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相棒

「隊長、お帰りなさいませ。」


「やめてよ、いい加減にその隊長っての。知らない人が聞いたら吃驚するでしょう。」


 自宅に戻って書斎に入った途端に、執事気取りの田辺大吉がお茶を持って顔を出した。

 彼は同じ隊で一緒に戦い、同じ収容所で一緒に苦しんで、そして一緒に帰ってきたという戦友なのだ。


 小柄で敏捷な彼は九州が故郷らしく浅黒く彫が深く、派手なシャツを着せたら南方の人そのものになる。


 本人には絶対に言えないが。


 帰国後港で俺達はそれぞれ実家へ戻ると別れたが、故郷に戻った彼の実家は失われおり、家族の消息も知れなかったと、彼はとんぼ返りのように東京に舞い戻っていたのだ。

 職探し中の彼を見かけたのは、俺が天野家から帰ってきた一ヵ月後である。

 俺が天野家から実家に戻ってきたときは大騒ぎだったものだ、母が。


 彼女は俺の車のエンジン音を聞きつけたか、車を駐車した途端に小さな体に怒りの炎を纏って家から飛び出し、猪のようにダダダと俺に向かってきたのだ。


「この、大馬鹿者!」


「あぁ、婚約式のホテルではお母さん達にも恥をかかせてしまいまして、申し訳――。」


「親の脛齧りの無能の男は御免だと、あの女は言い放ったそうよ。わ、わた、私のような母親の言いなりの甲斐性なしに嫁ぐ馬鹿はいないって。出て行って自活しなさい!」


 その告げ口も更紗の仕業かもしれないと更紗に感謝を捧げ、俺は自由を手に入れた感じて有頂天にもなってしまった。

 親の家で小さくなって、無能となった自分を噛みしめて生きるのは、ほとほと俺には辛かったのである。


 頭から湯気を立てた母に「出て行け」と命令され、表面上は沈んだ様子で意気揚々と荷物を車に乗せていると、こそっと現れた父に「これを持ってお行き。」と土地権利書を渡された。

 それは戦前に建てられた不燃性アパートメントを修繕し直した物であった。


 そこで俺はアパートの近くに家を買い、アパートの管理人をどうするか考えていた時に田辺との再会だったのである。

 アパートを借りているのがGHQの将校が多い事から管理が困難であろうとも、喜んだ彼は管理人を了承してくれ、そして将校共が消えて一般庶民向けアパートに戻った今でも、彼は俺の家に住み込み、俺とアパートの管理の両方をこなしてくれている。


 結局俺はそんな自分の無能でいられる状況を喜んでもいる。

 何しろ、昭和二十四年に自動車の生産制限がようやく解除されると、国内の自動車生産会社が息を吹き返したのだ。


 まず、戦中に全ての自動車開発がストップして一から出発しなければならなくなっていた日本の自動車会社は、外国車のノックダウン生産という形を取って国内生産を始めた。

 現在は純正国産車の開発に取り掛かっており、純正国産車が街を走る日も遠くないだろう。


 その発展目覚しい車の世界に俺はどっぷりと浸かっており、俺のダット・サンは試作のエンジンに乗せかえられて今でも愛車で現役だ。

 そんな自動車会社に際限なく投資しそうな考え無しの俺を止めてくれ、日常の仕事も片付けてくれる田辺の存在は非常に頼もしいものである。


「ですが隊長ですよ。収容所では弱いの守って、もしもの時の逃げる方法を何度も探ってらしたでしょう?その傷は俺達の身代わりの傷ですからね。いつまでも隊長ですよ。」


 俺はその話をやめるようにと、手を大仰に振って田辺を黙らした。

 もう何年目だ、このやり取りは。

 もしかしてお互いに白髪頭になっても「隊長はやめて。」「いつまでも隊長です。」と言い合わなければいけないのだろうか。


 俺は前線に行くはずのない学徒であったが、戦中の人材不足のため士官学校を期間短縮で卒業させられた。

 同期の連中はそれを喜んでいたが、俺は情けなくガッカリと唖然としていたのは内緒だ。


 そんな俺は少尉として小隊の隊長にさせられたが、シベリアに連行されるまでのその一年間は癖のある年上ばかりの隊員から「竹ちゃん」や「坊ちゃん」呼びではなかったかと思い出す。

 隊長どころか、少尉とも、階級が上がっても中尉とも呼ばれもしなかったではないか。


「収容所入る前まで田辺軍曹は俺を隊長って呼んでいないよね。」


 田辺はちっと舌打ちをして急須を差し出してきた。


「お代わりは?」


「いや、まだお茶はあるからいいよ。」


 田辺は自分の茶を持って書斎机前の応接セットのソファの一つに座ると、俺に向かって意地悪そうに微笑んだ。


「隊長って呼ばれなかった事、気にされてたのですか?」


 彼は癖があった隊員の一人で、彼らを束ねていた下士官で俺の副官だった。

 俺がすねたように鼻を鳴らすと、彼は嬉しそうに笑い声をたてた。


「それよりも、頼みがあるんだけどいいかな。」


 頼みと聞いて彼は目を輝かした。

 彼は俺に恩義があると思い込みすぎて、いつも何かを返そうと必死でもあるのだ。

 アパート管理が好評で店子は皆優良だ。

 経営が上手くいったので、幾つか土地も売り買いしてかなり蓄えもできた。

 それもこれも田辺があってこそだ。

 彼には見合った給料を出しているが、それでも彼はここに住み俺の世話を焼いてくれる。


「ある家に入り込めるように、その家の電気会社やガス会社などの出入りを調べて欲しいんだ。」


「入り込むために?」


 何でもハイと答える田辺でも不思議そうな顔で聞き返してきた。

 それでも目に悪戯そうな輝きがあるのは、俺の頼みごとに何かの違法行動の臭いがするからだろう。

 俺は涼しい顔で答えてやった。


「これからその家の女房を奪いに行くんだ。俺もそろそろ伴侶が欲しい年だからね。」


 田辺の大口を開けて驚く様に、俺は久々に大笑いだった。

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