元婚約者に持て成され
和泉は相良邸を辞去したあと、何の行動も起こさなかった。
俺達に匂わせていたように、彼は更紗を警察に売り渡す事をしなかった。
する必要などないのである。
彼はちゃんと脅迫していたではないか。
いつでも更紗を殺人者として世間に放ることが出来る、と。
お陰で更紗は未だに美緒子のまま、相良邸の奥深くに身を潜めている毎日だ。
和泉の所にいた時と同じ虜囚だ。
一日でも早く記憶を取り戻させなければならないが、記憶を取り戻しても和泉の手から逃れられない事が田辺によってもたらされた。
田辺はセンセーショナルな事件を集めている記者だと身分を偽って、心中事件の起きた日光で情報を集めていたのだ。
「隊長、状況証拠が揃いすぎですよ。」
電話口の田辺は暗い声を出した。
殺人に使われた木槌には、更紗と拓郎の指紋がついていた。
そして、焼け残った壁にも。
「警察では更紗が拓郎を先に襲って、失敗して殴り殺されたと考えられています。それで拓郎が自分のした事に自責の念に駆られて部屋に火を放って首を括ったと。」
記憶を取り戻したとしても、更紗には言い逃れが出来ない状況だった。
本当にそうか?
「もう少しこちらで調べてみます。俺が心中事件を調べているって聞いたからと、なんでも警視庁の担当刑事が東京からわざわざ来るみたいでして。」
切れた電話の後、俺は大きく溜息をついた。
これからの事態のせいではなく、この事態で起こすべく計画が様々と、嬉々として頭に浮かんでくる自分に厭きれてしまったのだ。
「悪戯なんてこの年でやるものじゃあないのにね。」
電車を乗り継いで久々の実家に戻ると、俺を出迎えたのは母ではなく、弟の妻で昔の婚約者の美紗子であった。
弟と同じ年で二十七歳となったばかりの彼女は、白い肌に面長の整った顔立ちの美人であるが、なぜか俺は一度も心が惹かれなかった女性である。
おっとりとした静かな所が悪いのではない。
おっとりとして芯が通った女性は、普通ならば魅力的な部類だ。
従順で楚々としているが、美紗子は自分が無い女でもない。
ではなぜか。
客間に通した俺の為に茶を淹れている彼女の姿を見つめながら、俺は昔からの自問を再びしていた。
どうして自分は彼女に心が惹かれなかったのか。
「幸次郎さんはお義父様と事務所の方でございまして、お義母様も銀行の婦人会です。ご連絡いただけましたらお兄様にはそうお伝えできましたのに。」
「突然ですいませんでした。友人に車を貸してしまった所で所用ができましてね。親父の車を借してもらえたら、と。明日の昼前には返すからいいかな?」
「私に勝手に貸し出す権利はございませんので、少々お待ちを。」
すっと彼女は立ち上がると、スタスタと電話機の方に歩いていった。
事務所にかけて幸次郎に俺の訪問と目的を伝えているようだ。
実家から百メートル先の事務所に俺が行けば良い話しであるのだが、俺は親父の事務所には顔を出せない身の上だ。
今年の四月、この顔と指の欠損だからこそ国政選挙に打って出ろと、父の後援会長に薦められたからだ。
後援会一同は俺の政界入りを望んでいるぞと、酒の入ったその男は事務所で大声をあげたのだ。
それも弟の都議の当選祝いの時に、だ。
あの日の傷ついたような弟の顔が忘れられない。
「幸次郎さんがすぐに戻りますから。」
「幸次郎が?親父が電話で良いか悪いか言ってくれればいいのに。鍵の場所は変わっていないでしょ。」
「私は人様の持ち物を勝手に漁れる女ではございませんので存じ上げません。」
彼女はそう言い放つとスタスタと客間から遠ざかっていった。
ここは俺の両親の家で、好き勝手にこの家で女主人然で振舞って母の着物を着ている君は、三百メートル先の一戸建てが自宅だよねと、俺はもういない彼女に心の中で叫んだ。
俺の心の叫びなど知らないその足音によると、彼女が向かう先はサロンと皆が呼んでいる母の専用の洋風客間であろう。
レコードプレーヤーもあるので暇つぶしにも良い部屋だ。
ポツンと和室の方の客間に残された俺は、菓子皿の和菓子を齧り不味い玄米茶を啜りながら、彼女を引き取ってくれた弟に感謝だけが湧き上がっていることを感じていた。
「あれだよねぇ。いっつも人の意見を優先していい人ぶるけど、その実ちょっとでも意見が自分の考えるものと違うと気分を損ねて人を許さない所があったから大変だったんだよね。彼女が気に入る贈り物や環境を本人は口にしない癖に、彼女が望むそのものを要求されているってキツイよねぇ。まぁさ、敢えて要求に気がつかない振りしてた俺も最悪な奴だったけどねぇ。」
それでも子供を流産で二度も失っていることを考えると、彼女の性質も振る舞いも許せる気がした。
政治家の妻は普通の主婦以上に大変であるからだ。
その上、跡継ぎを望まれる立場で子供ができない体になったことで、彼女は不安で仕方が無いのだろう。
「人にお願いをした事が無いから、居座るために他人と同化しようとするのかな。マネされて纏わりつかれる母さんはとばっちりで可哀相だけどね。」
客間で一人侘しく呟いていると表に車が停まり、そのあとすぐにドタドタと廊下を歩いてくる音が家に響いた。
俺はその足音の主の事を考えながら溜息をつき、急須に残っていた茶を全て湯飲みに注いだ。




