金魚のいない完璧な池
俺の目の前には仲睦まじい美男美女のカップル。
昨夜の会話を思い出しながら、俺こそ身を引く人間だと自分に言い聞かせるが、目の前の仲睦まじい姿に胸の奥で嫉妬心が芽生えたのを感じた。
嫉妬心だと?
二年前には更紗を完全に忘却していたこの俺が、この傷だらけの醜い男が、彼らの間に出る幕など無いだろう?
俺は彼女を助けたら、彼女の前から去るだけの役回りの筈なのだ。
「どうしたの?戸口にいたら邪魔でしょう。入らないならお退きなさいよ。」
「申し訳ありません。どうぞ、耀子様。」
おどける様にドアを支えて彼女を部屋に通すと、相良は通り際に俺の腕を軽く叩いた。
昨夜と違い相良は黒い髪をゆったりと大きく夜会巻きにしており、銀色に見える細身のシルクのサンドレスに薄地のすみれ色のカーディガンを羽織っていた。
「なかなか私の所に来ないから、私の方が参りましたよ。」
女王の到来に、更紗は驚き矢野から離れ、矢野は面白くもない顔を作った。
せっかくの美女との再会できた親密な時間を壊されたのだ。
イラつきもするだろう。
矢野が席を立つと相良は矢野が座っていた所に自分が座り、見るからに相良に恐縮している更紗の姿に、あれは更紗でないと俺は今一度思い知らされた。
席を立った矢野がすっと俺の側により、外へと言う風に俺に顎で示した。
彼のその思いつめた顔付きに俺は矢野の後ろに随って、二人の美女を後に残して部屋を出ると、矢野は屋敷内をサクサクと歩きぬけて中庭へと俺を誘った。
小さな噴水のある、建物に囲まれた四角い小さな庭。
庭はシロツメクサとセイヨウタンポポが絨毯のように咲き乱れ、紫色の小さなアザミに似た花を咲かせている丸みのある三角の大き目の葉を持つ草――更紗の好きだった郭公薊が噴水を守るように群生し、当の噴水は静に水を湛えているだけだ。
そしてそこは、こんなに狭く建物に囲まれていても陽の光が入り、明るくてゆったりとした空間になっていた。
噴水に近付いて覗くと、水面にも水中にも水草が青々と生い茂り、水草の隙間から小さな川海老の姿やメダカが泳ぐ姿が見て取れた。
姿が見えないが、絶対に金魚がいるはずだ。
「更紗の完璧の池、だな。」
手を入れなくても生命が成り立つ完璧の世界。
「知っていたのか?」
矢野が驚いた声を出した。
「知っているも何も、七年前に天野家に滞在した時に、更紗が生涯の研究のようにいくつも作って遊んでいたからね。」
ハハハと若々しい声で矢野は笑うと、俺の見逃していた事を教えてくれた。
「あいつは天野家の本妻の娘じゃないからさ、自分が要らない子だって思い込んでいるんだよ。だから完璧な池を作るんだ。あいつが作った池が命を湛え続けるなら、あいつの存在が許されるだろ。」
更紗が俺に語った言葉。
「人間がいなくなったら世界は完璧な世界になるんだよ。人間は途中で全てのサイクルを壊すから、いなくなると完璧になるの。」
人間の単語の部分をを更紗に直して、俺は聞いてあげるべきだったのか。
俺は彼女の頭を撫でるのでなく、「人間も必要な自然の一部だ。」と大人の言葉を返すべきだったというのか。
「更紗が消えてからこの池の金魚は全滅しちゃったんだよね。下手に入れて池のバランスを壊すのも怖くてね。ずーとこのまま。あいつがいなくても世界が回っているみたいでさ、この池を潰そうかって何度も耀子と話し合ってね。その度に更紗が作ったものだからって。それでずーとこのまま。」
自然界にいない金魚を更紗が入れていたのは、金魚が更紗の投影だったというのか?
「あいつの両親が行方不明なんだよ。」
矢野の突然の言葉に、俺は更紗によって池にされた噴水から顔を上げた。
「行方不明って、どういうことだ?」
矢野は噴水の縁に腰掛けると、俺を見上げて答えた。
「あいつは捨てられたんだよ。」
「捨てられた?」
「姉の駆け落ち後に母親が姉の所から帰らなくなって、一年後に若い男と駆け落ちして家出。その二年後に父親が海外の仕事だと海外に行ってね、帰国するはずの日に帰って来ずに連絡もない。更紗は姉の旦那、和泉から渡される生活費で十四歳から一人暮らしだよ。和泉のパーティで姉の宝石を売っぱらったのは、ああでもしないと和泉の家に行かなければいけないからだ。あの事件で美緒子が更紗に怒り狂ったからね。」
相良の語っていた「学費」はそのためだったのか。
「そんな家庭環境は知らなかったよ。昨夜の相良が俺に隠していたのはそれか。」
「当たり前だ。わざわざ吹聴することじゃないだろ。何てことないって顔をしている天に耀子はそ知らぬふりをしていたけどね。でもさ、そのままで良い訳がないだろ。俺が二人に内緒で調べたら天野家の預金が空になってた銀行があってね。最初が母親の持参金。次に渡航した父親が日本に戻ったその足で銀行で金を下ろしていた。それでその後に足取りが消えている。どう思う?」
「考えるまでもないだろう。それで、それは和泉か?」
俺は矢野の隣に座り込み、その先の矢野の言葉を待った。




