八嶋士奴美神
須勢理毘売命は春の朧月を眺めていた。
昨日の月影の君の出来事はどこか夢のようで、今夜は琴を鳴らす気も起こらずに惚けたように柔らかな光を眺めていた。
「須勢理、少し良いか――?」
父の声に「はい」と答えれば、その後ろに実兄が控えている姿が見えた。
「兄様?」
「ああ、久しぶりだね。」
八嶋士奴美神が挨拶すると、須勢理は嬉しそうな声で「本当にお久しぶりにございます」と答えた。
「おもう様も、兄様も、こちらにお渡りになるなんて、いかがなさったのです?」
いつもなら自分を母屋の方に呼ぶのに、と話せば、素戔嗚尊は困惑したように「三名狹漏彦がお前に縁談を持ってきてな」と話した。
「兄様が――?」
「ああ、そうだよ。このまま、父上にお任せしていたら、須勢理も花の盛りを過ぎてしまいかねないしね。」
ギロリと素戔嗚尊は八嶋士奴美神を睨んだが、八嶋士奴美神は「父上より強い男を求めるなど、求めるところが多過ぎですよ」と笑って話す。
「それに三界の均衡を保つのであらば、葦原中国に降りた天津神か、元より葦原中国に坐わす国津神から婿がねを選ぶのが一番収まりが良いかと存じます。」
「こう申しているが、須勢理の意見も聞こうと思ってこちらに参ったのだ。」
御簾越しにそう話す二人の話を聞いて、須勢理はふふっと笑うと、几帳の側へと戻り、どうぞ中へと促す。素戔嗚尊と八嶋士奴美神は「では失礼して」と御簾の内に入ってきた。
二人とも几帳近くに胡座を組んで坐すと、須勢理は「父上が私に意見を聞こうだなんて珍しいですね」と話し出す。
「本当のことを言えば、我を越えられぬ者など、我は認めたくはない。しかし、八嶋士奴美神は《将来性を買ってやれ》というのだ。」
拗ねたように話す父に須勢理はくすくすと笑いながら「父上より強い方など、須勢理も存じませぬ」と答える。
「早蕨にも心配しておりましたので、兄様の心配も道理にございましょう。」
「では、やはり葦原中国に降りている天津神か、国津神か・・・・・・。」
すると、すかさず八嶋士奴美神は「前者の場合は、我と同じく葦原中国に居を移さざるを得ないでしょう」と話す。その言葉で素戔嗚尊は「では、国津神から選ぶのが良いだろう」と話した。
「先程の中で国津神はおるか?」
「そうですね、大己貴命が国津神にございます。」
「大己貴か――。聞かぬ名だな?」
八嶋士奴美神は「大器の男ですから、父上も会えば気に入られると思いますよ」と話した。
「その方が将来性を買って判断なさって欲しい方なのですか?」
須勢理がそう話せば、八嶋士奴美神が頷いた。
「須勢理に会わせる前に、我が先に会おう。明日、連れて参れ。」
と八嶋士奴美神に話す。八嶋士奴美神はにっこりとして「承知しました」と答えた。
「というわけで、見極めの上で改めて話す。また後でな。」
「はい、おもうさま。」
そして、素戔嗚尊と八嶋士奴美神が部屋を後にしたのを見届けると、須勢理毘売命は小さくため息を吐いた。
(兄様の誘導で決まったようね――。)
大己貴命。
それがどんなに立派な相手でも、昨日見た月影の君に比べれば、きっと霞んで見えてしまうだろう。
他の人に嫁ぐとしても、月影の君にもう一度会いたいと思うのは、心の迷いなのだろうか。
須勢理毘売命は朧月夜が雲居に隠れかけるのを眺めていた。
◇
それから、一体、どれほど月日が流れたことだろう。八嶋士奴美神は、須勢理毘売命の生まれ変わりが根の堅洲国に戻ったと聞いて、父の素戔嗚尊と対面していた。
「朝も早くに失礼致します。須勢理がこちらに戻ったと伺い、このような時間ではございますが、馳せ参じました。」
素戔嗚尊は表情を崩すことはしなかったが、「ああ、戻ったぞ」と話す。その声色がいつになく嬉しそうで、八嶋士奴美神も「ああ、本当に戻ったのだな」と笑みを漏らした。
「昨夕、我が記憶を一部見せたのがきっかけか、徐々に過去の記憶も取り戻し始めているようだ。」
「左様にございましたか。それは良うございますな。」
素戔嗚尊と同じように八嶋士奴美神にとっても、須勢理毘売命は可愛い妹姫だったから、彼女がこの邸内にいるというだけでいつになくホッとする。
一方で、素戔嗚尊が「ただ、新たな問題があってだな」といつになく沈んだ声に変わったから八嶋士奴美神も気を引き締め直した。
「新たな問題にございますか?」
「ああ、伊邪那美命が埋め込んだのであろう、鱗紋の魔法陣が起動した。」
素戔嗚尊と違って、八嶋士奴美神は「鱗紋の魔法陣」と聞くと素戔嗚尊によくに似た形の良い眉を顰めた。
「須勢理は苦しいだろうに笑ってみせてな。身体に刻まれた鱗紋を確認したわけではないが、伊邪那美命の力が、その身に馴染むまで、最低、二、三日、下手すると一週間は伏せるであろう。」
「次々に問題が起こりますね。」
「全くだ・・・・・・。」
さすがの素戔嗚尊もほんの少しだけ表情を崩し、心配そうな表情になる。八嶋士奴美神は、そんな父親が本当は誰よりも須勢理毘売命を心配しているのを知っていた。
鱗紋と聞けば大抵は破邪の印を思い付くが、父の口振りだと逆の陰の紋であったのだろう。
普通なら破邪の鱗紋を施せば相剋されて破れる内容だが、相手が伊邪那美命だと、拮抗できるのは伊邪那岐命くらいだ。そして、そんな太古の天津神に渡り合えるのは、今の世だと造化三神か、天照大神、月読命くらいだろう。
「これは、一度、頓挫してしまった宴を、須勢理か私が代理で主催し、天照大神か、月読命にお力添え頂くというのはいかがでしょうか?」
八嶋士奴美神がそう話すと、素戔嗚尊は「それであれば月読命であろうな」と答える。
「姉上は高皇産霊神に近過ぎる。」
それに大己貴命のいない今、天照大神の血筋の神々が須勢理を自分のものにしようと騒ぎ立てる可能性もある。
「その点、月読命の方は天津甕星を抑えれば、ひとまずは何とかなろう。」
「ああ、あの騒がしき星神様とは色々あって、今では懇意にしてますので、おそらく大丈夫でございましょう。」
八嶋士奴美神は奇稲田姫に似た柔和な態度で話すと、「では、そちらは須勢理が復調した際に改めて」と話す。素戔嗚尊は「よろしく頼む」というと、八嶋士奴美神に火産霊神と少彦名命の様子も訊ねた。
「お二柱ともお健やかにお過ごしですよ。須勢理が根の堅洲国に戻った話をしたら、火産霊神は素直にお喜びになり、少彦名命は《須勢理は大己貴に愛想をつかせばいいのに》と仰っておいででしたが。」
大己貴命の荒御魂に当てられて、危うく消し飛びそうになった少彦名命は、火産霊神の所に半年以上身を寄せて、ようやく人型を取れるまでに神威を取り戻したらしい。
「大馬鹿者に力を貸す気はさらさらないそうですが、須勢理のためならご尽力下さるそうですよ。」
それが回り回って大己貴命を助ける事になるとしても、ひとまず敵対はしないでくれるらしい。
「それと、父上にはこちらをお持ちしました。」
そう言って袂を探った八嶋士奴美神の手には、奇稲田姫の櫛があった。
「これをどこで?」
「須勢理が淤加美神の邸近くで落としたのを、少彦名命が拾っておいて下さったそうです。」
だが、大己貴命が荒御魂になり、加代子は記憶を無くして接触がはかれず、八嶋士奴美神が受け取ったらしい。
「そうか、無事であったか・・・・・・。」
素戔嗚尊は安堵の表情を浮かべ、湯津爪櫛になった奇稲田姫を懐へと大事そうにしまった。
「お話を聞く限り、須勢理に会うのはまた後日に致します。」
「良いのか・・・・・・?」
「ええ、今日はその櫛を父上にお戻しするのが一番の目的でございましたから。それに今は火産霊神の所に身を寄せておりますから、お呼びとあらば直ぐに参上致します。」
「すまぬな――。」
それから八嶋士奴美神は母屋を後にして、須勢理毘売命がいるはずの東の対屋の見える渡殿へと出た。そして、蔀戸を開けた小笹と視線が合う。小笹は八嶋士奴美神に会釈した。
八嶋士奴美神が手招くと、するすると衣擦れさせながらそばにやって来る。
「ご機嫌麗しゅうございます。」
「ああ、小笹もご機嫌よう。」
柔らかく笑う八嶋士奴美神は母親譲りのえくぼを浮かべて笑う。
「須勢理の具合はどうだい?」
「先程より、熱がございまして。人の身でもないのにと困惑しております。」
「先程、父上より伺って、それには心当たりがある。伊邪那美命の呪に呑まれかけているのだろう。」
「伊邪那美命の・・・・・・。」
小笹はサッと顔色を悪くする。
「それについてはこちらで対策を講じるから、安心するように。目を覚ましたら、心を強く持つように伝えておくれ。」
「承知致しました。」
「それと、お前は大己貴に連絡が付くかい? 須勢理に譲られた式とは言え、生み出したのは大己貴と聞いているから、もしかしてと思っての話なのだが。」
「今は、直接の連絡は難しいです。しかし、姉の凛を介してなら伝えられます。」
小笹がそう応えると、八嶋士奴美神は「上々だ」と答えた。
「凛を間に挟むのは問題ない。月読命に連絡を付けるつもりだと伝えておくれ。須勢理をここに置いているという事は、八方塞がりなはずの黄泉の国から、どうにかして動き出すつもりだろうから。」
大己貴命の思惑を知ったように話す八嶋士奴美神に、小笹は少しばかり首を傾げた。
「私が大己貴を信用していることが不思議かい?」
ふっと笑って八嶋士奴美神が言うと、小笹は「あ、あの、いえ」と慌てて否定する。
「否定しなくていい。それが普通の反応だ。」
初秋の涼やかな風がさわさわと木立を揺らす。八嶋士奴美神は「私はね、今世の彼に会う前から、彼には信を寄せているんだよ」と話した。
「彼を須勢理に紹介したのは私だしね。元々、根は真面目だし、基本、親切な奴だ。だからこそ、私は彼の後ろ盾になっているし、他の誰が敵に回っても、決して彼を敵に回すことはあるまいよ。」
夫婦喧嘩の仲立ちは勘弁だがと笑いつつ、「そろそろお暇するね」と話すと、再び「ご機嫌よう」と挨拶をする。小笹も八嶋士奴美神に挨拶をして見送った。
決して敵に回すことはあるまい――。
大己貴命は出雲の国を興した時、八嶋士奴美神の国にその繁栄の恩恵を与え続けただけでなく、高天原が須勢理毘売命を人質にとり大己貴命自身を攻め滅ぼした際にも、自分たちには類が及ばないようにと最善を尽くしてくれた恩人だ。
彼は混乱した中つ国を纏めあげ、治水を行い、稲作を広めて、国を栄えさせた覇王なのだから、伊邪那美命がその魂を束縛したところで、彼が本気になったなら「黄泉の国を平定」くらいはやってのけそうである。
(詳しくは須勢理に聞いてみないとならぬが・・・・・・。)
大己貴は須勢理に「人の生」を捨てさせた。
それは彼が一番望まなかった事だろうに、この手札を切ったという事は、何か次の手を考えているという事だ。
ほぼ色の倭種という黒い石に埋められた盤面を、生太刀、生弓矢、天詔琴の三種の神器と須勢理を得て、白く塗りつぶした、かつての彼と、そのなし得た国造りを思い返す。
「本当に、大己貴に関わっていると退屈している暇がないな・・・・・・。」
八嶋士奴美神は舞い散る木の葉を媒介に火産霊神の元へ道を繋げると姿を消した。
次回23日0時更新です。。。
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ちょいと早めて22日12時公開致します!




