お母様、ご機嫌麗しく
とうとう俺の母も呆けたかと、俺は自分の母親を見返した。
母のお気に入りの「サロン」は洋風のつくりで、壁には大小の絵画が何枚か飾られ大きな観葉植物まで置かれている。
サイドボードには彼女のお気に入りの茶器が飾られて、レコードプレーヤーも設置されているのだ。
今日は俺に大事な話があるとのことで、母好みの音楽が流れることも無い静かとなった部屋で、ジャコビアン風の丸天板のテーブルを囲んで俺達は向かい合わせに座っていた。
小柄な体に豪奢な着物を着た上流階級そのものの母は、俺の内心の葛藤やら呆れやら、まぁそこから溢れ出る様々な罵倒語を浴びているなど知らない事を良い事に品よく紅茶を飲んでいる。
五月の中旬になったばかりとはいえ、今日は特に蒸し暑く感じるというのに、着物姿で熱い紅茶を啜ろうなどとよくも考えるものだ。
我が家の氷式の物と違い、完全電気式の自慢の冷蔵庫があるのだから、愛息子に冷たいビールか、せめてアイスティぐらいは振舞って欲しいものだ。
俺も彼女に付き合って茶を飲んで今回の話を流してしまおうと、カップを左手で持った。
右手は使わない。
右手の指が二本欠けているからだ。
指が欠けていても普通に使えるが、指の欠けた手を目の前にした人々の挙動を知るにつけ、俺は人前では右手を敢えて使わないようになっただけである。
「あなたもそろそろ身を固めるべきでしょう。丁度良い話じゃないの。」
カチャンとカップを乱暴に置く。
茶器が乱暴に扱われる事を母が非常に嫌う事を知っていての行動だ。
俺の気持ちが通じたか?
しかし彼女は細い山形の眉を軽く動かすだけでどこ吹く風だ。
俺は言葉で伝えねばと大きく溜息をつき、口を開いた。
「嫌ですよ。どうして円満な家庭の奥様を誘拐して自分の妻にしないといけないのですか。それも、昔に僕との縁談を断った相手ですよ。」
フフフっと、母という肩書きの我が家のフィクサーは、黒幕らしく悪そうに微笑んだ。
俺の父は元華族を売りにして政治家として成功して財を成している。
それも元男爵だ。
金で買える爵位を昔に持っていたとほざく事に何の意味があるのだろうかとも思うが、しかしながらそんな身の上の父には残念ながら俗物的な所が無い。
それでありながら彼は政略に長けた男だと尊敬され恐れられているのだ。
その不思議には理由がある。
彼の後援会が老獪な奴等の集まりであり、彼がこの俺の目の前の小さな雛人形のような奥方に頭が上がらない男であるからに他ならない。
我が家竹ノ塚家においては、彼女がルールでありキングであるのだ。
「仕方がないじゃないの。そうでもしないとあなたは結婚できないでしょう。それにね、天野家と繋がる相良耀子様、彼女に美緒子さんを連れて来て欲しいと直々に頼まれてね。あなたが了承したら、あなたを彼女の相続人の一人に加えてくれるそうよ。」
「親父への献金もかなりの額が見込めそうですしね。」
「おだまりなさい。」
相良耀子は戦後成金の未亡人だ。
焼け野原の東京にて、闇市によって戦争で失われた財を全て取り戻した女傑でもある。
彼女の息子は三人とも戦地に行き、そして全員が亡くなった。
戦後の混乱期に男手の無くなった美貌の彼女は、家に押し寄せた無頼漢達に土地も家も、そして娘までも乱暴されて失ったと聞く。
生き残った彼女は東京の親族の家に身を寄せ、手元に残った唯一の宝石を元手に闇市を立ち上げ成功したとそういうわけだ。
「相良様が天野家と繋がっているとは知りませんでしたよ。」
「あなたは此方の世界の事を知る気もないのだから当たり前でしょう。」
母という鬼婆は、嫌味たらしく息子の揚げ足取りをして、息子をこれでもかといたぶることが喜びの生き物なのかもしれない。
「あなたは僕を苛めるためだけに呼び寄せたのですか?」
母は俺が幼い子供のようにして、片方の眉をつり上げ、俺に居心地の悪い目線を寄こした。