月影(つきかげ)
加代子が目を覚ますと、その手はしっかりと握り込まれていて、視線を上にずらせば、素戔嗚尊が座ったままで寝息を立てている姿が見えた。
とても、とても長い夢を見ていたように思う。
幸せで、それでいて、悲しい思い出。
須勢理の幼い頃の記憶と感情が抜け切らずに素戔嗚尊を「てて様」と呼べば、素戔嗚尊は重たい瞼を薄らと開けたようだった。
「どうかしたか、須勢理・・・・・・?」
素戔嗚尊も夢うつつなのだろう。幼い子をあやすように優しげな表情で話すから、加代子は幸せな心地になって目を伏せた。
一方、素戔嗚尊はハッとしたのか「目が覚めたのか?」と訊ねてくる。加代子はゆっくりと瞬きをすると「長い、長い夢を見てた」と話した。
「何をどこまで思い出したのだ?」
「須勢理毘売命の幼い頃の記憶を。そして、黄泉の国に迷い込み、かか様が櫛にされて居なくなってしまったところまでです。」
加代子がそう答えれば素戔嗚尊は険しい顔になり、「そうか」とだけ答えて、そっと加代子の頭を撫でてくれた。
「辛い内容まで思い出したのだな。」
辛い――?
ああ、そうか。《私》は、今、傷付いているんだ。
素戔嗚尊に言われて、そう思い至って、加代子はじわりと涙が込み上げてくるのが分かった。
「かか様が目の前で櫛にされて、てて様でも救えない相手で。薄氷の君はあの冥い世界に閉じ込められているのに、私、何も出来なくて・・・・・・。」
須勢理毘売命の哀しみと加代子自身の無力さが混ざって、拭っても、拭っても涙が零れてきた。
そして、それを当時に悲しんでいれば良かったのに、伊邪那美命に何もかもを蓋されて――。
「悲しむ事すら奪われる事が、こんなに哀しい事だなんて思わなかった・・・・・・。」
《須勢理毘売命》では思い出せない記憶でも《加代子》では素戔嗚尊の記憶と、須勢理毘売命の断片的な記憶が繋がり、一部始終を知ってしまった。
加代子がぽろぽろと涙を流すから、素戔嗚尊はそっと袂で拭ってくれる。
「かなり深い記憶まで思い出したようだな。今日はもうこのまま眠り、無理をしないほうがいい。」
自分が《須勢理毘売命》なのか、《加代子》なのかの境界が曖昧になっていく。
素戔嗚尊に甘やかされると、確かに「島崎 加代子」としての記憶があるのに、以前ほどには垣根がなくて、不思議なほど心が凪いでいた。
「お願いがあるの――。」
「ん?」
「目が覚めたら、今の情勢を教えて。」
「情勢?」
「うん、助けなきゃいけない大事な人が、もう一人いるのよ。」
銀糸の髪に南天のような瞳の哀しげな顔が忘れられない。
「淤加美神か――?」
こくりと加代子が頷くと、胸元に小さいながら高等な魔法陣が浮かび上がる。素戔嗚尊がサッと顔色を変えた。
「この魔法陣は・・・・・・。」
「伊邪那美命が目印に付けたものだよ。」
淤加美神の茨や雅の唐草を外しても、この魔法陣は外さなかったらしい。
「これが記憶を封じていたのか?」
「ううん、記憶は名縛りで。だから《加代子》なら《須勢理毘売命》の見られるの。この魔法陣は淤加美神を根の堅洲国に連れていかれないようにするための牽制の紋だよ。」
灼けるような痛みが走り、加代子は一瞬、顔を歪めたが、深呼吸をして呼吸整えると、できるだけ平静を保って素戔嗚尊に話した。
「てて様は、あの時、彼が根の堅洲国に来たいと望んだなら、受け入れていたでしょう? でも、彼がそれを選んでたら、私は根の堅洲国に戻れなかった。」
素戔嗚尊は「本当に深いところまで思い出したのだな」と驚く。
「残念な事に礼儀作法とか、お琴とか、実用的なところは全然思い出せなかったんだけどね。」
加代子がそう言って小さく笑うと素戔嗚尊もくすりと笑い「励むしかないな」と言いながら、握りこんでいた手を名残惜しそうに解いた。
「もう行っちゃうの――?」
心細さに、そう言うと「そういう事は雅信に言いなさい」と笑う。
「目が覚めたら、今の情勢を聞きたいのであろう? 少し状況を整理して置く。」
そして「おやすみ、須勢理」と言いながら、去っていく。
「おやすみなさい――。」
局を静かに出ていく素戔嗚尊の姿を見送ると、加代子は隣の空っぽな空間を眺めてため息を吐いた。
雅がここにいたら――。
そしたら、いっぱい話を聞いてもらったのに。肝心な時にいてくれない雅が憎らしくなる。
加代子は瞼の重みに耐えられずに目を閉じると、ふっと意識が遠くなり、再び深い深い眠りへと落ちていった。
◇
ああ、今度はいつ頃の記憶なのだろう。
加代子が目にした須勢理は、蛹が蝶へと変じるように、少女から妙齢の女人と姿を変えていた。
美しい錦の衣に、艶やかな髪、赤い桜桃のような唇に、内から輝くような白い肌。
この頃の「須勢理毘売命」と言えば、「素戔嗚尊の秘蔵っ子」として、その存在が三界に知れ渡り、年を経るごとに次々と縁談が舞い込んでいた。
とはいえ、そのどれもを素戔嗚尊が「我にさえ勝てぬような軟弱者に娘をやる気はない」と豪語して断っていたわけだが。
乳母の早蕨が「本当に殿には困ったもの」と話している声がする。
「姫様、聞いてくださいよ。殿ったらまたお断りになってしまったようですよ。」
「兄は遠つ国、母は既になく、父一人、娘一人ですもの。でも、おもう様のお眼鏡に適う方など出てくるのかしらね。」
須勢理がくすくす笑って言うと、早蕨は「笑い事じゃございませんよ、姫君」と苦言を呈する。
あの日以来、五十猛神ともめっきりと遊ばなくなり、和琴を友として過ごしてきて、早蕨は「ようやく大人びられた」と喜んだ一方で、この十年ほどで素戔嗚尊の過保護は比例して増し、自宅の庭にすら自由に出られぬ日々に変わっている。
「殿よりお強い方なんて、どんな方を想定していらっしゃるのやら・・・・・・。」
遠い目をする早蕨の様子に、須勢理も「本当にね」とくすくすと笑った。
「それで、こたびはどなたのお申し出をお断りになったのです?」
「相当たる方々ばかりですよ。」
天照大神の次男である天穂日命、月読命と交友を持つと言われる天津甕星、大海神が長男の穂高見命。しかし、いずれも気に食わぬと、素戔嗚尊が断ったらしい。
「本当に、相当たる方々ね。」
高天原の三大勢力の天照大神、月読命、大海神のいずれかに縁付けば、根の堅洲国の地盤が強化される一方で、三大勢力のバランスが崩れるのは必至だ。かといって、黄泉の国とは繋がれば高天原の三大勢力が結託して襲ってくるリスクもある。
そう考えると自分の夫選びは慎重にならざるを得ないとは分かっている。
分かってはいるのだが――。
父と母の運命的な出会いの話を早蕨たちに聞かされている身としては、自分にもそういう相手がこの世界のどこかにいるのではないかと思えてきて、まだ色々文句を言っている早蕨をよそに須勢理は庭を眺めた。
(おもう様にも、思うところがあるのだろうけれど・・・・・・。)
いっそ誰か、素戔嗚尊を出し抜いて、自分を攫いに来てくれないだろうか。
啓蟄の候、寒さの続いた庭は春の訪れに目を覚まし始めている。ネコヤナギの花穂は膨らみ、木蓮やこぶしももう少しで花開くであろう。須勢理はそれらを憂い顔で眺めていた。
「姫様? 聞いていらっしゃいますか?」
「聞いているわよ。ご立派な旦那様に釣り合うように、花嫁修行をしておけと言うのでしょう?」
「聞いていらっしゃるなら良いのですが。」
何遍も何遍も言われていれば、聞いていなくても分かるというものだ。やがて早蕨は「和琴もよろしいですが、お裁縫の練習も忘れずに」と去っていく。
須勢理は「はいはい」と答えながらも、早蕨の姿が見えなくなるのを確認すると脇に置いてあった和琴を引き寄せた。
(一、二曲くらいは良いわよね――。)
そう思いながら、そろりと爪弾き出す。しかし、一度に奏で始めると、止まらなくなるのもいつもの事だった。
琴の音は春風にさわさわと鳴る葉擦れの音を伴奏に響き、青みがかった夕闇の中、蛍めいた魂の欠片の光を明滅させる。
須勢理はその美しい景色を見ると、少し手を止めて簀子へと膝行り出て、再び和琴を奏で始めた。
僅かに薄い靄が掛かっているのか、月は春に似つかわしい朧月夜の風情でそれもまた美しい。
だから、庭先のすぐ近くで曲を聞いている人影に気がついた時、まるで「夜」が人の姿を借りて、そこに立っているのかとさえ思えた。
薄闇色と同じ色の直衣に、白い朧月夜と同じ色の僅かに光沢ある袴を身に付けた男は目を伏せて静かに自分の演奏を聴き入っている様子だった。
自然、須勢理の手が止まり、調べが途中で止まると、男はそっとその伏せていた目を開く。
そして、彼と目が合うと、須勢理毘売命はまるで雷にでも打たれたかのような衝撃を、その胸に受けた。
ゆっくりと開かれた目は漆黒の黒曜石のようで、目が離せなくなる。
本来なら扇でも広げて顔を隠さねばならぬのに、そうしたことも出来なくて、ただただ呆然とした。
「貴方は、誰・・・・・・?」
須勢理が尋ねれば、男はにっこりと微笑み、お好きにお呼びくださいと熱の籠った目で見つめられる。
「では、月影の君。貴方はどうしてこちらに?」
「琴姫の琴の音に誘われて、うっかり根の堅洲国に落ちてしまったのですよ。」
くすくすと笑う顔は異母兄の五十猛神とは違い匂いやかで魅力的だ。
「貴女のような方がこの根の堅洲国にいらっしゃるとは思いませんでした。足を踏み外して落ちてきた哀れな月に、今夜、一夜、軒先をお貸し頂けませぬか?」
須勢理はさすがに躊躇して黙り込んだ。
流されてはダメだ――。
そう思いながらも漆黒の瞳から目がそらせなくて困惑していると、勾欄の隙間から腕を引かれ、そのまま引き寄せられるようにして唇で唇を塞がれた。
抗議をしようと思っても、腕は捕らえられ、口内を探られていく。
須勢理は甘く吐息を漏らし、くったりと身体から力が抜けてしまった。
「可愛いヒトですね。」
耳元でそう言われると、背筋がぞくりとして恥ずかしくなる。
初対面なのに――。
須勢理は誰よりも、この謎の「月影の君」が気になって仕方なかった。そして精一杯の皮肉を込めて「一夜しか借りぬ軒端なら、どうぞこのまま捨ておいてくださいませ」と言う。その言葉に男は嬉しそうに微笑んだ。
「それでは一夜でなく、続けて現れてもよろしいのですか?」
「春の夜の月は朧気で確かなものではありますまい。」
「良いでしょう。そのようにつれない事を仰せな貴女の元へ必ずや通ってみせましょう。」
そう言うと、もう一度、触れるだけの口付けをして姿を消した。
残された須勢理はただ茫然として闇に消える月影の君を見送る。
月影は行方もしらず人誘う――。
ほのかな朧月に照らされている須勢理の姿を見つけて、早蕨の「ひーめーさーまーッ!!」と非難する声に我に返る。
「こんなに端近にいらして、誰かに見られていたらどうするんですかッ!!」
いつもならぶつくさ文句を言うのに、須勢理は顔をほんのり赤くして、急ぎ部屋の中へと消えていった。




