須勢理毘売命
頬を優しく触られる感触がする。でも、まだ眠たくて、目を開けたくなくて唸る。それでも「須勢理、そろそろ起きなさい」と低く、優しい声が聞こえると、《私》は目を覚ました。
ゆらゆらと揺れる世界が定まると、目の前に素戔嗚尊の顔があって「もう夜ぞ?」と言う。眠い目を擦ってあたりを見回せば、なるほど、確かに夜で蛍が飛び交うように魂の火が揺れていた。
「てて様、まだ眠い・・・・・・。」
「全く困った娘だな。」
素戔嗚尊が立ち上がるのと同時に、視線が高くなる。「わあ」と言って喜べば「また重たくなったな」と苦笑される。
「あ、かか様だ! かか様!」
渡殿を長い髪をした女性が渡ってくる。それはどことなく《私》に似ていて、物腰の柔らかな雰囲気の女性だった。
「須勢理、暴れるでない。奇稲田よ、このお転婆娘は何とかならぬのか?」
「それは殿に暴れん坊になるなと言うのと同じくらいに難しゅうお話でございますよ。」
ふふっと笑みを零す奇稲田姫に素戔嗚尊は「このようなところ、親譲りにならなくても良いのに」と呟き、グリグリと素戔嗚尊は《私》の頭を撫でてくる。
何故だろう、《私》の意思とは関わらずに、《私》は「須勢理毘売命」になっている。そして、奇稲田姫に抱っこされて甘えれば、荷葉の薫物の香りがしてその心地良さにずっとこのままで居たくなる。
「須勢理はね、かか様も、てて様も大好きなのよ?」
そう言えば二人が喜ぶのを分かっていたから伝えてみると、かか様は「そう」と言い、てて様は照れくさそうに笑った。
「八島士奴美の時も生まれた頃は愛らしいと思うたが、姫は殊の外違うな。奇稲田の生き写しだからかもしれぬが、こうして甘えられると可愛くて困る。」
「まあ、我が背の君が取られてしまいましたわね。」
ころころと鈴が鳴るように笑う奇稲田姫に、素戔嗚尊は「そんな事はない、奇稲田の事も好いているぞ」と仲睦まじい様子で、見ている《私》の方が気恥しくなる。でも、これが素戔嗚尊にとってのかけがえのない日々で愛おしい日だったのだなとは心痛いほどに伝わってきた。
抱っこしたり、おんぶしたり。父の膝に乗って絵巻物を読んでもらったり、母に教えて貰って琴を弾いたり。
加代子の時の思い出と混じって、涙が込み上げてくる。
「あら、須勢理、どうしたの?」
「琴を弾いていたら、なぜだか涙が溢れてきてしまって・・・・・・。」
「天詔琴に共鳴したのね。」
「共鳴――?」
髪の毛を梳きながら母にあやされると、だんだんと胸苦しいのが治まっていく。
「ええ、上手に音楽を奏でられた時や、運命のヒトに会うとね、魂は震えるのよ。」
「かか様は、てて様に会った時に震えた?」
「ええ、とってもね。」
素戔嗚尊の記憶を見る中で《私》は「須勢理毘売命」になっていく。いや、あるいはこれは自分の魂が持っている記憶なのかもしれない。断片的に繋がって、途切れて、また、繋がって、途切れてを繰り返しながら、だんだんと《私》は「須勢理毘売命」そのものとなった。
「運命の人にいつか会えるかな――?」
根の堅洲国で一番の大恋愛の末に一緒になった父と母に囲まれて、須勢理毘売命はすくすく育ち、七、八つになる頃には素戔嗚尊の秘蔵っ子として知られるようになっていた。
自分と同腹の歳の離れた兄は既に別に居を構え、同じ邸内の別の対の屋には、母に会う前に結婚したという二人の妻の所にそれぞれ兄や姉達がいた。一番面倒を見てくれていたのは次男の五十猛神という異母兄だった。
「どちらへ行かれるのです、姫様?」
ギクリとして後ろを振り返れば、乳母の早蕨の姿がある。
「兄様が遊ぼうと仰ったので・・・・・・。」
「その兄様はもう齢九つも間近。男子と女子では体力が違いますし、ましてや五十猛神は異母兄にございます。そのように一緒に遊ぶ方ではありますまい。」
「でも・・・・・・。」
と、草むらから細い少年の腕がにゅっと現れて、袖を引かれると五十猛神が小さく「走れ」という。須勢理毘売命は五十猛神の後ろを追い掛けて走り出した。
「お待ちくださいッ!」
遠くに早蕨の声を聞きながら、細長姿のまま、庭の奥へ奥へと進む。
背丈ほどもある草むらの間を縫うようにして進み、ぐんぐんと進んでいく。やがて、
「ここまで来れば問題なかろう。」
はあはあと息をし、二人で顔を見合わせれば、先程の早蕨の呆気に取られた表情が面白くて二人で笑った。
「大屋津姫命も、須勢理毘売命と遊びたがっているというのに、お主の乳母はうるさいのう。」
その言葉に須勢理は早蕨よりも怒るであろう父のことを思い浮かべた。
「どうしよう。帰ったら、てて様に叱られる。」
「てて様が? 何故?」
「七、八つにもなってお転婆が過ぎると叱られてしまうわ。」
あれだけばっちり早蕨に見られたのだ、今頃、眉間に皺を寄せて口をへの字にしているのに違いない。すると、五十猛神は「俺はそんな風に怒ってもらった事がないぞ」と膨れる。
「まあ、後で一緒に怒られてやるからさ。この奥に面白そうな所を見つけたんだ! 行こう!」
「え・・・・・・、でも、森の中はあまり奥に行くと異界への境になっているからって、かか様が・・・・・・。」
「平気だよ! ちょっとした洞穴だもの。この間、大屋津姫命と行った時は抜けた先に白い花畑があって、とても綺麗だったぞ。」
そして、「奇稲田姫に持って帰ろう」と言われると須勢理毘売命も心が傾いた。
五十猛神について行くと、確かに洞穴がある。
「この先だ。ついておいでよ。」
そうして、洞穴に入っていくから、須勢理毘売命も気を付けて中へと進む。しかし、途中で目の前にいたはずの五十猛神を見失ったことに気がついたのは、青火の光るぽっかりと広がった空間に出た時だった。
「五十猛?」
呼び掛けても声が反響するだけで、誰もいない。いや、声を立てた事で辺りがざわっと凍てつくような空気に変わり、須勢理毘売命は立ち竦んだ。
(も、戻らなきゃ・・・・・・。)
そう思うのに身体が恐怖で動かない。須勢理はカタカタと震えると後退りを始めた。
「迷子かい? そっちはおたあ様のところだから、こっちにおいで。」
不意に同じ頃合いの子供の声が聞こえてきて、ほっとして向かうと、そこには水干姿の男子が立っていた。
「こっち。あれ以上、前に進まなかったのは賢明な判断だったね。おたあ様は怖い方だから。」
そして、ついて歩いていけば、地下水脈があるのか川の音がして、その近くにやはり青火の灯る邸があった。
「我が邸へようこそ。小さき迷い姫。君の名前は?」
「須勢理・・・・・・。」
それを聞くと水干姿の男子は「では君が素戔嗚尊の秘蔵っ子か」と言った。
「あなたは?」
「亨醢の君、淤加美神、貴船など色々呼び名はあるけれど、高龗と呼ばれる事が多い。」
「高龗・・・・・・?」
「ああ、君とは伯父というか、従兄かな。」
「従兄がこんな所に住んでるなんて知らなかった・・・・・・。」
「まあ、ここらはおたあ様の力が強いからね。奇稲田姫の事を考えれば、素戔嗚尊がここを訪れるのを避けるのは当然だ。」
黄泉の国に足を踏み入れれば、戻るのは至難の業。ましてや、母たる伊邪那美命に魅入られたなら、須勢理毘売命は黄泉竈食させられて根の堅洲国に戻れなくなるだろう。
淤加美神は須勢理の姿を端から見えないように几帳を配すると、須勢理と少し距離の離れた畳の置かれたところで胡座をかいた。
「ここって、どこなの?」
「ここは《黄泉の国》だ。だから、帰りたければ迎えが来るまで、振り返ってはならない。また、水も食べ物も口にしてはならないよ。」
その話を聞いて、須勢理は目を丸くし、そして頭を抱えた。
「《黄泉の国》なんて、てて様に大目玉食らうわ。かか様にお花くらいじゃ許してくれない・・・・・・。」
「お花?」
「うん、五十猛が洞穴を過ぎた先にお花畑があるからって言われてついて入ったのに。」
「ああ、それは恐らく君の父上がこちらに迷い込まないように、ほかの空間と繋いでおいたのだろうね。」
それが何かの拍子に解けて、落ちてきてしまったのだろうと淤加美神が言う。
「おたあ様に見つからぬ内に戻せるように、何とかしてみよう。」
「ありがとう。」
そうは言いつつも、月も日も、木も花もない殺風景な庭の邸で須勢理は首を傾げた。
「ここは、寂しいところね。」
「そうか?」
「うん、お庭に何も無いもの。」
「須勢理のところは庭に何かあるのか?」
「もちろんあるよ。木も花も。あと、お空にお日様、お月様、お星様。てて様が伯母様と伯父様と喧嘩しちゃったのもあって、中つ国の光のお零れしか見せてあげられないと仰っていたけど。」
淤加美神は須勢理毘売命が「それでも私が生まれた時に伯母様と伯父様からのお祝いとして根の堅洲国でも見せてくださるようにして下さったんですって」と自分の姿を前にしても屈託なく笑うから目を細めた。
「お主は我が怖くはないのか?」
「いいえ、なぜ怖いの?」
「我ら、黄泉の国の者は異形の姿をしておる。」
銀の髪に、赤い瞳、鋭い爪と牙。大抵のものはそれに畏れをなして離れていくのに、須勢理は本当になぜ畏れるのか分からないという顔をしている。
「高龗の髪は銀糸みたいに綺麗だし、その瞳も南天の実のようで、美しいと思うよ。」
「美しい――?」
須勢理は頷くと「ええ、冬の日の薄氷のよう」と例える。
「今までの名前が怖い名前なら、私は薄氷の君と呼ぶよ。」
春の穏やかな陽だまりのような須勢理の笑みに淤加美神はふっと笑みを零す。須勢理は「ああ、そうやって笑った方がいいよ」と話した。
「お主は風変わりな娘だな――。物怖じせぬし、この常闇の国にすら春を呼ぶつもりだろうか?」
淤加美神は立ち上がると、愛しげに須勢理の髪を撫で、ぐっと須勢理の肩を引き寄せた。須勢理はバランスを崩して、淤加美神の腕の中に収まる。
淤加美神が髪を一掬いして「いっそ我が佐保姫になってくれればいいのに」と話すと、須勢理は驚いて「そのようなつもりではないの」と言葉を濁した。
「分かっている――。」
惹かれているというだけで、この常闇の国に須勢理を留めることは出来ない。
「脅したり怖がらせたりするつもりはないし、嫌なら逃げて構わない。」
ただ、このひと時だけはこうしていたい――。
一方、須勢理は男の子に気を許しすぎてしまった事に焦っていた。あまり歳の頃が変わらない淤加美神の姿に油断していたものの、腕の力は想像以上にきつく、言葉とは裏腹に逃げられるものではなかった。
まるで薄氷の上に立たされたように――。
淤加美神の唇が首筋を這うと、心の臓が凍りつくような心地がする。須勢理は急に淤加美神が怖くなった。
「高龗、そこまでになさい。」
その声に高龗が顔を上げると、綺麗な女の人が庭先に立っていた。
「おたあ様――。」
「その娘は、黄泉竈食をしておらぬ異邦人であろう?」
深い底なし沼のような冥い瞳に見つめられると、須勢理は息が出来なくなる。息苦しくて、喉を押え眉を顰めた須勢理を見て、淤加美神は血相を変えた。
「おたあ様、この娘は迷い子に過ぎませぬ。まだ死しておらぬのですから、どうぞご慈悲を――。」
庇から飛び降りるようにして、伊邪那美命の前に行き跪き頭を垂れる。しかし、伊邪那美命はその姿を見下ろしたまま、冷たい声色で淤加美神を諭した。
「高龗よ、なぜその娘の慈悲を希う? お前が気に入っていたならば、なおのこと、黄泉竈食させて囚われの者とすれば良いでしょう?」
しかし、淤加美神は駄々を捏ねるように伊邪那美命の裾に縋り付き、首を横に振る。
「いいえ、おたあ様。我は左様な事は望みませぬ。」
自分の事を「薄氷の君」と呼んでくれると言った須勢理を害したいわけではない。苦しげに身体を折り、呻いている須勢理をすぐにでも開放して欲しい。
「高龗は、亨醢の君の名を冠しているのに、そういう甘いところがあるわね。私の水火の果てに生まれたとは思えぬほどに。」
伊邪那美命が力を緩めると須勢理は漸く息が出来るようになって咳き込み、そのまましばらくは伏せったままだった。
「あの娘の身柄は私が預かります。他の黄泉神とも協議の上、判断しましょう。」
そして、意識が朦朧とする須勢理は常闇の御門へとその身柄を移されていった。




