殴り飛ばしたい男?
男が私から顔を背けたのは仕方がない事だろう。
私の顔にも傷跡がある。
だけどそれは額だけだった。
隠すほどでなく疎うほどでもない、小さな白く細いノの字形の傷が左眉の真ん中から額に走っているだけだ。
左の眉毛はそれで間抜のように間が開いてしまったが、傷自体は月光みたいで格好が良いのに。
体の傷も似たようなものだった。
大したものじゃない。
体の裏側、それも左腕の上腕から肩甲骨まで、裂けてしまったた皮膚を縫った跡があるだけだ。
子供の描いた線路みたいな白い傷跡。
私はもっと大きなグロテスクな物を想像していたので肩透かしだった。
傷が癒えるまでかなりの痛みがあり、そして雨になるとじくじく未だに痛む。
盲目時代はそんな傷跡を指先でなぞって探ると浮き出て大きく感じたから、彼らの言うおぞましい傷だとずっと信じていたのに、目が見えるようになって鏡で見たらこの程度だったとは、世の中繊細すぎないか?
「奥様、その方のお名前をお知りになりたくありません?」
佳代子の声にそちらに顔を向ける。
目線は焦点を合わせないようにだ。
彼女は嫌らしい笑顔で私を見て笑っていた。
隣のミチもだ。
彼女達は私のカップを私の手元に、丁度手に当たるように置き直している。
思わず熱い紅茶を私が零して被ってしまう位置。
「奥様に婚約破棄をされてからずっと独り身で、未だに奥様に恋焦がれているそうですわよ。」
ミヨははしたない下品な声をあげ、佳代子の言葉に笑っている。
「ぜひ、教えていただきたいわ。」
私はまだ手を動かさない。
彼女達の言葉を聞いてからこの手を動かそう、期待通りに。
「竹ノ塚恭一郎様ですわ。」
佳代子の後をミチがまた嫌らしく笑いながら続けた。
「右手の指が二本無くて、顔が痣だらけの男性ですって。」
――ブチ犬みたいに?――。
バシャ。
キャァアアアア。
おっと、期待以上にカップが飛んでしまった。
仕方ないだろう。
私は目が見えないのだから。
でも、突然聞こえたあの懐かしい声は誰だろう。
熱い湯を被ったミチと佳代子はキャアキャアと風呂場に走っていった。
水で冷やそうとしているのか。
火傷するような熱い湯を私にかけようとしていたとは、酷い女達め。
彼女達が消えた隙に、私には出してくれないクッキーを一枚掴んで齧りついた。
「おいしい。」
半日振りの食べ物だと、口腔内にじゅわっと唾液が湧き出て来た。
「フハハハハ。」
「ひゃっ。」
突然の男の笑い声に、私はびくりと震え、なんと!せっかくの食べ物を床に落としてしまった。
目の見えない設定の私には拾えない。
畜生と、笑い声に振り向くと黒服だ。
彼は嬉しそうに笑っている。
その笑顔は厳つい顔を柔らかく見せて、なんだか懐かしさも感じる私の好きな顔だった。
私の好きな顔?
いつもと違う自分の思考に煽られたか、私は今までやったことの無いことをした。
黒服に話しかけたのだ。
「あの、申し訳ありません。私は何も見えないので、何事が起きたのか教えていただけませんか?」
「嘘だ。」
「え?」
その黒服は私の目を覗き込んで真っ直ぐに見つめかえす。
「見たままですよ。」
真っ直ぐ見つめたまま微笑む黒服に、私は秘密を知られた恐怖に自分の瞳孔が開いていくのを感じた。
すると、おもむろに彼は立ち上がりズカズカと私の目の前にまで来ると、久々に怯え慄く私の耳元に囁いた。
「俺は味方ですよ。必ず助けます。」
なんていう爆弾。
私は顔を上げて彼をまじまじと見つめ返してしまった。
目の合った彼は悠然と私に微笑み、床に落ちたクッキーを拾って私の手に乗せ、そして自分は新しいクッキーを皿から一枚盗って齧りながら元の場所に戻っていった。
「食べ物は粗末に出来ないからね。」
矢張り、殴り飛ばすべき男かもしれない。




