柵さえなければなんだってできる男
タバコ屋を出た俺は、少々気落ちした風情を纏いながら、車を止めた場所へと歩いて行った。
車は人通りもある明るい場所に停めたが、そこに行くまでが少々薄暗い道を歩かねばならない。
襲撃をされても良いが、大事な車を壊されたくないのだから仕方が無い。
俺の車は、俺が整備して再生させた、俺の大事な子供みたいなものなのだ。
「恭一郎、乗せて!村を一周して!」
元気いっぱいの更紗が、車を見て乗りたいと騒ぐのは当たり前だった。
また、俺の車に関しては、俺を厭っていた美緒子でさえ興味を示し、天野家を訪れた翌日は全員を順番に乗せて村中を走りまわらせられた、と思い出す。
助手席に座った美緒子が俺に色目を向けたのには驚いたが、ハンドルを握った俺は乱暴な運転をしてしまうのが常で、誰も一回乗っただけで二度と乗りたいと言わなかった。
天野家の次にと、期待して列を作っていた村人達も逃げ出した程だ。
よって美緒子の俺に対する色目はその時一回だけだったが、自分に今後とも気を持たせないようにするのもドライブの目的に組み込まれていたのだから、それは一向に構わない。
思い出してみれば、俺は美緒子には本気で嫌な奴だったことだろう。
だが、美緒子だけではなくて天野家全員、あの気持ちの良い正造にまで乱暴な運転の洗礼をしてしまったのは、俺の子供っぽい我執が原因だ。
今もそうだが、車だけは一人だけで、自分の好きに走らせたい。
そして当たり前だが、更紗だけは後日になって「もう一回」と要求してきた。
あの悪魔の子供め。
「また吐いちゃうでしょう。」
「もう吐かないもの。絶対に。」
彼女は両頬を金魚みたいにプクっと膨らませた。
「どうしてそう確信しているの?」
「恭一郎がわざと乱暴な運転しているって、私は知っているもの。」
俺は咄嗟に更紗の口を塞ぎ、周囲を見回してから恐る恐る彼女に尋ねた。
「どうしてわかった?」
腕の中の子供は俺の手を口から両手で外すと、ケケケと笑って種明かしをした。
「昨日荷台で昼寝していたら、全然乱暴な運転じゃなかった。」
俺は大きく舌打をしてから、自分の注意散漫なうっかり具合を軍隊時代の言葉で罵りあげた。
それを聞いた更紗はケタケタと子供らしい馬鹿笑いをあげ、俺の足元で腹を抱えて転がって喜んでいる。
「恭一郎って子供みたいに予測不能だよ!」
「君が子供って言わないでよ。」
楽しい夏の思い出は、ザザっと鳴った複数の革靴の音によって中断された。
「決まりきった行動は、予定調和にしかなりませんよ。」
大柄の五人の男達の姿に、俺は悲しい思い出を重ねながら対峙した。
日本人の俺達よりはるかに大柄な兵士達。
日本の戦況が悪いと見るや不可侵条約を破って南下して来た、卑怯な国の男達の幻影だ。
あの時は攻撃も抵抗も出来なかった。
抵抗しても逃げ切る事は出来ず、奴らに傷をつければ他の捕虜達が虐待される。
それでも、収容所内で俺は我慢できずに反抗して、永久凍土に頭を靴で踏まれて押し付けられたのだ。
踏まれて折れた指はそのまま壊死して腐れ落ち、頬と額の皮は押し付けられた大地に貼り付いて剥がれた。
ただし、今のここは日本で、彼らには捕虜が一人もいない。
左手で掴んでいた二つの袋を、俺は自分を囲んで来た男達の一人に投げつけた。
胡椒と唐辛子で作った目潰しの粉だ。
それが直接ぶつかったのは一人の男だが、その男の額でその袋は破け、煙のようにして周囲にいた男二人も目つぶしの粉を浴びた。
三人の男達は唸り声をあげ、当り前だが顔を押さえて動きを止めた。
「備えって大事ですよね。」
「てめえ!一体何を!」
動ける男二人が同時に飛び掛かって来た。
装飾を施した鉄の棒でしかない杖を俺は握り直すと、それぞれの胴を打ち払った。
それから俺は過去を払うが如き勢いを持って、いまだに目の痛みに呻く三人を存分にしたたかに殴りつけたのである。
俺も相手が男ならば、何だって出来る男だ。
先に田辺に更紗を連れ出させておいて良かった。
今頃は和泉が罠を張っても遅いほど、相良家近くにまで矢野の車が走っているはずだ。




