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温かな女性

 突発的な行動は計画的な行動よりも成功率が高いと知った。

 私は今自由だと、裸足で固いアスファルトの上を疾走していた。


 私はあの家を飛び出せたのだ。


 それはこんな流れである。


 あの危険な男、私に自分が味方だと囁いた男が、言葉通りに絶対に何かをしてくれると私は確信していた。

 ただ、確信した途端に、私は自分を縛る和泉への恐怖から解放されたような感覚となり、久々の勇気と知恵が湧いたのだ。


 玄関が駄目ならば屋根から逃げれば良いじゃないかと、私は二階の窓から屋根に登ると、そこで助走をつけて目指す庭木に向かって飛んだのだ。

 庭木にモモンガのように貼り付いた私は、今度はそこから塀に飛び移り、塀の上に乗ったならばと、猛スピードで塀の上を走って逃げたのである。


 屋根から飛んだ時は、恐怖なんて全く感じなかった。

 屋根の端から飛び立って、ひゅんっと風を切って目標の木に縋りつくまでが、なんと気持ち良かったことか!


「この考え無しが!」


 頭の中に男の怒鳴り声が響いた。

 この声は誰だろう。

 忘れてしまった申し訳なさは一杯なのに、それでも頭の中の男に自慢したくて堪らなかった。


「ちゃんと考えていたわよ。木に衝突したときの緩衝材として、私は体にレースカーテンを巻きつけていたもの。」


 頭の中で男性の怒鳴り声は聞こえなかったが、何となく、私に怒鳴ったあの男性が、ぐぬぬうと、悔しそうに私を睨んだはずだと私は簡単に想像できた。

 そう、頭の中の記憶している怒鳴り声は、私を心配してくれる人が出した声だと記憶がなくともわかるのだ。


 ははっと笑い声を出しながら、私は再びアスファルトを蹴った。


「いた!」


 左足の親指に激痛が走ったが、私は歯を食いしばって、無傷の足の方を地面につけて自分を前に出そうと足を運んだ。


「ああ、痛い。これは罰ね!あんなにも心配している夫を嫌い、頭の中だけの顔も覚えていない男性に縋るからよ。」


 先程までの成功の高揚感が、つま先の痛みとともに消えてしまった。

 本当に大成功だったというのに。


 私が飛び移った木は間抜けに育った大きな木だったけれども、人の体重など支えきれない金木犀でしかなかった。

 木が私を支えられないと折れる前に、私は塀の上に飛び乗ることができたが、私の行動に気づいた男達が一斉に私を目指して駆けて来た。


 門外にいた者、屋敷内から飛び出て来た者。


 幅の狭い塀の上はバランスを取りにくいが、私はその上を走り、ぴょんと道路に飛び降りた。

 そこからは猛ダッシュだった。

 私は何も持たないのだからどこまでも軽々と走っていける。


 そう思って走り続けていたのに!


「ああ、もう無理だわ。もう終わっちゃう。」


 足の痛みから冷静に戻されると、自分の体がもう無理だと叫んでいた事を受け入れるしかない状態だった。

 家の中に閉じ込められていた私の肉体は衰えていたようで、ここまでが肉体の限界だった。


「ああ、死んだって戻るのは嫌。このまま肺も心臓も破けてしまえばいいのに!」


 周囲を見回した時、私はタバコ屋の店番の女性と目が合った。

 そこで私の脳みそがぐるっと動いた。

 私に交番でなくタバコ屋に逃げろと私の脳みそは言った。

 裸足で傷のある女が、殴る夫から逃げてきたと訴えれば、店番の女性が自分を助けてくれるかもしれないぞ、と。


「た、助けて!か、匿ってください!」


「あいよ。」


「え?」


 六十歳の戸田ミヨは、私の気が抜ける程に安請け合いしてくれた上に、彼女の甥っ子を呼び出して、彼女の懇意にしている警察官をも呼び出してくれた。

 流石のミヨは、自分が呼び出した巡査に対して、タバコ屋で世間話をしているように振舞えと注文をつける策士だった。

 その上、店の前を何度も私を探して走る黒服を見ても、怯まずに守ろうとしてくれる天晴れさだったのである。


「それで、誰を呼び出して欲しいのかな。」


 警官の言葉に「相良耀子」と答えるつもりだったのに、なぜか私の口は「竹ノ塚恭一郎」と答えていた。

 夫以外の男の名を口にした私に警官もミヨも一瞬呆れ顔をしたが、彼に連絡だけはしてくれると請け負ってくれた。


「あんたねぇ、外に男を作ればそりゃ殴られるでしょう。」


 私はミヨの呆れ声にハハハと笑い、笑いながら自分の情けなさに涙がじわりと滲んできた。


「どんなに嫌な奴でも簡単に別れられないから我慢するしかないからね、仕方ないけどさ。怪我の消毒したいから家の中にお入り。」


 私に許しを与えてくれたミヨに感謝しながら家の中に上がらせてもらったが、口の悪い彼女からは想像できないほどに、傷の手当てをする手つきがとてもやさしく、私は彼女の手から覚えていない母親の幻影を求めてしまっていた。

 すると、恥も外聞もなく私の両目からは次から次へと涙が零れ、最後には彼女の肩に顔を押し付けて、母親に子供がするようにして泣くしかなくなった。


 ミヨは私を抱き返し、背中を軽くポンポンと叩いていてくれた。


 それは温かく静で、記憶を失ってからの二年間、いえ、もっと昔から私が求めていたような完璧な時間のような気がした。

 ずっとこうしていたいと私は情けなくも望んだが、物事には必ず終わりがあるものだ。


「美緒子、そこにいるのは解っている。他所様に迷惑をかける前に出て来い!」


 外から聞こえた和泉の大声は、私の人生の終了も告げているようだった。

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