疾きこと風の如し
秋風が吹く。
上空の雲の流れは早く、まるで野分の前のように、密度の濃い湿った空気が吹き付けてくる。
この常秋の世界で、今まで一度も野分めいたことは無かったから、博雅はただ驚いていたままだった。
「これは一体・・・・・・。」
晴明が加代子に龍仙の珠を宛がい、加代子がほの青く光った時から、既に一刻以上、日は斜めに傾きはじめていた。
いつもなら、この時間は博雅の好きな夕暮れが見えるはずなのに、風は荒れ、空が掻き曇る様子に、晴明が作り上げた世界が崩れるような不安に襲われる。
その晴明はと言えば、先程からぶつぶつと真言を唱えていた。
眠りに落ちた加代子は龍仙の珠を宛てがわれる合間に、晴明の腕の中で何度か苦しげな表情をしていた。しかし、晴明によればそれは彼女の忘れてしまった過去を見せている過ぎないと言っていた。
訳知り顔の水干姿の男子は「ならば、仕方あるまい」と目を伏せたままじっと待ち、その言葉に渋々従ったという態で鋭い目付きの男は晴明を睨みつけたまま座り込み、女房殿も顔には出さないもののピリピリとした雰囲気だったから、この庵の主だと言うのに博雅は酷く居心地が悪かった。
しかし、それも半刻ほど前に様子が代わり、加代子の表情が穏やかになったのとは逆に、晴明の表情が厳しくなった。
晴明が口にした真言の意味はさっぱりだったが、不思議と一番年若く見える槐が「何かが来る」と呟き、険しい表情で外を睨んだ。
博雅は「何かとは何ぞ」と訊ねたかったが、とてもそう言い出す事の出来る雰囲気ではなくて押し黙る。
そうこうしている合間に柳舟は、警戒心を露に、どこから生み出したのか、槍を手にしていて庭へ降りていった。
これもまた常ならば起こらないことだが、あたりは夕霧が立ち込めていき、みるみると視界が悪くなっていく。
遠くの木々はシルエットになり、ほかは夕暮色に染まっていく。博雅はその幻想的な景色に見蕩れた。
そして、その夕霧の中から現れた人影の正体に、少彦名命と博雅は思わず息を呑んだ。
「大己貴命――?」
「雅信――?」
ほぼ同時にそれぞれが訊ねる。
夕霧と共に現れた白い神気と薄紫の雷を纏った男は、荒御魂ではなかった頃の少彦名命の知っている《大己貴命》だった。
「何故――? お主、荒御魂と化したのではなかったのか?」
少彦名命が訊ねると、目の前の大己貴命は「ええ、そうですよ」と答える。
「しかし、私は彼とはまた別のもの。貴方が常世に送られし時、大己貴命より出づるものです。」
「大己貴命より出づるもの?」
「ええ、この身は大己貴命が影。今は過去に迷いし蝶を一頭返しに来たのです。」
そして、ふわりと大物主が手を伸ばせは、仄かに輝く瑠璃色の蝶羽が加代子の元へ飛んでいき消えた。
その様子に博雅が目を丸くしていると、博雅のよく知る笑みで雅信が「兄者」と呼び掛けてくる。博雅は半分呆けた状態で「おう」と返事をした。
「兄者、琴子のことを頼みまする。」
それだけ告げて、秋の夕霧の中へ再び消える。少彦名命と博雅は狐に摘まれたような顔をして立ち尽くした。
「行ったか・・・・・・?」
大物主がいなくなり、徐々に夕霧が晴れてくると、晴明はそう一言呟き、その場にどさりと倒れた。
「せ、晴明ッ?!」
常秋の世界がゆらりと揺れ、ところどころが綻んでいく。
槐の力を使って少彦名命がそれを補うように邸と常秋の空間に力を通すと、晴明は意識を失ったのか、思ったよりもすんなりと少彦名命としての気が通った。
あわあわとする博雅を横目に小笹は落ち着いた様子で脈を測り「気を失のうてるだけにございます」と話す。
一方、その騒ぎの合間に目を覚ましたのか、加代子がゆっくりと瞬きをした。
「ああ、姫様、気が付かれましたか?」
「小笹・・・・・・?」
「はい、小笹にございますよ。」
まだどこか夢うつつの加代子に小笹が返事をすると、加代子は「良かった」と安堵する。
そして、むくりと起き上がれば、槍を持ったまま庭から上がってきた柳舟と、呆れ顔の少彦名命がいた。
近くでは博雅はおろおろとし、晴明が伏せっている。
「大己貴命も須勢理も容赦がないのう。」
「へ?」
「魂呼ばいをするつもりが、神降ろしとなれば、人魑魅がこうなるのも道理。」
気の動転している博雅に、少彦名命は鷦鷯の羽根を差し出す。
「これで幾ばくか回復が早まるだろう。握らせておけ。」
困った顔で博雅は少彦名命から羽根を受け取ると、意識のない晴明の手に握らせる。
一方、少彦名命は腰を落ち着けると、加代子に「それで何をどこまで思い出したのだ」と訊ねた。
「大己貴命が幽世に行って、天津神が攻め込むところまで。」
「先の大戦の時の記憶か――。」
少彦名命は天津神が「国譲り」と言うそれを「大戦」と言い切る。
「で? それで何故、大己貴命が現れる?」
「え?」
「先程、庭先に大己貴命が現れた。荒御魂でない、元来の大己貴命だ。」
それを聞くと加代子は「ああ」と合点する。
「彼は大己貴命だけど、大己貴命じゃないの。」
「はあ?」
「大己貴命の分霊体だよ。幽世で分かれちゃったんだって。」
神様でも想定外な事はあるようで、文字通り両手で頭を抱えた。
「なんで、そんな事になったんだ?」
「うーん、詳しくは雅に聞かないとだけど、幽世は核融合と核分裂が起こるみたいになってて、それで分かれちゃったとか何とか・・・・・・。」
聞いた時は分かった気になったのに、代わりに説明しようとすると上手くいかなくて言葉を濁す。少彦名命は大袈裟にため息をついてみせた。
「本当、お前らはいっつもそうだ。予想の斜め右上の事態を引き起こす・・・・・・。」
「ご、ごめんなさい・・・・・・。」
加代子が思わず謝ったが、少彦名命は「規格外なのだから仕方ないと思うことにする」とぼやいた。
◇
孫子は戦い上手の者はたとえば率然のようなものだ、といったらしい。
率然は山に坐わす蛇で、頭を叩けば尻尾で、尻尾を叩けば頭で、真ん中を叩けば頭と尻尾で攻撃してくるらしい。
「雅信だな。」
「うん、雅だね。」
晴明が伏せている間、状況のイマイチ掴めていない加代子と博雅は柳舟による緊急勉強会に参加していた。
本来なら晴明を焚き付けて、月読命を止めに行くつもりだったのだが、大物主と加代子のせいで頓挫した。
不幸中の幸いで、八嶋士奴美神からの手紙で「月読命との全面衝突は避けられた」という事は分かったが、内容を読んだ少彦名命は須勢理の顔を見て「本当にこの一族は手がかかる」とため息を吐いた。
「月読命は伊邪那岐命に奏上した手前、戦う振りはしないといけない。そのため、それを避けるには互いの人質がそれぞれに捕まったことにしたい。という事で、八嶋士奴美神と天津甕星に白羽の矢が立ったようだ。」
「それはまた、壮大な大芝居ですね。」
柳舟が驚きつつも返せば、少彦名命は「事はそれだけではない」とぼやく。
「と、申しますと?」
「根の堅洲国と黄泉の国間でも同じ芝居が必要だと書いてきている。」
八嶋士奴美神からの手紙には、各々釣り合うくらいの力量同士、かつ、四人とも関係者が望ましいと書いてきたらしい。
「黄泉の国から根の堅洲国には猿田彦が了承してくれたらしいが、根の堅洲国から黄泉に降りるものがいないそうだ。」
それを聞いた瞬間、その場にいる全員が、現状、条件を満たすのが「大己貴命」「雅信」「雅」しか居ないと納得する。
「問題はその大己貴命と連絡を取れる者がおらず、ここにいる小笹が《頼みの綱》という事だ。」
八嶋士奴美神自身も連絡を取ろうとは思ったらしいのだが、どうも神出鬼没な状態でおおよその位置しか把握出来ていないらしい。
「あやつは本当に思いも寄らないところにいるからなあ・・・・・・。」
その度、三界に大己貴命の残気を追って探すのが少彦名命の得意とするところであり、八嶋士奴美神からの救難信号の理由だった。
「そういうわけで、小笹を借りて良いか?」
「あ、うん――。」
私も行こうか、と言いかけて、小笹ににっこりとされる。有無を言わさない笑顔は、元々、雅に付いていたからだろうか。
「柳舟殿、申し訳ございませんが、姫様をお頼み申し上げます。」
「もちろんです。こちらの庵でお待ちしております。」
それで小笹を篠笛に戻して、少彦名命に預かってもらう事になったのだ。
「孫子の教えは色々教わって分かったけど、こんなバレバレな人質交換で何とかなるものなの?」
「それを何とかしようというのだから、《兵は詭道なり》と言われているのです。いかに相手にそれと知られることなく騙せるかも、兵を動かす才の一つ。」
その点、黄泉から根の堅洲国に来るのが、猿田彦という話も、柳舟に言わせると実に理に適っているらしい。
「猿田彦は長く天津神に仕えし鬼子。赤き瞳を持ちながら、天照大神に寵愛を受け、一番のお気に入りの天鈿女を降嫁させたほど。その猿田彦と天鈿女が理由で黄泉に囚われたとなれば、大己貴命が黄泉に降った以上の影響があるんです。」
戦力的に考えたら黄泉から大己貴命を離れさせて排除したいが、猿田彦と天鈿女の二人が伊邪那美命に害されたなら天照大神の名が穢される。
「既に天鈿女は伊邪那美命の手の内ですが、この状況下では、伊邪那岐命が黄泉を武力で攻めよと言っていも、天照大神、ひいては高皇産霊神が首を縦に振らないでしょう。」
そして、黄泉も折角引き入れた大己貴命神を根の堅洲国に奪われるような真似は見逃さないであろう話す。博雅はそこまで聞くと目を白黒させた。
「ひとまず大変そうな事だけは理解したが、それでどうなる?」
「夜の食国と黄泉の国との戦いが止み、決戦は黄泉の地に。」
柳舟はそう話すと凸の字をひとつ進める。加代子は淤加美神の邸近くの高天原軍をじっと見た。




