矢野と相良、そして更紗
「買うって、何を?」
相良が更紗に尋ねると、少年にしか見えない大きな目の少女は、大きな目をおどけるように見開いて笑った。
どうして気が付かないの?という風に、だ。
「もちろん連れて来たコイツだって。好きに使っていいよ。だから、前払いで六千円を私に頂戴。あとはコイツが使えた分だけコイツに払ってあげて。」
「ふざけるなよ、この馬鹿。」
見るからにチンピラ風情の青年は、馬鹿な事を言い出す更紗に怒った声を出すが目元は優しく、更に相良を前にしても気後れせずに悠然と構えている所が気に入った。
厳つい顔の青年が笑い皺で顔つきが柔和になると、相良が亡くした次男の面影が彼に重なった。
弟妹に強請られれば自分の宝物までも譲って泣いていた、愛すべき馬鹿息子。
「良いわよ。買ってあげる。でも、使えなかったらこの子をどうするの?」
「仕方ないから貰ったお金で買い戻す。一月後に話し合いましょう。」
更紗は相良から金を受け取ると、矢野に一瞥も与えずにタカタカと彼女の書斎を出て行ったのだ。
矢野を残して。
「あなたは、それで、どうする?」
「あいつが貰った分の仕事をしますよ。体は頑丈ですから何でもします。あいつの学費が払えないから漁船にでも乗ろうかって仕事を探していたら、此処に連れて来られましてね。あの金額分は一生かけても返しますのでよろしくお願いします。」
びしっと相良に頭を下げた青年に、彼女はそれだけで価値を見たのだと言って笑い声をあげた。
実際に働かせてみれば、矢野は綿のようにして何でも吸収し、頭の回転も速く度胸もいいからと、先物取引にも駆り出せるぐらいのビジネスマンに仕立て上げられたというのだ。
「六千円じゃ安すぎる買いものだったわね。誠司が私へのプレゼントだったのかしらと思った程よ。」
「矢野君に聞いていた話と違いますね。彼はチンピラをしているのは仕事がないからだと更紗に言ったら売られたと。それに、学費ってなんです?」
相良はしまったという顔を一瞬して、自分の言った言葉を消すように軽く手を振った。
「学費の事は私と更紗のゲームの一つだと思っていて。それでね、笑っちゃうのが更紗はお金をすぐさま学校に納めちゃっていて誠司を買い戻せなくなっちゃっていたのよ。でもね、誠ちゃんは使える男だから大丈夫なはずだからって。酷い子よね、あの子は。」
笑いながら相良は目元を拭い、そしてそのまま彼女は暫く黙り込んだ。
俺はそろそろ退出する頃合かと彼女に断ろうとすると、塞いでいた彼女が再び話し出した。
「情けないわね。私は更紗が本当に戻ってきたのか、何度もあの子の部屋を覗いているのよ。二年ぶりのあの子の体は傷だらけで痩せ細っていて。」
口元を押さえた相良の瞳から、今度こそツーっと涙が零れ落ちた。
「ごめんなさいね。」
彼女は俺からしばらく顔を背け、俺は泣く彼女を慰める事もでき無いからと、長丁場になりそうなこの愁嘆場に心の中で溜息を吐いた。
しかし、ブランデーをちびちびやっていても、時間つぶしには限度がある。
静かに泣く相良の姿にいたたまれず、俺は相良の部屋のサイドボードにある置時計に目をやった。
相良らしく最新の飾り気のない時計であるが、水晶の中に閉じ込められたデザイン性の高い銀色の針が空中に浮いて見えるというミステリークロックだ。
俺の絵を買ったがために父におねだりが出来なくなったと、俺に買ってと強請ってきた母の欲しがっていた高級時計だったと見つめてしまったのである。
俺は母への忌々しい気持ちを抱きながら時計を見つめ、時計によって時刻を知ったことで、今すぐ確認せねばならない事項を思い出した。
「矢野君はどこです?俺は帰りは彼に送ってもらう約束なのですが。」
顔を背けたままの相良はフフっと噴き出すように笑い出し、ゆっくりと顔を俺に向けた。
「あなたは更紗に似ているわね。誠司は残した仕事だと出て行ったわ。今夜はこちらに泊まって頂戴。」




