かぐわしき玄米茶
「一々僕に伺いを立てずとも、勝手に使えばいいでしょう。この家の物は元々あなたのものなのですから。親父が兄さんの頼みを断ることなど無いじゃないですか。」
客間の襖を開けて幸次郎が入って来た。
俺もそのつもりで来たのにお前の嫁の美紗子が勝手に動いただけだろう、とは言い返せないので、朗らかに振舞って弟に挨拶をする事にした。
「久しぶり。忙しいところ悪いね。でも、この家の物は後を継いだ君の物でしょ。」
彼は怪我をする前の俺によく似ているが、俺よりも男らしい顔つきに俺より少し背の高いしっかりした体つきの好青年である。
矢野の不良めいた雰囲気がないからこそ政治家には向いていそうな外見であるが、母には「カリスマが足り無い」と言い切られている。
母は鬼だ。
「僕は借りているだけですよ。あなたが怪我さえしなければ、いえ、怪我をした今でさえ、その気になれば跡継ぎでしょう。後援会長の藤枝さんだって。」
「何を言っているの。そんなことないでしょう。」
「親父が兄さんに一目も二目も置いていることが周りに丸わかりで、僕がどれだけ肩身が狭いか。藤枝さんは兄さんこそ上に立つ器だって褒め千切っているではないですか。」
「もう。それは俺が五歳の頃に親父に出て行けって叱られたって藤枝さん家に居座ったからでしょ。藤枝さんはそれ以来俺を自分の子ども扱いしているだけで、あれだよ、親の欲目って奴。」
「それですよ。一週間も。それも親父が謝るまで帰らないって居座る五歳児は居ないって、幼い頃から他の子と違うって、未だに聞かされますよ。確かに僕は同じように叱られたら泣くだけだったじゃないですか。」
「藤枝さん家には我が家には無い模型機関車があったから帰りたくなかっただけだよ。親父はそれで君が五歳の誕生日に君に模型機関車を贈ったんだよ。俺みたいに家出して欲しくないからってね。」
弟は悲しそうに呟いた。
「僕はカナリアが欲しいってお願いしていたのにね。」
「君の誕生日は一番寒い真冬の二月じゃないか。鳥さん死んじゃうでしょ。」
間抜けな我が弟はぐっと言葉を詰まらせて、その代わりのようにして俺の目の前にどかっと座り込んだ。
それから俺の目の前の急須を引き寄せ、急須の蓋を開けて顔をしかめた。
「飲んでいない?」
「あぁ。」
これは、まだ。
彼は俺の湯飲みも奪って再び立ち上がり、台所へと行ってしまった。
茶を淹れ直してくれるらしき弟を置いて帰るわけにはいかないと、俺は大きく溜息を吐いた。
勝手に俺が帰ったら、あの繊細な弟はまた傷つくことだろう。
「俺より良い体格して、どうしてあんなにナイーヴなの。車を借りに来ただけなのに、何この面倒臭さ。早く帰りたいよ。」
螺鈿で飾られた黒檀の座卓に、俺は両腕を突いて突っ伏した。
しばらくの後、ドカドカと弟の足音が響いて顔をあげると、彼は新しいお茶を淹れた盆を持って部屋に入って来た所だった。
「ありがとう。疲れているだろう君に申し訳ないね。」
「いいですよ。それよりも勝手を知らないのだからご自分でにお茶を淹れないで下さい。次からは女中か女房に頼んで下さいよ。」
俺が淹れたわけではないよと、言い返す前に弟は続けた。
「あれ、虫が湧いた玄米茶じゃないですか。間違って使わないように避けておいたものですよ。兄さんが知るわけ無いだろうからもしかしたらって、急須を覗いたら虫が浮いているのですもの。口をつける前で良かったですよ。」
「ははは。」
口をつける前のあれは二杯目だよ。畜生、あの女。
「最近この暑さで家中に虫が湧いたりで嫌になっちゃいますよ。兄さんの家は大丈夫ですか?俺の家はちょっと酷くてこっちの家に避難してましてね。死番虫やらかつおぶし虫やらが急に大量発生で。駆除してもらったのですけど気持ちが悪くてね。あれも怯えているし、なかなか自宅に帰る気にならなくて。」
「大変だな。それに、母さんから聞いたのだけど、子供、残念だったな。」
幸次郎は何も言わずに、皮肉そうに顔を歪めただけだった。
俺のせいで彼は不幸なのだろうか。
「君はよくやっているって。後援会の方々に幸次郎君はいい跡継ぎだねって、俺は会うと褒められるぞ。」
「本当に?」
「ほんとう。」
弟は俺の覚えている幼い頃の笑顔になったが、俺はその笑顔に胸が痛くなった。
彼の辛さが全部俺の責任に違いないのだ。
「それで、親父の車を使っていいって?」
「僕の車を使ってください。表に停めてあります。」
俺は弟から手渡された車の鍵を握り締め、自分はやっぱりろくでなしだと自省した。
俺によって不幸にされながら俺の為に尽くす弟。
そんな彼の愛車をくだらない悪戯に使おうとしているのだ。
「あいつの家に寄って虫の原因も片付けてやるか。」
俺は有能な田辺のお陰で、鍵が無くとも他家の鍵を解錠できる技術を持っている。
弟の家の虫騒動は、あの陰険な女が我が実家に居座る理由を作るために玄米や煮干しを家のどこかに撒いたのだろう。
死番虫やらかつおぶし虫はそれらに湧く。
「俺の行動が気に入らないって、俺の大事な本に紅茶を零した女だったのを忘れていたよ。」
弟への申し訳なさに暗い気持ちになりながら玄関を出ると、目の前には黒塗りの日野ルノーが停まっていた。
俺は車の前で口角が上がっていくのを感じた。
「和泉と一緒か。これは好都合だね。」




