うるさい矢野
私は夫の元に帰るべきなのだろうか。
二年間逃げたいと思いつめて実行した次の日に、男に振られたからと後悔し始めるなどなんて浅はかな女だろう。
過去の行為と同じだ。
勝手に思い込んだ気持ちで突っ走って、結局周りも全てをも不幸にする。
どうして記憶を失ったのか。
きっと今のように自分を捨て去りたいと考えたからに違いない。
「何をやっているんだよ。飯は食べたのか?」
食事室に矢野が入ってきた。
大柄で厳つい外見ながら、柔らかいシャツにパジャマのようなスラックス姿の彼は、整った顔立ちの方が目立つ柔和な雰囲気を醸していた。
私は今日は昨日と違って彼を殴る気力もない。
どうして昨日はあんなにも彼を殴りたかったのだろう。
そして、どうして彼にこんなに気安くいられるのだろうと考える。
彼はどう見ても夫の部下の黒服達と同様に、大柄で強そうで恐ろしそうな男性であるというのに。
まぁ、黒服連中よりも細身でスタイルがいい男ではあるけれどね。
あ、ついでに、彼は黙っていれば、彫りの深い顔立ちによって映画俳優のようでもある、黙っていれば!
「全然食べてないじゃないか。耀子はお前と喋り倒したいのにお前が飯食って元気になるまでと、我慢しているんだぞ。ほら、食べろ。どんどん食べろ!」
映画俳優のような男は、単なる近所のお兄さんのような気やすさで、勝手にフォークを取り上げると私の皿から玉子を掬いあげて、そのまま私の口に突っ込んできた。
むぐ、だ。
けれども何時間ぶり?殆んど一日ぶりの、いや一日半振りの、否もっとだ。
昨日は矢野が拾ってくれたクッキー一枚だけだったのだ。
おまけにおいしい食事が久しぶりの私は、その一口に感激してしまい、殆んど無意識に矢野からフォークを奪い返すと、犬のように皿を舐めるほどの勢いで平らげた。
そして、当り前だが、食べ終わった途端に胃が痛くなった。
空きっ腹に固形物は危険だと、私は知っていたはずではないか。
ええと、いつから?
そんなことはいい。
私は考える事を全部放棄して、差し込むような痛みを訴えて来た腹を抱えて呻いた。
「ううう。」
腹の痛みに椅子に座ってもいられなくなり、私は体を二つ折りにして、椅子に座ったまま腹を抱えて縮こまるしかなかった。
「何やってんの?腹が痛くなったのか?」
当たり前だが、矢野は私の有様に呆れている。
私は彼に頭を上下させて見せた。
「お前はガリガリだけど、ちゃんと食べていたのか?あの意地悪女中共に飯抜きされていた訳じゃないよな。」
ハハハと、力ない笑い声を上げるしかない。
「そのとおり。ご飯に虫やゴミが入っていたりで、和泉が一緒の時しかご飯が食べられなかった。一昨日の朝からまともに食べてないから、お腹が痛い。」
「お前は少々のゴミや虫くらい平気だろ。」
矢野は何て酷い奴だ。
「ゴキブリや誰かの下の毛が入ったものなど食べられるか!」
怒鳴り返した私に対し、矢野はハァと呆れたような溜息を出した。
それから矢野は、矢張り呆れた声を出した。
「よく昨日は逃げられたな。」
「なんだか昨日は空をも飛べる気がした。」
「空腹によるハイか。で、どうやってあの警備の厳重な家から逃げたんだ?」
矢野は尋ねながら私を持ち上げて、食事室に続いている居間の長椅子まで運んで横たえてくれた。
横になって体を伸ばせたら少し胃の引きつりが弱まった気がした。
「ありがとう。」
「どういたしまして。」
「私がありがとうって言っているのだから、「どういたしまして。」でしょう。」
私はその台詞を叫びながら、四角いテーブルの上に乗って地団太を踏んでいる。
喫茶店のような店内?
下には降りられない。
下には血まみれの男達が累々と転がって呻いており、割れたガラスの破片までも辺り一面に散らばっているのだ。
ガラスの嵌ってた所は、私が叫んだ相手が仲間と共に打ち破って入ってきたのだから何も無い。
「うるせぇよ。お前が馬鹿やった後始末なんだから、お前こそ、ありがとうございましたと、俺に頭を下げてりゃいいんだよ。反省しろ、反省。」
大柄な派手なシャツを着た男は私を怒鳴りつけると、自分の手下に振り返って私に背を向けた。
十数人の同じような格好の男達は、その派手シャツの大将の指示を素直に聞いている。
私は彼らから完全に忘れ去られ、存在を無視される存在になったようだ。
「頼んでもいないことをしてくれた人に、私はお礼まで言っているのに!」
派手な柄シャツを着た矢野は面倒臭そうに顔を上げると、面倒くさそうに私に言い放った。
「どういたしまして。」
「なにか違う!」
「いい加減にしろよ!ほら、答えろ。」
ドンと、肩を軽く拳で突かれた。
室内着姿の矢野が、白昼夢の中の矢野と同じく私に凄んでいた。
「で、どうやって逃げたんだよ。」
あぁ、胃の痛みが戻って来てきりきりする。どうしても話さないと駄目かな。
「大丈夫か?医者を呼ぼうか?」
「大丈夫。」
「それならどうやって逃げたのか言えよ。」
ああ!大丈夫なんて言うんじゃなかった!




