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せい、ちゃん?

「医者を呼んで。」


「うるせぇよ、話してからだ。お前は俺達がお前を逃がそうと半月も前から計画を立てていた事を一日で台無しにしてくれたんだ、ほら言えよ。」


 肩をつかまれてぐらぐら揺らされ、あぁ、矢野を殴りたいと、痛む胃を抱えながらごろっと矢野から体を背けて、彼の知りたがっている事を告白することにした。


「飛んだ。」


「飛んだ?飛んだって、どこから?」


 低い怒りを含んだ声が背中に響く。


「――二階の屋根に出てそこから庭木に飛んで、木から塀に乗り移って、逃げた。」


 バシッと胃の痛みと同等ぐらいの痛みを伴う力で、私は矢野に頭を叩かれた。


「痛い!」


 痛みに頭を押さえて矢野を振り返ると、ただでさえ威圧感がある顔を真っ赤にして、仁王のように恐ろしい様子で私を見下ろしていた。


「この馬鹿が!落ちて死んでいたらどうするんだよ!俺が助けるって言っただろ。ちゃんと言うことを聞けよ!」


「一年前に逃がすって約束した人達は、結局捕まって殺されたのよ!そいつらは盲目だった私を誘拐して、嫌らしい目に合わせようと計画していた碌でなしだから良いけど、本気で助けようとした人が殺されたら嫌じゃない。」


 私を見下ろしていた矢野は大きく溜息をつくとしゃがみ込み、長椅子に横になっている私と目線を合わし、さらに目元に笑い皺を寄せて表情を和らげた。

 この顔は大好きな顔だ、と、彼の優しい表情に胸が温かくなった。


「俺は大丈夫だよ。お前と一緒に散々悪さしたからね。今度は、俺が助けると言ったら、絶対に、俺を、待っているんだ。解ったな。ハイ、返事。」


 絶対から妙に威圧的で脅すような声に変わり、最後には聞き分けのない子供を言い聞かす父親の目つきで私をねめつけている。

 はい以外、絶対に許さない目だ。


「ねぇ、矢野さんとも私は不倫していたの?」


 再び頭を叩かれた。

 今度は軽い痛みであったが。


「何を言い出すんだよ!この馬鹿!」


 彼は物凄く真っ赤な顔になってしまっていた。

 怒りでじゃない方の真っ赤な顔だ。


「だって、散々悪いことをしていたって。」


 はぁあああ、と矢野は大きく、嫌味たらしい長々とした溜息をした。

 しかし、殴りたいと思った時、矢野は私を真面目な顔して見返して尋ねてきたのだ。


「お前は和泉に何を聞かされてきた?」


「何って、何の事?」


「だからさ、お前、美緒子はどんな奴だったって和泉に聞かされてきた?」


 私は矢野の質問に希望が芽生えてきた事を感じた。

 私は和泉が言うほど最悪ではなかったのか?いらない人間ではないのか?


「言いにくいか?」


「いいえ。大丈夫。私が碌でもないことは判っているから大丈夫。」


 バシっ。

 痛い!


「和泉がお前に語った事は洗いざらい話せ。」


 相良が私を呼ぶのは私を虐めるためだと和泉が言っていたなと、皮肉に思い出した。

 あぁ、矢野を殴り返したい。

 矢野への怒りか頭の痛みか、本当は矢野の真摯な目によるが、私は自分を告白した。


「男と見ると股を開く淫乱で、嘘吐きで浪費家だったって。そのせいで天野拓郎が腹いせに更紗を、私の妹を殺したって。そうなんでしょう?」


「違うよ。美緒子は馬鹿なだけで、そんな酷い奴じゃなかったさ。」


 矢野は長椅子に転がったままの私を抱き起こし、そして、私の隣に彼が座り、私は背中を彼の肩に立てかけて座っている状態だ。

 なんだかとても懐かしいと、背中に矢野の感じながら思った。

 え?懐かしい体勢?

 

 私が矢野に振り向くと、髪をべとべとに固めて不良にしか見えない派手なシャツを着ている男が、老人とサメが出てくる本を開いて読みふけっていた。

 彼は父の本棚の本が大好きだ。

 私が読まなくて本が可哀想だと彼は言い、彼は我が家の書棚の本を全部読んでやると意気込んでいるらしく、読んだついでに私の宿題である学校の読書感想文も書いてくれた。


「サメは美味しいよね。わかる。」


「全部台無しはやめろ。重いよ、馬鹿。」


 小説に夢中な矢野が怒ったような声を出した。

 本気で怒っていないから「ようだ」だ。

 だから私は気兼ねなく「誠ちゃん」にさらに寄りかかりふざけた。


「良いじゃないか、私は凄く楽ちんだ。」


 そうだ、ここは私の家。

 私の居間。

 家族が誰も帰って来なくなった私の家。

 私がいる限り家族が完璧になれないと思い知らされた場所。


 ハッとした私が見ていたものは、幻影とは違う豪奢な居間の壁だった。

 そこからそっと首を回して、「誠ちゃん」を見つめた。

 矢野誠司は肩越しに私を見ていた。


「私がいると家族が完璧になれないから私は和泉と逃げたの?それで和泉の所でも私は幸せになれないって、誠ちゃんと逃げたの?誠ちゃんと一緒に暮らしていた?」


 誠司が目を見開いて、彼の瞳孔が見る見る広がる様が見て取れた。

 驚き?喜び?


「思い出したんだな、天。」


「あなたは私をテンって呼んでいたの?」


 誠司は答えず、彼の瞳は再び暗い陰りを帯びた。

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