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胡蝶の夢  作者: みなきら
胡蝶の夢、我となれるか
32/34

誰か烏の雌雄を知らんや

 空の色がだんだんと青みがかり、星の光は白白とした光の中へ消えていく。


 八咫烏の紫苑は鏡の世界の中を駆け抜けていた。左右反転していても、眼下には街の灯が輝き、車の赤いテールランプが川のように流れて見えている。


(ほんの少し前まで、星は天にあったはずなのに・・・・・・。)


 今や光の海は地に溢れており、人は闇を怖がらなくなったと聞く。


 システマティックに構築された葦原中国は、今や八百万の神の気配も薄れ、高天原どころか葦原中国の民自身でもこの地を治めきれていないように見えた。


 ひとまず(ねぐら)のある熊野神社を目指して空を翔る。


 東京タワーから飛び立ち、高く天に登れば、龍穴としても名高い皇居周辺は心の太柱の光が見えた。しかし、その光は昔のそれとは違って弱い物に変わってきている。


 このままだとこの国も滅びるのだろう――。


 出雲から(やまと)、倭から飛鳥、飛鳥から京、そこから東へ東へと変遷し、今は心の太柱は東京にあるが、江戸の頃より移ってきた心の太柱は、また別のところに道を開かんとしているのかもしれない。


 そうなれば、また渾沌とした世が始まる――。


 それは託宣でも何でもなく、八咫烏の経験則であった。この土地の者はもはや大己貴命の力の恐ろしさを忘れている。


 現に神田明神より高い東京タワーに天照大神の社が構えられているし、スカイツリーに高皇産霊神や天照大神を祀らなかったのは殊勝な心掛けだとは思うが、この状態を自分の主が許しているのだろうかと心配になる。


 江戸の町を作った頃より敷かれた鎮守の陣は今も確かに敷かれているものの、在りし日に比べればかなり綻びが出てきていて、平安末期の頃のように辻々に悪鬼の類が住み着き、人心を惑わし始めている。


 しかも、晴明のような《神々と人とを繋ぐ媒介者》も少なくなった今となっては、綻びは広がるばかりだ。


 紫苑は自らの部屋にある姿見から現世へと出るとリボンを結ぶ。自分の髪に同じリボンが結ばれているのを見て、思わず笑みが漏れた。神の御使いは様々いるが、自分を選んでくれたことが嬉しく誇らしく思う。と、留守居にしているはずの晴明の常春の邸から琴の音が聞こえてきたのに気が付き鏡を置いた。


(誰か戻ってきた――?)


 しかし、その琴の音はよく聞く晴明のものでも、博雅のものでもないから、気になって弾き手の元へと急いだ。


「紫苑、そう急ぐものではないよ。」


 声に驚き振り返れば、常春の景色を眺めている晴明の姿がある。晴明はいつになく疲れた顔をしていた。


「どうした? いつになく弱ってるではないか。」

「ええ、少しばかり、思いがけぬ事態に巻き込まれてね。」


 朝日に透け、桜の花弁がひらひらと舞い、風に琴の音と共に風に乗る。顔色は芳しくないものの、晴明は心穏やかそうに見えた。


「十二神将を従えているお主が情けない。」


 紫苑に言われると晴明は力なく「そうですね」と苦笑いをした。


「この琴の音は?」

「ああ。きっと姫様の琴の音だ。」

「博雅ではないのか?」


 細かく音が震え、哀しくも優しい祈りが加わった音色が伝わってくる。


「博雅はもっと単純明快な男だよ? このように心が千々に乱れ、引き裂かれるような音は出せぬだろうよ。」

「そう言うものか?」

「琴は《言》に通じ、本来、神威を増幅するもの。それゆえ、弾き手の写し鏡でもある。ただ、人魑魅であられるはずなのに、宇多の法師でこの空間を維持できるほどのお力をお持ちとは見抜けませんでした。」


 加代子の琴による言祝ぎは、常春の邸を綻ばせることなく、長年この場に暮らしている紫苑に違和感を感じさせぬほどに保っている。


 晴明は紫苑に「姫様はご覧になりたくなってきたのではないですか?」と訊ねた。


「そ、それは気になるが・・・・・・。」

「では、ついでに代わりに見てきてくださいませんか?」


 紫苑は「確かにもう少し休んだ方が良さそうだが」と言いながら、晴明の思惑に気が付くとムッとした様子で「素直に目を貸してくれと言えばいいのに」と応じた。


 ◇


 視界を晴明に貸した状態で先に進む。


 琴の音が徐々に大きくなるに連れて、(さざなみ)のように音が押し寄せ、紫苑は心が洗われていく心地になった。


 御簾の傍には滂沱と涙している博雅の姿がある。一曲が終わると、紫苑もほうと息を吐いて、自分が半ば息を止めて聞き入っていたのだと気がついた。


「思い出したのは、この曲ともう一曲。」


 少彦名命が「もう一曲は唐王の時か」と訊ねる。加代子が頷くと「ならば、そちらは止めておけ。博雅が持つまいよ」と言う。


 少彦名命は桜色や薄紫色の花々に飾られた庭を眺めた。


「言われた通り、琴を弾いたけど、これだけで本当にいいの?」


 加代子が訊ねれば少彦名命は一つゆっくりと頷き「ああ、十分だ」と答える。


「先程、弾いた曲、わざとか?」

「ううん、あれは須勢理だった私が弾いていたから。」


 すると、少彦名命は「そうか」と言いながら、頭をカリカリと掻く。


「さっきの曲はな、本来、龍神祝詞と共に奉納する曲だ。」

「龍神祝詞って、龍たる魂に真の六根一筋に御仕え申す云々のだっけ? 大物主神から似たような話を聞いたよ。」


 自分が望めば世界は火や水で浄化され、自分が望めば世界は安寧と栄華を極める。それは櫛稲田姫の一族の姫達が代々受け継いできた事であり、今度は「須勢理」の役目だとも認識した。


「雅を《黄泉から助け出す》だけなら、雅の言うように伊邪那美命の言祝ぎをすればいいのかもしれない。でも、それだけじゃ、雅の《魂》までは救われない。」


 大己貴命としての過去と、分霊された大物主神との対話でそれを痛いくらいに感じた。


「どうしたら救えるか解決策も完全には分かっていないし、どの選択が良い選択なのかも分かってない。」


 それでも、と加代子は言う。


「それでも、私は雅を助けたいの。お願い、力を、私に力を貸してください・・・・・・。」


 深く頭を垂れて懇願する加代子の姿に、その場にいた周りの者が承諾していく中、紫苑は泣き顔を見られたくなくて顔を隠した。


(ああ、この方は変わらないのだ――。)


 今も昔もここまで滝宮殿を思うてくれる人は他にはいない。滝宮殿が危ういと知れば、彼女は何もかもを投げ打って護ろうとする。


 黄泉で大己貴命から小箱を受け取った際は、他の女に渡してやるものかと思ったのに、加代子が彼のために懇願する姿に紫苑はそんな自分が恥ずかしくなった。


 ふわりと頭を撫でられて、見上げれば晴明がいる。


(ああ、そうだった、視界を貸していたのだった・・・・・・。)


 そう思い至ったが、それについては晴明は何も言わず、覚束無い足取りで歩みを進めると、どっかりと博雅の隣に腰を下ろした。


「晴明、起きたのかッ?!」

「ああ、琴姫の琴の音には幸わうための呪が込められているからな。力を分けていただいた。」

「起きるなり呪の話なのか・・・・・・?」

「ああ、呪の話だ。そこに坐す少彦名命に至っては託宣の神だ。呪には長けたお方だぞ?」


 晴明がそう話すと、博雅は「何?」と少彦名命の事を見る。柳舟と歓談中だった少彦名命は、博雅の視線を受けるとあからさまに嫌な顔をした。


「お主、今、童子の姿の癖にとか思うているであろう?」

「え、あ、いえ!?」


 明らかに挙動不審になる博雅に少彦名命はムッとした表情をする。


「お主はすぐに見た目に騙される純な男とは知っているが、晴明といるならそろそろ改めよ。お主には叱る気にもならぬ。」

「良かったですね、お咎め無しのようですよ?」

「晴明、お主にはあるぞ。目覚めたのであれば覚悟しておくように。」

「おや、薮蛇でしたね・・・・・・。」


 くすくすと笑う晴明に、柳舟と小笹は警戒心を露わにする。一方、加代子は違っていた。


「ねえ、晴明。雅を助け出す方法、貴方なら知っているんじゃない?」


 その言葉に晴明は眉間に皺を寄せる。


「須勢理毘売命よ、それはこの天地人を壊されるおつもりという事ですか?」

「まさか!? この天地人を壊すつもりなどないよ。そんなことは望まない!!」


 自分の願いはただ一つ、龍たる魂が安寧にある事だけだ。


「ですが、大己貴命である雅信殿を黄泉の国から救うのは、それくらいの返しがあってもおかしくないことですよ?」

「でも・・・・・・、私は、雅も、大物主神も、今のままで放っておけないよッ!」


 そう言うと「今の私に圧倒的に足りないのは《知識》。だから、晴明が彼を救う方法を知っているなら、その方法を教えて」と話す。晴明はやや考え込み、そして、深い溜息を吐いた。


「私は大己貴命の魂をひとつに戻す事は賛成致しかねます。しかし、貴女が《知識》を求めるなら、それを与えることは可能です。」

「じゃあ・・・・・・。」

「学ばれた結果、私が言っている事がいかに難しい事が分かるでしょう。」


 荒御魂を和御魂に導くなど、日を西から昇らせる様なものだという。その話を聞きながら、紫苑が「確かに滝宮殿の魂はこの三界にあるべき魂ではないかもしれない。あの御魂は幽世にこそ相応しく心の太柱を支える御魂だ」と話す。


「しかし、それが三界に分割して解き放たれている今、心の太柱は弱り、徐々に支えきれなくなってきており、この国が滅びかけている事も事実ではないか?」


 災害によって消え去るのか、少子高齢化によって消え去るのか、外敵によって消え去るのか、その辺りは定かではない。それでも《滅びの道》を辿っている事だけは事実だ。それを聞くと少彦名命も頷き「確かにそうだな」と言葉を続けた。


「だが、俺は最終的には大己貴の分かれてしまった魂をひとつに戻すのが良いであろう、と思う。大己貴が安寧に過ごすのを望むなら、高天原の思い通りで悔しいが、幽世に居を構えるのが一番理にかなっている。」

「幽世に? でも、大物主神があそこは自我が保てなくなる世界だと言ってたけど・・・・・・。」

「それは《普通の魂なら》そうなるな。だが、今ですら規格外なのに大己貴を元の姿に戻すなら、何の問題もないだろう。それに彼奴の魂を三界に置いておけば必ずまた争いごとになるだろう。」


 加代子は少彦名命の言葉に難しい表情になる。柳舟はそんな加代子の様子を見て「誰が烏の雌雄を知らんや」と呟いた。


「姫様、今は大己貴の魂を戻す事の善悪より、大己貴と伊邪那美命を言祝ぐのが先決ではありませんか? 先程の曲や阿智目などを天詔琴で爪弾けば、きっと伊邪那美命も言祝がれましょう。」

「そうですね、ひとつずつなさいませ。」


 小笹に促され加代子も頷く。加代子は周りを見回すと「それじゃあ、根の堅洲国に戻らきゃだね」と返した。


 しかし、紫苑が「その前に」と声を掛ける。


「滝宮殿からお届けものです。」

「お届けもの?」

「はい。」


 加代子は手の平大の小箱を受け取る。ご丁寧に木箱と陶磁器と二重箱になっていた。


 木箱の蓋を開けたところに手帳でも破ったのかメモ用紙が四つ折りにされて入っている。周りに見守れながら加代子がメモを見れば「遅くなりましたが、結婚指輪です」と書かれている。


 加代子は少しムッとした表情になると、メモ用紙を折り畳み大事そうに懐にしまい、小箱の蓋をもう一度締めるとそっと小笹の前にずらした。


「姫様・・・・・・?」

「それ、雅が戻るまで預かっておいて。」


 小笹と紫苑の「え?!」という声が重なる。


「何か不備がございましたでしょうか?」

「んーん、雅のデリカシーの問題なだけ。」

「デリカシーにございますか?」

「うん。もし、また連絡を取ることがあったら、ついでに受け取ったって事だけ伝えて。」


 柳舟は何か思い当たる節があったのか「小笹、姫様の言う通りに」と苦笑した。

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