっと田辺が茶を差し出した。

 玄米茶の香ばしい香りだ。


「すまない。ほうじ茶にしてくれる?」


「淹れる前に言ってくださいよ。好きでしょう?玄米茶。」


「弟の嫁に虫入りの玄米茶でもてなされたんだよ。匂いを嗅いだら思い出した。」


 田辺は噴火した火山のように大きく笑い、俺の為にほうじ茶に淹れ直してくれた。


「ありがとう。それで確かにそんな電報を貰ったがね、俺はちゃんとした情報が欲しいのだよ。」


 田辺を促すと、彼はククっと悪戯そうに笑い声を立てた。


「電話じゃ言えませんからねえ。」


「どうした?」


「懐かしい顔に会ったのですよ。覚えています?長谷はせ貴洋たかひろ。」


 負傷して後方に回されたために、俺達のようにソビエト兵に捕まらなかった幸運の男だ。

 俺達は幸運の男を失ったから不幸のどん底だと、極寒の収容所で自分の身の上を笑い飛ばしていたのである。


「長谷君か、元気だったかい?」


 戦友の達者な情報はいつでも喜ばしく、俺と同じ思いだったか田辺の顔も綻んでいる。


「あいつは幸運の男ですよ、今でも。」


 田辺が居酒屋で警視庁の担当警官に話を聞いている時に、天野邸の近所に住む加賀美という男が割り込んできたそうだ。

 田辺が何度も彼の家を尋ねても留守だったのは、末娘のお産で家を空けていたからだと加賀美は嬉しそうに笑って答えた。


「帰っても女房はまだ娘の所でいないからここに寄りましたら、あの心中事件の話じゃないですか。あれは酷い有様でしたねぇ。」


「あなたが第一発見者だったそうですね。」


 五十近くのその男は、天野拓郎が留守の時や男手が必要な時の手伝いによく呼ばれたと、自らを紹介し、勝手に田辺の脇に座って来たのである。


「煙が出ていたのですよ。とにかく夜が大騒ぎでね。女と男の叫び声や罵りで、声だけで何を言っているかまでは判りませんでしたけどね。女房がせかすから覗きに行ったら煙でしょう。慌てて中に入って酷い有様に腰を抜かして。天野さんとこに電話がある事を忘れて家まで戻って女房に叱られて、とにかく大変でしたわ。」


 そして加賀美は、あんな可愛い子が丸焦で可哀相でねぇと、首を振った。


「亡くなった女性と面識がおありで?」


「初めて見た子ですね。駅から走ってきたって息を切らせていて。最初男の子かと思うくらい髪が短くてね。ズボンだったし。天野がいつから住んでいるのか、それで掘り返したりしている場所はあるか、なんて矢継ぎ早に聞いてきてね。吃驚したよ。あれは美しい男だったからねぇ。女なんかとっかえひっかえでさ、だからあのお嬢さんが嫉妬に駆られたのかねぇ。そんな風に見えなかった子だけどね。」


「加賀美さんは、彼女の質問にはなんて答えられたのですか?」


 田辺の隣に座っていた、本庁から来た担当刑事が声を弾ませて口を挟んできた。


「いやー。六年前に凄い別嬪の年増と住み始めてからだから、そうだね、すぐにその美人はいなくなったねって。掘り返した場所というか、家の裏手にゴミをよく埋めているねって。そうしたら、ありがとうって、飛ぶように走って出て行きましてね。もう遅いよって、夜道は危ないよって、走っていくあの子を止めれば良かったって、今でも思いますよ。」


「ねぇ、田辺ちゃん。その人にお銚子あげて。警察官はそういうことできないから。おじさん、後で証言貰いに良くかもしれないけど、いいかな。」


 田辺から銚子を一本つけてもらった加賀美は顔を紅潮させて、いいよ、いいよ、と快諾し、自分の座っていた席へと戻っていった。

 そして田辺が担当警官に視線を返すと、幸運の男は嬉しそうに笑っていた。

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