淤加美神
ぐらりと世界が揺れて見える。
《もう少し先をお見せしよう――。》
晴明の声に引かれるように、須勢理毘売命の身体と別れた加代子は見慣れぬ空間にいた。
辺り一面にディスプレイがあり、それぞれに違う動画が流れているような不思議な空間で、そこを不思議の国のアリスのように下へ下へと落ちていく。
ああ、そうだ。丁度、兎の穴に落ちたアリスのよう。
そして、晴明はさながら時計をもった白兎だ。
「どこへ行くの?」
まだ先程の須勢理毘売命の感情を引き摺っていて、加代子は哀しくてならなかった。もし雅が昔の大己貴命のように捕らえられ、幽世に閉じこめられたならきっと正気では居られまい。
《淤加美神の元へ――。》
デジタルな響きにすら感じる言葉と共に辺りは、一つの画面を残して真っ暗になり、次の瞬間、加代子は須勢理毘売命だった。
⠀場所は奇稲田姫の部屋で、こちらが夢なのか、それとも、あちらが夢なのか分からなくなる。
「お目覚めにございますか?」
御簾の向こうから声がして驚いて見れば、庭先に幼い晴明がいた。
「晴明・・・・・・?」
髪をみずらに結った子が吊り目の目を見開き、それからふっと笑みを零す。
「今朝、いずれの時空の己かは測り兼ねるのですが、この時代に行けと言われまして、平安の世とこの時空を繋いで来たのですが、貴女はいつの須勢理毘売命であらせられますか?」
「いつと言われると困るのだけれど、恐らく会った《未来の貴方》と同じ頃ね。」
「ああ、では貴女は未来の私に偏諱をなさった須勢理毘売命なのですね。」
「ええ、でも、今までの感覚だと、この時代の須勢理毘売命に意識が重なっていくと思う。」
「ここがいつの時代か定かではないけれど」と言えば、幼い晴明は「大己貴命の亡き後、根の国にいらした後ですよ」と説明してくれた。
「そう、あの後――。」
そう呟くと晴明は「それは見てきたのですか?」と訊ねてくる。加代子が頷くと「それも念頭に入れておきましょう」と言い、「貴女を黄泉へご案内するよう言われました」と話す。
「黄泉へ――?」
「はい、貴女を淤加美神の元に届けよ、と。」
「淤加美神・・・・・・。」
そう言えば、先程、場面が一変する前も「淤加美神の元へ」と言われた。
赤い焔のような瞳と銀糸のような美しい髪を持つ黄泉の国の神。晴明は加代子が黙ったのを、淤加美神を知らないからだろうと思ってか、「淤加美神は別の名を高龗神、貴船の神と言います」と話す。
「伊邪那美命の子で黄泉からは出られない。」
加代子が僅かに唇を噛んでそう言えば「お会いになったことがあるのですか?」と加代子に訊ねた。
「この当時の須勢理毘売命は子供の時に会っているけど、その事は覚えてない。今の加代子は、彼とは浅からぬ縁ね。」
「今は晴明ともですよ?」
するとくくっと笑い、晴明は笑い、博雅を誘うように「参ろう」という。
「私はこのような形ですが、人魑魅につき、童姿のほうが神通力が強いのです。ご容赦くださいませ。」
そして、加代子は須勢理毘売命の姿のままでそろそろと衣擦れをさせて御簾の外へ出る。
外は黄昏時でオレンジと群青色とが混じり合い、東からいつになく大きな月がゆっくり上り始めている。
花は咲き乱れ、いつになく魂の火の欠片が飛び違う。
加代子が「ほう」と溜息を漏らすと、晴明は「今日は春の彼岸の中日。夜乃食国と根の堅洲国は繋がり、変若水と死に水が交じり合う日」と説明してくれる。
近くで見れば、子供の晴明は目が金色で瞳は獣のそれをしていた。
◇
加代子が淤加美神の邸に来るのは、実世界で一度、記憶の世界だと二度目に向かっているところという事もあり、晴明に言われた通り口を閉じ、振り返らないように気を付けて歩んだ。
いつもなら、途中で記憶を奪われそうなのに、この当時の須勢理毘売命とはなかなか馴染まず、加代子のままで道を進む。
(こんなに長かったっけ――?)
丁度、そう思った頃合で不意に晴明は立ち止まり、一本分かれ道になっている所を指さした。
(あ、ここだ――。)
子供の頃に迷い込んだ時に、淤加美神が案内してくれた道を進む。やがて橋姫とやり合ったところを過ぎ、見えてきたのは淤加美神の邸の所だった。
「もう口は利いても大丈夫でしょう。」
晴明は須勢理毘売命を見上げ、徐ろに口をきいた。
「しかし、生憎、私の持ち時間はここまでのようですね。あの邸に向かっていただければ、淤加美神が坐わすはず。」
よく見れば晴明は足の方から透けていっている。
「あとの行き方は加代子なら分かるわ。」
「それであれば良かった。お気をつけて・・・・・・」
そう言うと、いよいよ時間が足りなくなったのか、晴明の気配は消え失せた。
青い鬼火が燻る道を進み、淤加美神の邸の建屋に近付く。
「誰だ――?」
邸より聞こえてきたのは、淤加美神による誰何の声だった。
加代子は小さく「淤加美神」と呟く。その呟きに奥の部屋の足音は早くなり、御簾が跳ね上がり、そこには驚いた表情の淤加美神が立っていた。
「唐王御前、何故ここに――?」
それに答えようとして、不意に《須勢理毘売命》が反応する。一度、須勢理毘売命の目が覚めると、加代子の意識は沈んでいく。
「分かりませぬ。夢にて小狐と戯れております内に、ここにおりましたから、狐狸の類に化かされているのかもしれませぬ。」
須勢理が呆然としてそう答えたのも、加代子はどこか遠く感じながら聞いていた。
「貴方にしてもお会いした記憶はないのに、何故か懐かしい――。」
そう話す須勢理の目は哀しみを湛えており、淤加美神が幼い頃に見た無邪気で無垢な姿はなかった。
淤加美神は枯山水の模様が崩れるのも気にせず、勾欄を越え、ひらりと庭に舞い降りると須勢理毘売命の傍に立つ。そして、その手を引くとその胸の中に閉じ込めた。
「そのような顔をするな。泣きたければ泣くが良い。」
須勢理は首を横に振る。
「もう一滴すら残っていませぬ――。泣ける内はまだ良いのだと知りました。」
今の自分は壊れた器のようなもので、たとえ繋ぎ合わせても元には戻らないと仄めかす。すると、淤加美神の腕の力は一層強くなり、慰めるようにその額にひとつ口付けるようにした。
「泣き方も忘れたと言うのか? 我が佐保姫は。」
徐々に淤加美神の体温が伝わってくると、須勢理毘売命はこれが夢ではないと悟ったのか、淤加美神を見上げる。
「もう一度、《薄氷の君》と呼んでおくれ。」
あの頃と変わらぬ銀糸のような髪に、紅の瞳。一方で少年特有の線の細さは無くなり、がっちりとした腕。あの頃は「薄氷の君」というのがしっくり来た淤迦美神は、その氷を棚氷のように厚くしたような頼もしい男に変わっていた。
「我が妹よ、このまま心虚ほにして日々を無為に生きるなど、哀しいことを言わないでおくれ。」
愛しげに「我が妹」と呼び掛けてくる淤加美神に須勢理は緩く首を横に振る。次の瞬間、淤加美神は自分自身が傷を負ったかのように痛ましげな表情になると、須勢理毘売命の事をきつく抱き締めた。
「あな憎し。天つ神どもも、大己貴も。こんな事になるならば、約束など違えればよかった。」
そして、頬を擦り寄せて、荒々しく唇を奪われる。須勢理はビクリと身体を強ばらせ、力いっぱい淤加美神の傍から離れようとした。
しかし、しっかり抱き込まれていて、身動きが出来ず、やがて舌が割り入ってきて口腔内を探られ始める。
歯茎の裏、舌の根、喉の奥。
頭の後ろに手を宛てがわれ、その冷たい雰囲気とは裏腹に、燃えるような熱を分け与えられ、須勢理は身体の力が抜けた。
淤加美神はそっと唇を解く。
「これは、夢ではないの?」
「これでもまだ夢だおっしゃるか? 貴女は私に《恋い死ね》と仰りたいのだな。」
むばまたの夜は縋らに夢に見えつつ。
幼き日、須勢理と出会ったあの日の事を忘れたことなどない。手に入れてはならぬと思いながら、何度、夢に見、何度、焦がれて目を覚ました事だろう。
「三界の均衡が崩れるからと、貴女のお父上に《黄泉に縁づかせるわけにはゆかぬ》と言われたが、今宵は春の彼岸。」
変若水と死に水が交じり合い、死は再生へと切り替わる。
「全てを忘れて、せめて、一夜の夢を見ればいい。」
「一夜の夢――?」
甘やかな、それでいて優しげな声で言われると、その優しさに寄り掛かりたくなる。
「ああ、今宵の事は何もかもなかったことにして構わない。貴女はただの《女》に戻ればいい。」
赤い焔のような瞳に見据えられると、不思議と逆らえぬ心地がする。淤加美神はその一瞬の躊躇いを見逃さなかった。
「須勢理、全てを我のせいにして流されてしまえ。」
名で縛られ、身動きの出来なくなった須勢理を淤加美神は抱き上げると、邸の中へと連れ帰る。
そして、御簾の内へ入ると、鈍色の衣を引き剥がす。
「止め・・・・・・て・・・・・・ッ。」
須勢理が制止の声をあげた時には、袴の帯に手が伸び、反対の手で腕を捉えながら組み敷いた頃だった。
「何故、このような無体な事をなさるのです・・・・・・。」
「何故、と問うか・・・・・・?」
自分がここに閉じ込められている合間、大己貴命を愛し、共に生き、そして、その心を大己貴命に殉じて捨てようとしている須勢理が、誰より愛おしいのに誰より憎らしい。
「大己貴の為に全てを打ち捨てさせなどさせぬ。そのまま、心虚ほに生きさせるくらいなら、我を憎み、我を恨めばよい。そうすれば、その哀しみも苦しみも我が喰ろうてやろう。」
言葉とは裏腹に優しく愛撫してくる指先に、快楽がせり上がってきて、須勢理は顔を上気させる。呼吸は浅くなり、噛み殺していても声が漏れてしまう。
大己貴命とは違う触り方、焦らし方。
耐えきれず、声を漏らし「女としての性」を曝け出せば、淤加美神も息を荒くする。
「薄氷・・・・・・君・・・・・・、お願い、もう、止めて・・・・・・ッ。」
淤加美神はその説得力のない懇願を吸い取るようにして、唇を重ねると舌を絡め吸い上げる。
須勢理はぞくりとする感覚に、荒い呼吸で身体を仰け反らせた。
「その昂り、鎮めねば苦しかろう?」
優しく撫でられる度、ずくりと痛いくらいの快感が身体を走る。
淤加美神は小刻みに震える須勢理を愛しげに眺めながら「今、楽にしてやろう」と囁く。
止めて――。
そんな事、望んでない――。
心は淤加美神を拒否し大己貴命に操を立てるのに、身体は淤加美神を受け入れる始める。
身体を開かれ、その最奥を穿たれると、獣じみた声が漏れる。
喘ぎ――。
呻き――。
喚く――。
意味ある言葉など発せず、身体は痙攣し、意識も朦朧としてくる。
何度、絶頂に連れて行かれたのか分からなくなった頃、淤加美神は、意識を飛ばしてぐったりとした須勢理毘売命を胸に抱いた。
可哀想な須勢理毘売命。
大切な母は櫛に封じられ、愛する夫は幽世に封じられた。
狐狸の類がこの黄泉の地まで来られるとも思えないし、きっと魂があくがれて、ここまで来てしまったのだろう。
淤加美神は白蛇を生み出すと「須勢理毘売命が黄泉へ迷い込んで来た事と、高天原の暴挙が収まるまでこちらに置こうと思うと伝えよ」と、八嶋士奴美神のところへ遣いを出す。
常闇の世界の夜は明けることはない。その心が癒えるまで共にあれば良い。
淤加美神は眠る須勢理を抱き寄せた。




