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え?

 矢野の話を聞きながら、俺は更紗の父の失踪について考えていた。

 母親はどうでも、あの父親とは仲睦まじい親子だったはずだ。

 彼が更紗を置いて姿を消すなど、彼ら親子を知っている誰もが考えられない事柄で、そこから導き出されるしかない答えは、俺が認めることも口にしたくも無いものだ。


「どうだろうね。状況的にそう思えるけど、証拠も無い上に今現在も天の両親は行方知れずだ。俺が仕事で海外から戻ってきたら天の訃報を聞かされてね。耀子の、この家にその頃は住んでいたから安全だと思っていた俺の失敗だね。」


「ここに住んでいたのか?」


 俺は中庭から相良家の屋敷を見回した。

 彼女はここに住んでいた?


「そう。天が十五の時に俺と一緒にこっちに移り住んだ。耀子が俺を養子にって言ってくれるからさ、それなら一人暮らしの天も一緒にってね。耀子は最初からそのつもりで俺を誘ったんだろうがね。将を射んとの耀子にとっては俺が馬。けれど、当の天が渋ってね。お父さんは帰って来るって。仕方が無いから、俺が相良に気に入られて成功するにはあの家に俺が行かなきゃならないって、お前一人置いて行けないから俺は成功できないなって言ったら付いて来た。」


「お前達は同居していたのか?」


 彼は肩を竦めると、大したことでは無いという風に軽く答えた。


「天は一人ぼっちで、俺は家の無いチンピラだろ。当たり前の展開だよ。」


 俺は隣に座る矢野にあからさまな敵愾心を無理矢理に飲み込み、俺は更紗の不幸の事を思うだけにしろと自分に言い聞かせた。

 彼女の記憶を取り戻させ、この男の元に返してやることが俺の仕事だ。

 更紗によって与えられた気楽な独身生活を俺が楽しんでいる間に、あの子は不幸に塗れていたのだ。

 全部、俺のせいじゃないか、と。


「それで、あんたがあの馬鹿の言っていた婚約者なんだろう?」


「え?」


「え?じゃないよ。あいつを守れなかった俺が、今度こそあいつを守ってあいつの望みどおりあんたと結婚させてやるつもりだからな。ちゃんと引き取って幸せにしろよ。」


「え?」


 矢野は矢野の言葉に思考する事を放棄してしまった俺に対して、眉根を寄せての呆れ顔を見せている。


「返事は、ねぇ、竹ちゃん。」


「え、ちょ、ちょっと、待ってくれ。君達は恋人同士じゃなかったのか?」


「ふざけるなよ。俺は両手にカエルやトカゲつかんでヘラヘラしている奴なんて御免だよ。家事だってまともにしない奴だしな。仕事で疲れた俺がご飯作って掃除して洗濯してって、ガキの喧嘩の面倒までも見ていたんだからな。あれに恋心どころか発情するかよ。」


 俺は更紗が矢野と恋人関係になかった事を喜ぶべきか、矢野が本気で更紗を何があっても俺に押し付ける気であることに厭うべきか、とにかく混乱していたのだと思う。


「え?」


「だから、え、じゃないよ。あいつは俺の弟分なんだ。兄が弟を守って幸せを考えてやるのは当たり前だろうが。あいつを泣かせたら殺すからな。」


 凄む男に無意識で聞き返していた。


「弟分?妹じゃなくて?」


「妹があれだったら、俺は兄として泣くね。だから弟だ。」


「……そうか。」


 矢野は立ち上がると俺の肩をポンとして、まぁ頑張れと、励ましてくれさえもした。

 更紗と矢野の気安さの理由がわかったが、俺は矢張り考えていた事が事実であった事に絶望してもいた。

 矢野と恋人でもかまわなかったのだとさえ思った。


 俺を欲しいと口にした美女が、記憶を取り戻した更紗の人格では有り得ないと知らされるよりは、彼女が誰かの恋人でいてくれたほうが良かったのだ。


 七年前と同じ更紗だったら、俺だって発情するわけないだろう。


 同じ顔をした女を妻として娶りながら、別の女の幻影を追うのは相手にも自分にも酷い仕打ちではないだろうか。


 俺のもの思いを打ち壊したのは、女中が矢野を呼び出しに来た声だった。


「旦那様、奥様が急いでいらして欲しいと。」


 そばかすの散る地味な女は、矢野に呼びかけてから視界に入った俺の姿に一瞬怯んだ。

 俺は忘れていた自分の姿に自嘲した。

 自信のみなぎる精悍で美しく若い男と、対照的なブチ犬のような痣のあるしょぼくれて年老いた男。

 おまけにブチ犬は指まで少ないのである。


「竹ノ塚様にもお急ぎいただくようにと。和泉様がお越しになられたからと。」


 俺と矢野は更紗を残した居間へ向かって、ロケットのように飛び出した。

 矢野が語った更紗の身の上が本当であるならば、和泉に更紗を渡すわけにはいかない。

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