根の堅洲国
島崎 加代子は東京タワーから飛び降り、天翔て赤坂の氷川神社より根の堅洲国へと来ていた。
以前来た時からすれば、この根の堅洲国でも春風が吹いているかと思ったのに、不思議とここは秋の気配が漂っている。花々も春のそれではなく、萩の花、桔梗、女郎花、藤袴と秋の花々が控えめに咲いて風に揺れていた。
「姫様、そんなに端近に出ないでくださいませ。」
女房装束姿になった小笹は、いそいそと加代子を飾り立ててくるから、加代子はまたしても着せ替え人形になった心地でいた。
前回、この根の堅洲国にいた時は、何者かに連れ去られて来て、気がついたら衣冠束帯姿の雅の腕の中にいた。
あの時も杜若の襲ねに決まるまで、あれこれ着せ替えられたが、今日もあの時の同じように衣の山が出来ている。
でも、ここでどれでもいいなどと言えば、小言からの文句が増えそうで、加代子は我慢していた。
「現世での百日、半年など、この根の堅洲国であれば約半分ほどの時間に過ぎませぬ。物忌みと称せば、人払いもできましょう。」
小笹がそう言いながら、先日の長袴より少し色のくすんだものを着付けしていく。
「三ヶ月ちょっとか・・・・・・。」
ここにはテレビやVODサービスがある訳でもないし、音楽や漫画などがある訳でもない。あるのは和琴と和歌、貝合わせに絵巻物と言ったところだろうか。その間、こうして小笹と二人に、あれこれ着替えさせられる毎日が続くのかと思うと気が重くなった。
「それに、姫様には明日から色々覚えてもらいますからね。礼儀作法に所作、手蹟習い、薫物合わせ、布の選び方、お裁縫。他にも色々ありますよ。」
「え、そんなに・・・・・・?」
「まだまだです! しかし、お尊父様も、旦那様も過去を思い出せればそれ相応にできるはずだからと申してました。和琴も基礎からお教え致しましょう。」
ふと、雅に「教養として、漢詩に、和歌に、香道、太刀に、弓。あとは乗馬に、蹴鞠といったところでしょうか。一通りは嗜みましたよ」と言われたのを思い出して、女性側でも覚えねばならぬ事が沢山ある様子に少しばかり辟易とする。
「半年など忙しゅうて、旦那様の事でぼんやりなさっている暇はございませぬよ?」
小笹にそう言われて、確かにそんなに習うのであれば、雅の事を気にかけ過ぎて気に病んでいる暇は無さそうだなと苦笑した。
加代子がこの根の堅洲国に来たのは、現世ではちょうど昼頃だったのに、桜門の中に入ると早朝の朝霧の立つ頃だった。
それにも関わらず、急な来訪に社の奥から素戔嗚尊が顔を見せ、目を丸くして出迎えた。
「須勢理・・・・・・?」
その呼ばれ方に未だ慣れないものの、加代子はこくりと頷くと、素戔嗚尊は「身体はどうした」と訊ねてきた。
「あ、えーっと、死んじゃったみたいです。」
困ったように笑って答えれば、眉根を寄せて境内へと降りてくる。
「獄卒とか死神とかに追われるらしいので、こちらに匿っていただけないでしょうか?」
加代子がそう言えば、素戔嗚尊はすぐ傍までやって来て、頭にぽんと掌を置かれて撫でられた。そして、そのまま、ふわりと抱きかかえられる。
驚いて固まっていると、素戔嗚尊は無言のままに加代子を社の中に運び込み、先日の部屋とは別の寝殿の奥まった局まで連れていってくれた。
「ここは元々は奇稲田の局だ。この邸の中で一番護りが固い。」
そう言ってようやく床に下ろすと「小笹はいるか?」と問うてくる。
加代子は雅のかけてくれたネックレスを取り出すと、「ならば小笹にあとは任す。あとは、これより結界を張る故、この局から出ぬように。」と言い置いて去っていった。
「小笹・・・・・・。」
《はい、姫様?》
「これって匿ってくれるって事?」
《左様でしょう。》
くすくすと笑う小笹につられて、加代子もふふっと笑みを零す。
《姫様、私はお支度を整えとうございますので、この式神めにお役目を与えてはくれませぬか?》
「あ、そうだ。私、小笹の呼び名しか覚えてないよ?」
《篠笹にございます。姫様。》
「分かった。篠笹。」
すると、すうっと胸元の首飾りの横笛から、しっかり場所柄に合わせて女房装束の小笹の姿が現れる。
「今一度、こうして御身にお仕え出来ますこと、心より嬉しゅうございます。」
「こちらこそ、色々とお世話になります。」
そう話すと「では、早速、失礼してお支度を整えます」と、衣擦れの音ともに去っていく。
その後ろ姿を見て、加代子は人として生きてこの根の堅洲国に来た時と、いくつか違うことに気が付く。
まず、身体が重だるくない。人のまま来た時には異様なまでに眠く、身体が言うことを聞かなかったが、魂としてここにいるとその制約はないようで動きやすい。
次に、鬱々とした気分がない。あの時は自分の意思で来たというよりは運ばれてきたからかもしれない。自分で選んでここにいるのだと思って、それだけで心強く思えた。
そして、最後に素戔嗚尊の事を「父」と思う事に違和感が薄れた事だ。記憶が戻ったわけではないし、須勢理と呼ばれる事に違和感を覚えないわけではない。しかし、優しい眼差しを向けられると、加代子の抱く「父」のイメージに合致して安心している自分がいる。
小笹が部屋の設えを整えた後、秋色の衣を持ってきては、加代子に合わせては楽しげに選んでいき、いくつか着付けされて、最終的に加代子は細やかな刺繍の入った桔梗色の襲ねを纏った。
やがて女童が一人やって来て、素戔嗚尊がいらっしゃると話す。歳の頃は淤加美神の所にいた小鬼の紅玉や翡翠と同じ頃のようだったから、加代子は顔色を悪くし、そっと几帳の後ろで一歩下がった。
(あの子は紅玉じゃない――。)
そう自分に言い聞かせても、緋色の細長を着て、何の躊躇もなく心の臓を抜き取られた時の感覚が加代子に怖れを抱かせた。
異変に気がついたのか、小笹が加代子のすぐ近くにやってくる。
「姫様、いかがなさいました?」
「大丈夫・・・・・・、心配しないで。ちょっと怖かったのを思い出しただけだから。」
すると、丁度、渡ってきた素戔嗚尊にそのやり取りが聞こえたようで、乱暴にやおら御簾が跳ね上げられて、どっかりと几帳越しに座る気配がした。
「素戔嗚尊よ、このようにお近くにはいらっしゃるのはお控えくださいませ。」
しかし、小笹の言葉にふんと鼻を鳴らして、素戔嗚尊は几帳越しに綺麗な勾玉を差し入れてきた。
「それを持てば幾ばくか心が休まろう。」
加代子は目をぱちくりさせて、勾玉に触れてみる。それは手にすると淡く光り、ほんわりと温かくなった。
「小笹の宿るその首飾りと同様、そちらも持っているが良い。」
加代子はそれが素戔嗚尊なりの優しさだとわかると花のように笑い、「ありがとうございます」と答えた。
「ところで須勢理よ、お主はどこまで記憶がある?」
「あいにく《加代子の記憶》だけです。」
「それは難儀なことだな――。」
静かに話す素戔嗚尊からため息が溢れた。
「そなたをここに匿うのはなんと言うことはない話だ。しかし、その後、いかがする心積りだ?」
奇稲田姫が封じられ、大己貴命が黄泉の国にいる今、須勢理毘売命を護れるのは「自分しかおらぬだろう」と奮起した父親の姿がある。
「この後は火産霊神と少彦名命に力を貸してもらおうと思っています。」
「火産霊神と少彦名命か・・・・・・。」
素戔嗚尊は「妥当なところだな」と納得しつつも、「して、その後はどうする」と訊く。
「伊邪那美命の元にいる雅を助けに行きます。」
「やはりか――。」
素戔嗚尊はやれやれといった顔をすると、「そのままでは危なっかし過ぎる」とぼやいた。
「小笹、お前の記憶はどこまで遡れる?」
「須勢理毘売命に拾われた前後から琴姫として生を終えられて少しした所までですので一千年ほど前の百年ほどの記憶がございます。」
「ふむ・・・・・・。それだけあれば、ひとまずは安心か。」
そう言うと、素戔嗚尊は「ここには誰も来ぬ」といって几帳を退けて入ってくるから、加代子は目を丸くし、小笹は袖で口元まで顔を隠した。
加代子の頭をふわりと撫で、反対の手で勾玉を持っている加代子の手ごと包み込む。
「そのまま持っておれ。少し気分が悪くなるやもしれぬが許せ――。」
そう言われると、だんだんと霧が掛かったように意識が薄くなる。そして、くらりとして素戔嗚尊の胸に倒れ込む。
「姫様・・・・・・!?」
「我の記憶を見ているだけだ、静かにせよ。」
「記憶にございますか?」
「ああ、まだ須勢理であった頃のな。」
記紀にも載っていることも、載っていないことも。幸せな事も、悲しい事も――。
「身構えると見せられぬから、不意に見せ始めたが、どの記憶を見るのか選ぶのは須勢理だ。目覚めた後の時の事を考えて、横にしてやりたい。」
「承知致しました。」
「この後は小笹の記憶も須勢理に見せたい。恐らく一刻か一刻半程度後ではあるが、それまでにやる事があれば片付けておいておくれ。」
そう聞くと小笹は「心得ました」と言い、素戔嗚尊と加代子の元を渋々離れた。
奇稲田姫のいない今、素戔嗚尊にとって須勢理毘売命は大事な愛娘なのだとは分かっているものの、ああしていると「父娘」というよりも歳の離れた恋人同士にも見えて、小笹の心中は複雑であった。
(旦那様が見ていないと良いのだけれど・・・・・・。)
古事記にも書かれている通り、素戔嗚尊に仕返しをしてから現世へと帰ったという大己貴命の事を思うと、小笹は何となく後暗くて、辺りを見回した。
黄泉の国にいるはずの彼が嫉妬の鬼と化して、この根の国にも黒き疾風になって現れるのではないかと少しばかり心配になる。
しかし、前栽の花々は涼やかな風に吹かれて僅かに揺れるばかりで、小笹はほっと胸を撫で下ろすと、衾を取りに急いだ。




