稲葉の素兎(しろうさぎ)
八嶋士奴美神と大己貴命の付き合いは存外長い。確か、初めて会ったのは八嶋士奴美神の元に、月読命の元から小賢しい一羽の兎が迷い来た頃の事だ。
当時の八嶋士奴美神は、今より荒れていて、幾つかある沖の小島の元締めをしていた。
いくら歳が離れているとは言え、自分には厳しく「ここら一帯を平定し、治めよ」と丸投げな父が、妹姫にはだだ甘で目に入れても痛くないと言わんばかりに振る舞うから、当時の八嶋士奴美神は父が嫌いで、平定するどころか、無法者どもと一緒になって好き勝手していた。
平たく言えば「黒歴史」というものである。
しかし、それが不思議と無法者どもを統率ある者に変化させ、八嶋士奴美神をヒエラレルキーの頂点として素戔嗚尊の思った通りに纏まったのは皮肉な限りだった。
「なんだと・・・・・・?」
「ですから、船橋を壊したと話したのです。」
「いや、その前だ。海に突き落としただと?」
「へえ。」
和迩の族長からその話を聞くと、八嶋士奴美神は頭を抱えた。
◇
「お前は言っちゃあならねえ事を言った――。」
鼻持ちならない兎に向かって、荒くれ者の和迩の族長が言い募る。
月の使者としてきた兎は真っ白い綺麗な布で仕立てた裾の長い服をきた女で、金色の美しい髪を高く結い、紺碧の海のような眼をしていた。しかし、八嶋士奴美神は自分を訪ねてきた彼女には会わず、和迩の族長に丁重にもてなしお帰りいただくようにと伝えたのだ。
女も気分を害したのだろう。
酒や肴を振舞ったが口を付けることはなく、それでも安全に帰れるようにと組んだ船橋を用意したが、それを見ると「なんだこれは?」と噴き出すようにして笑った。
「何を笑う?」
「仕方ないであろう? このような所を歩けなどと言うのだから。落ちたら、妾に泳げと申すのか?」
「こんな所に橋をかけたって流れるだけだ。」
「何、単に橋をかける技量がないだけであろう?」
売り言葉に買い言葉、だんだんとエスカレートして、最後は「このように鄙びたところ、うぬらの頭領もたかが知れておろう」と言われてカチンとした。
彼女の服を剥ぎ、荒岩むき出しの所へと叩き落とす。
「何をする――ッ!!」
「そこらは我らが眷属、和迩がいる。我らを馬鹿にしたことを後悔して死ぬがいい!ッ」
その後、船橋は崩し、こうして報告に参ったという和迩の族長の話に、八嶋士奴美神は頭を抱えてしまった。
自分は素戔嗚尊の子。それが月読命の使者に無体なことをしたと伝われば、伯父と父の間で諍いが起きる。そうなれば、間違いなく父は自分の後始末は自分で贖えと言うだろう。
この時期の海――。
しかも、海の民である和迩族を敵に回した状態で海に放り込まれたのであれば、助かっているとは思えない。しかし、下手に生きられていてはこちらの身が危うく、八嶋士奴美神は根の堅洲国から自分についてきた信頼ある伴の者、和多利を一人連れて、内密に本土へと渡った。
「まだ生きていると思うか――?」
「裸で放り出したと言っていましたから、泳ぎの達者なら、もしかしたら生きているやもしれません。」
「もしかしたら、か・・・・・・。」
戦争を回避するのであれば、月の使者には何としても生きていて貰わねばならない。
八嶋士奴美神と和多利は潮目を読みながら、もしかしたら月の使者が着いているやもしれない辺りに向かって舟を進めた。
やがて、反対岸に着こうという頃、藻塩を炊く火にしては細い煙が上がっているのが見えた。目を凝らせば近くに男物の服を軽く羽織って火にあたっている女と、濡れた衣を絞っている男の姿が見える。
「よもや突き落とされるとは思わなかった。」
「こちらも驚きましたよ、ひょいと見たら海で溺れかけている方がいらっしゃるのですから。」
そう言いながらも、手際よく荷物から薬を取り出して「身体を温めます」と薬酒を渡し、貝殻の器を開けると背中を見せるように言う。
「そちらはなんじゃ?」
「蒲黄という薬です。しょっちゅう生傷絶えないんで、幾つか薬は常備してるんですよ。」
そう言いながら男は淡々と女の背中の傷に薬を塗っていたが、八嶋士奴美神は薬を塗られている女の美しさに目を奪われてしまった。
白く華奢な素肌。豊かな金色の髪は濡れそぼって少し黒めいて、隠してはいるがその胸は豊かに膨らみ、腰付きも実に女性らしく思わず生唾を飲み込んだ。
ぶかぶかな所をみると、男が替えの服を貸し与えたのだろう。女は煩わしそうに衣を羽織った。
「はい、これでおしまいです。明日の朝にはだいぶ痛みも引くと思いますよ。」
薬を片付けながら「それでは私はこれで」と男が言う。月の使者である兎の姫は、男の腕を掴んだ。
「動けぬ女を置いていくのか?」
「そうは言いましても・・・・・・。」
男の方は上の街道の方を見上げる。
「このようなところで女一人、夜を明かせと? それに、幾ばくも行かぬ内にお主も野宿する事になるだろう?」
確かに辺りは夕闇が濃くなってきていたから、すぐに野宿せざるを得ないだろう。男は「それもそうですねえ」と諦めた様子でその場に荷物を下ろすと、「では、お茶でも淹れますよ」と大荷物から小さな鍋を取り出す。そして、竹筒からお水を注ぐと器用に焚き火でお湯を沸かし始めた。
「お茶は月光花茶でよろしいですか?」
「ああ・・・・・・。」
手馴れた様子でお茶を淹れる準備をする。兎は「変な匂いのするお茶ばかり出されていたから嬉しい」と笑った。
「そうでしたか。ここらだと《どくだみ茶》が飲まれるのでそれかもしれないですね。」
「どくだみ茶?」
「ええ、十薬とも言う健康に良いお茶ですよ。ちゃんと歓待されていたんじゃないですか。」
「あれが歓待だと?」
「ええ、嫌いな方にお茶は振る舞わないでしょう?」
腑に落ちないという顔をする女に、男はくすりと笑うと詳しく説明を始める。
「月の民は木の実や野の草が中心で、魚の肉は食べないと聞き及んでいますが、このあたりの海の民には魚の肉はご馳走です。同じように月の海は波が静かで、橋をかけても土台が流されることはないですが、ここでは荒れた波に呑まれて橋ごと流れてしまう。普段なら揺れる船で渡るところを、貴人であるあなたに礼を尽くして船橋を作ったのでしょう。」
「では、妾が悪いというか?」
すると、大己貴命は「いいえ」と答える。
「良い、悪い、ではないですよ。お話を伺う限り、行き違いに過ぎぬという話です。」
大己貴命は素兎に「さあ、こちらをどうぞ」とお茶を差し出す。素兎はふうふうとお茶を冷ましてから冷えた身体を温めるようにお茶を口にした。
「それよりその大荷物、どこに行く予定なのだ?」
「確か八上比売の元に行くと聞いております。」
「ん? お主の意思で行くのではないのか?」
「ええ。私は先祖代々の土地を引き継ぐように言われてますが、兄さん達はそうしたのがないので、有力そうな娘がいると聞けば東西南北どこへでも。私は荷物持ちに来いと言われてるだけですよ。」
「そうか――。だが、奴らは八上比売とやらは得られまい。八上比売は既に通う男がいるからな。」
その言葉に大己貴命は顔を引きつらせる。
「それは・・・・・・、あまり聞きたくなかったお話ですね・・・・・・。」
「何を言う。聞かぬままに行っていれば、お主は殺されてしまっていたぞ?」
「どういうことです?」
「本当に己を望んでくる男を八上比売は選ぶまい。今、通っている男と諍いなども起こしたくあるまいしの。」
「でしょうね・・・・・・。」
「しかし、親にはそれを言い出せていないか、言ったが認めてもらえぬ仲なのだろう。そんなわけで八上比売はお主を《隠れ蓑となる伴侶》として、指名するだろう。」
事情を知った大己貴命の顔から引き攣った笑みも消えた。
「そうなると、このまま進んでも、進まなくても、兄さん達に殺されますね。」
八嶋士奴美神はその話を聞き入ってて、うっかりパキッと小枝を踏んでしまった。途端に耳ざとい素兎がこちらを見てくる。そして「そこにいるのは誰か?」と警戒を露に訊ねるから、八嶋士奴美神は恐る恐る物陰から出ることにした。
◇
現れた二人組の男に、助けた娘は警戒の色をいっそう濃くした。
「お知り合いの方ですか――?」
「ああ、和迩どもの頭領だ。」
なるほど、現れた男はどちらも海の民らしく腰蓑を身につけていて、体付きも自分よりだいぶがっちりとした印象を受ける。
娘の様子はピリピリとしていて一触即発な雰囲気だったが、大己貴命はこういう緊迫した場面に出くわすのはある意味慣れっこだったから、「お茶でもいかがです?」と海の民の男達に座りやすそうな流木の席を勧めた。
異人の娘には睨まれたが「頭領がいらっしゃったんですから、お話くらい聞いて差し上げねばいけませんよ」と諭す。一方、男の方も「怒るのも当たり前だが、話を聞いて欲しい」と言い、腰を下ろすや否や深々と頭を下げた。
「うちの者が申し訳なかった――。いくら頭にきたからといって、女人に手を上げるなど、あってはならぬこと。申し訳ない。」
潔く、すっぱりと謝る男の姿に大己貴命は好感を抱きながら、無言を貫く異人の娘に「と、仰せですよ?」と促す。
「妾も・・・・・・、よくも知りもしないで、悪かったと言ってたも。」
あまりに潔く謝られて居心地が悪いのか、目の前に八嶋士奴美神がいるのに、顔を背けながら大己貴命に言うから、大己貴命は苦笑して「と、仰せです」と付け加える。
そして、沸かしたお湯でお茶を淹れ、八嶋士奴美神とその伴の者に振る舞う。二人ともそれを口にすると美味しそうに「ほう」と一息ついた。
「和多利よ、あれを。」
「承知しました。」
和多利と呼ばれた男はすぐ傍に置いていた箱から、それは見事な紋紗の服と羅の帯で、纏ったらとても涼やかに見えるだろうと思われた。
「月の兎の姫よ。これは和迩どもが奪ったそなたの羽衣だ。お返しするために参った。」
まだ臍を曲げている娘の代わりに、大己貴命が受け取ると、奪うようにして大己貴命から取り上げて抱え込む。
「大事なもののようですね。届けてくださりありがとうございます。」
娘の代わりに大己貴命がお礼をし、場は丸く収まり、八嶋士奴美神は、この一触即発の場を切り盛りする大己貴命に目を向けた。
夕闇の篝火の中で見る彼は、少しくたびれた旅装束で、何やら大きな荷物を運んでいる途中のようだ。
「二人は知り合いなのか?」
「いえ、先程、こちらの方が溺れかけていたのをお助けして、手当てしただけの仲ですよ。」
「ここらでは見ない顔だ。」
「ええ、旅の途中でして。」
「一人旅の割には大荷物のようだが・・・・・・。」
「連れが先に行ってるんです。その分の荷物ですよ。」
大己貴命は苦笑しつつ「下っ端なので荷物持ちなんです」と話した。
その割には誰かに仕えている感じでもなく、物腰も柔らかで、こうして他に施しもできる余裕もある様子に八嶋士奴美神は違和感を持った。
「お主は単なる民草には見えぬ。名は何と言う?」
「大己貴です。今は小さな村の地祇をしています。」
「地祇・・・・・・?」
国津神と言われて、八嶋士奴美神はその割にはそれらしさが欠けらも無いのでキョトンとした。大己貴は「見えないでしょう?」と笑う。
「父神は既になく、本来は末子である私が相続するはずだったんですが、兄達が納得しなくて。相続した村の年貢は殆ど兄達で分配し、お情けで生かしてもらっているんです。」
「お主はそれを良しとしているのか?」
「地祇の力は信仰の多さに左右されますから、本来はよくないのですが、人を《武》で治める気もないのです。」
暗に「兄達のように」と仄めかせば、八嶋士奴美神は「そうか」と納得し、「月の兎の姫」と呼ばれた異人の娘の方は「お主はお人好しだなあ」と評した。
「相手が武で攻めてきた時に、武で守らねば何とする?」
「そうですね。でも、武で攻める必要がないと思わせること、兄達と私の諍いに民草を巻き込ないこと。それ故に自分が侮られるのは致し方ないと私は思っています。」
大己貴命は「私は民草にただ安寧に過ごしてもらいたいですから」と話した。
「薬や医術、それから治水に農作。小さな村も守れぬ地祇に、どうして大きな土地が治められましょう。その知恵もないのに、大きな土地は治められません。」
そう言うと兎姫は肩を竦める。
「では、このまま八上比売の元へ行き、みすみす殺されるのかえ?」
「ああ、そんな話しをしていたんでしたっけ・・・・・・。」
眉を八の字にして、大己貴命が困り顔をすると兎姫は「会ったばかりの妾が言うのもなんだが、なんだか気が抜けるのう」と話して、笑みを漏らした。つられて八嶋士奴美神もくくっと喉を鳴らす。そして、懐から餌木を取り出すと呪を唱えた。
「折角、会った地祇仲間だ、大己貴よ、これを渡しておこう。」
「それは・・・・・・?」
「身代わりの護りだ。三度まではお前を助けてくれる。それ以上は黄泉の国に魂を取られてしまうから気をつけるように。」
手渡されたのは小さな木彫りの海老のような小魚のような形のものだった。丁寧に作られたもののようで、しげしげと見てしまう。
「なんだ、そんなに身代わりの護りが珍しいか?」
「あ、いや、我らの里では赤土を焼いた物が主流なので、このような形は珍しいなあと思いまして。」
「ああ、餌木の方が珍しかったのか。」
八嶋士奴美神が納得している横で兎姫も気になるのか、大己貴命の傍にやって来て物珍しそうに眺めている。
「餌木はな、それでイカやハタが釣るのよ。」
「木で釣れるのですか?」
「上手く作ると騙されるらしい。だからな、この辺りでは身代わりの護りは餌木で作るんだ。自分が喰われることのないようにと願をかけてな。」
八嶋士奴美神がそう話すと、大己貴命は目を輝かせて、「そのような話は初めて聞きました」と嬉しそうにする。そして「他にもお話を伺いたいものです」と話す。
「大己貴よ、兄達に荷物は届けなくて良いのか?」
兎姫にそう言われると、大己貴命はあからさまにしょんぼりとした。
「そうでした、余り遅くなると、兄さん達がまた怒りますね。遅くとも明日の昼には追いつかねば大目玉を貰うでしょう。」
残念そうに話す大己貴命の様子に兎姫はいつの間にか機嫌を直したのか、くすくすと笑った。
「えっと、月の兎の姫? 衣が戻ったなら、着慣れた服にお着替えなさいますか?」
「確かに着替えたいが、ここでは・・・・・・。」
兎姫が言葉を濁せば「さもありなん」と八嶋士奴美神が少し離れた島を指差す。
「ならば、我が邸にお二人を招待しよう。地祇と神使なれば、海霧渡りも適おう。帰りは兄達の元へひとっ飛びだ。」
「では、お言葉に甘えてお邪魔致します。」
大己貴命は相好を崩したが、兎姫は「また、あの地に戻るのか」と嫌な顔をする。
「まだ月光花茶の残りも持っていますよ?」
篝火に照らし出された大己貴命がそう言って、「その身体では動くのも面映ゆいでしょう?」と兎姫を抱えるから、兎姫は思い切り眉を顰めた。
「お主はその神威、もう少し別に使った方が良い――。」
国津神ならではの人たらしの力を、妙なところで発揮する大己貴命に呆れる。四人は和多利の先導にて、八嶋士奴美神の邸へと向かった。




