夢をだに見ばや
時任 雅は、目を開けると腕を曲げて目元を覆った。
こんなにも目覚めたくなかった夢はない。
約束した東京タワーの上で抱き締めたのは、ずっと探していた恋人の生まれ変わりの島崎 加代子で、本物の彼女に触れる夢を見たら、「もののあはれ」など感じなくなったはずの鬼の心でも、再び火をくべられたように目が覚めた後も心が震えているのを感じた。
ここは常闇の黄泉国。
横になっていた寝台のすぐ傍には、地獄にあると聞く浄玻璃の鏡のように、現世を映し出す大きな鏡が置かれている。
その大鏡にはこの常闇の国からは普段見えない、東京タワーから臨む煌びやかな夜景が映し出されていて、沢山の家々の光が映し出されていた。
現世とこの黄泉の国では時間の流れが違っていて、現世での四日分がおおよそこの黄泉の国の一日だ。恐らく外の景色を見るに、現世は加代子が人間として死んだ日の夜なのだろうと思われた。
(うつつとも夢とも知らず、ありてなければ、か・・・・・・。)
加代子と電話が繋がった事も、彼女が目の前で殺された事も、彼女の魂の光に見とれた事も、夢と現実の狭間の出来事は今は酷く遠く感じる。
血塗られた加代子の遺骸は、灰色の世界に赤くどろりとした血溜まりを作る。
その一方、この瑠璃色の星のような美しい魂を前にすると、どうしようもなく嬉しくなる気持ちを止められなかった。
ギターケースを持って南口に向かう男性も、スマホを操作しながら改札に向かうサラリーマンも、女子高生も、外国人も、誰一人として自分に目を向けることは無い。それでも、加代子を見つけると、あの瞬間、雅は世界が鮮やかに色付き、動き出したように感じたのだ。
加代子の魂の放つ瑠璃色の淡い光は、今まで看取ってきたどの光よりも綺麗で、どういうわけか懐かしさと愛おしさが込み上げてくる。
在りし日の彼女を、その魂から編み出した時には、雅は伊邪那美命の眷属となり下がった事 への後悔と蟠りは解けて消え、ただあの光を護りたいと強く願った。
「あら、ようやく起きたようね――。」
その声に雅は目元を覆っていた腕を退けて上体を起こす。帳の影からは、伊邪那美命が仙女の着ていそうな服装で現れた。
「近頃はこの鏡を見ぬようになったと思うていたのだけれど。」
鏡に映る夜景を見ながら「折角のぬばたまの闇夜だと言うのに」と、カーテンを引くかのようにして伊邪那美命が鏡の映像を消す。
雅は心の内を見透かされぬように意識して微笑みを作ると「丁度、桜の綻ぶ季節でございますから、少し覗き見たに過ぎませぬ」と答えた。
「鬼の身で花を愛でるとは、やはり名前に雅を冠するだけあるわね? 雅信。」
伊邪那美命はそう言って揶揄すると、雅の寝台の足元の方に腰をかける。
源 雅信。
それは今から一千年ほど前に人の世にいた時の名前で、伊邪那美命はさらに前の世の「大己貴命」という名も知っているはずなのに、彼女は自分をただ「雅信」と呼ぶ。
神威を失い、只人となった雅を、かつての葦原中国の覇者「大己貴命」と呼ぶのは嫌ったようだ。
「今夜は、お前の愛し子の姿は見なかったの?」
「見てどうにかなるものでもありますまい?」
伊邪那美命はそれを聞くと、目を細めて「それは惜しいことをしたのね」と話す。
「黄泉醜女の一人が、お前の愛し子が死んだと連絡してきたのよ?」
雅はそれを聞くと笑みをすっと引き、黙り込む。伊邪那美命は、雅の表情の変化を実に愉快そうに眺め、そっと雅の頬に触れた。
「未だ一年も経たぬのに、げに人の世の儚さよ。雅信が賭したものは失せてしまったようね?」
そう言いながら膝に乗り、雅に口付けを求めてくるが、雅は伊邪那美命の口元を手で制した。
「それでは、こうしたお戯れはもうよろしいという事ですね?」
「え・・・・・・?」
「須勢理毘売命が現世で死を迎えたのなら、このようなことも無意味でしょう? 契約は果たされた。」
一度、淤加美神の元で殺された加代子の身と魂を繋いでおくために、雅は伊邪那美命にその心を売り、加代子の存命のためにその血肉を捧げていた。
それゆえ、この数ヶ月間、雅はこの常闇の御門という監獄に囚われ、供物としてその身を伊邪那美命に捧げていたのだ。
しかし、加代子が現世で死したのであれば、状況は変わってくる。雅の指摘にその事に気がついた伊邪那美命はハッとした表情になり、それから悔しそうに下唇を噛んだ。
「口惜しや・・・・・・。愛し子がいなくなれば、お前は泣き喚き、より一層、絶望するかと思うていたのに。この妾を愚弄するとは・・・・・・。」
雅が火に油を注ぐように「事実を申したまで」と言えば、いっそう伊邪那美命は柳眉を逆立てる。
「憶えておれ――。」
まるで飼い犬に手を噛まれた飼い主のように、伊邪那美命は捨て台詞を吐いて部屋を出ていく。そして、お付きの者の姿も無くなり、再び部屋に静寂が戻ってくると雅は「ふう」とため息を吐いて寝台に倒れた。
良かった――。
あのまま口付けされて記憶を読み取られたり、怒らせ過ぎて魂の火に戻されたりしたならば、根の堅洲国に匿って貰っている加代子の事が知られてしまっていただろう。
《今度は私が雅を黄泉の国から助け出しに行けばいいのね?》
そう話した加代子をまた危険に晒すわけにはいけない。雅はこの一年、懐に忍ばせていた横笛を取り出すと僅かに気を流し「凛、起きておくれ」と呼んだ。
《旦那様――?》
「青竹、目覚めたかい?」
《はい、ですが御身に一体何が起こったのでございますか・・・・・・? 陰の気がかなりお強うなられていますが。》
「色々、あってね・・・・・・。お前に気を分けてやればひと月と思っていたが、ここ一年は与えている余裕がなかった。」
《とんでもない事にございます。辺りも陰の気で満ち満ちている所を見ると、こちらは根の堅洲国ですか?》
「いや、さらに奥。常闇の国だ。」
《常闇の国・・・・・・。》
「ああ、欲をかき過ぎて、身を滅ぼしたんだよ。」
雅が苦笑すると凛は僅かに震え「姫様は如何されました?」と訊ねる。
「大丈夫だよ、比較的、安全な所に移せた。それに、今はお前の妹の小笹に付いてもらっている。」
《では、小笹がいるのですか? あの内裏の火事で散逸し、焼けてしまったと思ったのですが。》
「本体はその時に焼けてしまったようだよ。しかし、小笹の魂は須勢理毘売命に拾われて、長い間、式神として共に過ごしていたらしい。」
そして、加代子に付いて現世に降りてもらうため、もう一度、素戔嗚尊より篠笛ひとつ賜わり、仮の器となるように魂移しの儀を行った。
「かなり制限がかかりますが、加代子さんが肌身離さず持っている間は、何人であっても触れられぬよう、彼女を護るだけの力を持たせてあります。」
そして、それに加えて加代子の身体と魂を結ぶのに自分の分け与えられるだけの気を使っていたので、凛に回せるだけの気が残っていなかったのだと話す。
《姫様の身体と魂を――?》
「ええ、一度、加代子さんを死なせてしまったのですが、人間として生きていて欲しいと欲をかいたのです。」
そして、その代償が今の状態である事を話す。
「加代子さんは根の堅洲国にいる。でも、それを御方様には知られてはならない。」
《御方様にございますか?》
「ああ、畏れ多い国産みの女神で、黄泉津大神であらせられる伊邪那美命。今はその眷属が一人なんだよ。」
凛は絶句し「では、旦那様は鬼となられたのですか?」と訊ねてくる。
「悲しいかな――、そうなるね。」
《そんな・・・・・・。》
「幸い黄泉竈食をしなくても足りる身だから、黄泉の唐草がなくなり、和御魂になれれば元に戻れるのだろうけど。」
この絡み合った二重の縛りを解くには、縛りをかけた伊邪那美命に解いてもらうか、彼女を弑する必要があるのだろう。
「伊邪那美命にこの鎖を穏便に解いていただくには言祝ぐのが一番だが、荒御魂がいくら言祝いでもさほど鎮まらぬ。加代子さんのような幸魂か、少彦名命のような奇魂による言祝ぎが必要だろうね。」
それを聞くと凛は「私にも何か出来る事はございませぬか?」と訊ねた。
「ぜひ、お願いしたいことがある。」
この倭の国において、万物に死を与える存在が伊邪那美命だ。そして、愛するものに醜い姿を見られて、傷付いた一人の女性でもある。
男の自分ですら加代子に見られたくないのだ。いつだって美しく着飾り、紅を点す伊邪那美命がどれほど傷付いたのかと思うと可哀想に思えて仕方がなかった。
「弱っているところに、悪いけれど、まずは嘆き悲しむ御方様を少しでも言祝ぐのを手伝って欲しい。」
《御方様を――?》
「ああ、加代子さんを害されないように、臣としてご機嫌取りはしておかないとね。」
《承知いたしました。》
雅は再び凛を懐に忍ばせる。それから先触れに蟷螂を生み出すと、静かに伊邪那美命の元へと放った。
火産霊神は蝶を喰らう蟷螂と評していたが、蟷螂同士ではどうしたって雄は雌の餌になる。
雅の送った蟷螂を喰らったのか、一回り大きい花蟷螂が飛んでくると、伊邪那美命の声で「早う、参れ」と言い闇に解けて消えていった。




