時の歯車
カチ、コチ。カチ、コチ。
歯車と撥条が奏でる乾いた音が規則正しく反響する。それは、時を刻む音。時を進める音。沖融たるその音色に、僕は目を覚ました。
瞼を開けると、透き通った朝日が僕の瞳に差し込む。突然の鮮烈な光輝に、機械仕掛けの光彩絞りが微かな音を立てる。朝の暖かな恵風が目の前の広い空間を駆け抜けた。
薄く蔦の生えた石材の壁にもたれかかった僕の傍らには、細かな歯車と、粉のようにも見えるほど小さなネジ。自分の太ももを見れば、人の皮膚を模したカバーが開かれていて、そこには、鈍くねずみ色に輝き、それぞれが精密に蠢く無数の歯車がのぞいていた。
急いで足のカバーを取り付け、軋みをあげる体を起こす。
(修理の途中で寝てしまっていたのか……)
そう呟いて、撓る魔導金属の体で立ち上がった。整備部品も全て使いつくし、どうせもうこの体を完全に修理することはできないだろう。ならば、今日は成さなければならない事があった。
――ここは時の歯車。廃れ、忘れ去られた時計台。僕の目の前には、途方もなく大きな時計がある。見上げるほどの重厚な振り子が、右に振れ、左に振れ、徐に時を刻んでいる。その上にはまたも巨大な文字盤。苔むしたその文字盤に、小洒落て曲がりくねった長針、短針がゆっくりと回り廻る。そしてそれらとは対照的に、人の背丈ほどもある秒針が、細かく風を切っていた。
しかし、この表に見える部分は、時の歯車のほんの一部でしかないのだ。
――時の歯車の中枢。それは、人間が、人為らざる思考で生み出した忌みの賜。いや、ある意味では人間らしい、とも言えるのかもしれないが。
僕は広間の端の壁際に向かう。カツン、カツン、と僕の足が鳴った。
ふと、振り子の真下のオルガンが目に入る。そして、僕は脳裏に一人の少女の姿が浮かんだ。そのオルガンを弾ける者は、彼女一人しかいない。
そして、壁の前にたどり着いた。その壁は、不自然に蔦が千切れ、長方形の真っ白な壁面を見せている。
僕が念じると、その壁に切り込みが入った。そして静かに、それでいて厳かに壁は開く。
そこには部屋があった。神聖で、不可侵だと思えてしまうほどに外界から隔絶された空間。唯一の採光用の小さな天窓から薄い朝日が差し込み、無機的な大理石の壁面と相成って幻想的な空気を作り出していた。 しかし、僕はそこに躊躇いなく踏み込む。
――そこには「少女」がいた。
ベッドに横たわり、儚げに目を閉じるその頭部には、一対の獣の耳。そして華奢な体躯を包むように張り巡らされた無数の管。真っ白の肢体が、朝の白みに照らされて浮かび上がって見えた。
彼女が時の歯車の真の中枢である。しかし、そんな大仰な建前で彼女を認識してはいけない。ベッドで眠り続ける彼女は、時の歯車に囚われた、犠牲なのだから。適性のある獣人、というだけで、部品として時の歯車に組み込まれた、文字通りの犠牲。
それは僕も然り。ただ、僕の場合は、自分で志願したのだが。彼女を見捨てることなんて、僕にできやしなかった。たとえ、殆ど話をすることさえできなくとも。
時の歯車は、彼女を動力源として動いている。具体的には、彼女の精神的なエネルギーを動力エネルギーに変換して、ある「役割」を果たすために時の歯車は回っているのだ。
――その役割とは、時間を進めること。
……昔、僕がまだ幼い人間の体を持っていた頃の話。ある科学者が、タイムトラベルの実現を目指して研究を続けていた。そして、ついに時間を巻き戻す術を見つけた。それは、獣人の「想い」を動力源として時間を操作することだった。しかしその科学者は、その実験に失敗してしまう。さらにその影響で時空が歪み、一方通行に安定して進んでいた時間が、ゆっくりと減速していってしまったのだ。
そのままでは時間が止まってしまうと慌てた科学者はタイムトラベルの研究を禁止し、失敗の責任をとるために最後の発明に取りかかる。それこそが時間を進める動力源、「時の歯車」である。
未来永劫時間を進め続けるためには生半可な動力源では止まってしまう。それを防ぐための策として、肉体の活動を停止させ、成長と老化を遅らせることにしたのだ。
そして彼女が「巫女姫」として時の歯車に囚われることになったのだ。
僕は彼女を追い、彼女の世話と保護をする「守護者」に志願した。
永久とも言えるその時を生きるために、僕の肉体は全て機械に置き換えられた。彼女とつなぐための手も。彼女を見るための目をも。
それ以来、僕は脳以外の全てが無機質な金属と樹脂でできている。
僕は彼女の枕元に膝をついて屈む。そして、優しく頭をなでた。
「サクラ、ごめんな。今の僕にはこれくらいのことしかできないんだ」
魔導金属の右手に、小さなぬくもりを感じる。まるで死んでしまったかのように安らかに眠り続ける彼女の、「生きている」という、消え入りそうなほどに矮小で、燃えさかるほどに激しい主張。生きる意味そのもののささやかな感触は、僕に希望を与えるのには十分だった。
ついに、明日。彼女は目覚める。一年に七日間だけ目覚める事を許された彼女と、真の意味で対面する時が来るのだ。
今日で二百回目を数える目覚めの前日ほど、僕が希望に満ちる時はない。彼女を慈しむ僕の偽りの心が、理性と乖離して肥大化していくのが分かった。
僕は自分を叱咤し、後を引きながらも立ち上がった。今の僕が譎詐の愛を持つことは、忌避されるべきである。
彼女から伸びる管の先、操作卓に向かった。そして、埃をかぶった椅子に腰を下ろした。
数多の管が伸びる金属製の扁平な机に、無数の計器が並ぶ。僕はその数値を一つ一つ確認していった。
(昨日見たときと殆ど変化なしか……)
僕はそう呟きながら視線の端に数値管理用のソフトを投影し、そこに数値を入力していく。全て僕の脳に接続された機械式のコンピュータがやってくれるのだが、全くといっていいほど昨日の数値と変化がなかった。
(ん?)
淡々とした作業にも飽きてきたとき、不意に一つの計器が示す数値に目がとまった。
――その数値だけ、昨日とは全く異なる、異常な数値を示していたからだ。昨日の数値を見てみると確かにゼロを示しているのだが、今は指針が目盛りを振り切り、ピクピクと動いている。
(何かの異常か?)
そう思い、僕は操作卓のくぼみに手を当てた。
途端にカチャカチャと僕の手が開き、操作卓と接続される。
そして僕の脳は操作卓を介して時の歯車と接続された。それと同時に、膨大な情報が奔流となって僕の脳に流れ込む。
普通ならば脳がオーバーロードをしてしまうほどの情報。しかし幸か不幸か、僕の殆どは歯車の機械。脳と、コンピュータでの並行処理で、莫大な量のログから、瞬時に目的の数値を探し出した。
(この数値は正常な値みたいだな……)
しかし、突然異常な値を示した数値を放置しておく訳にはいかない。原因を調べようと、ラベルを確認する。
そしてそのラベルには、「時間重複」と書かれていた。
(時間重複? そんな項目、あったかな……)
僕は首をかしげる。突然オーバーフローしたその数値の正体が分からず、いやな予感がした。背筋に悪寒が走る。
まあ、分からないことをくよくよ考えても仕方がない。他の数値が全て正常値なので、この時の歯車の役割に支障は無いだろう。
それよりも、明日の用意だ。時の歯車の中枢である彼女を目覚めさせるためには、凄まじい量の作業が必要である。僕は、明日を心待ちにしながらその作業を着実にこなしていった。
(終わった…………)
心地の良い達成感と鈍い疲労に包まれながら、大きく後ろに反って伸びをする。僕の機械の体は疲労を感じないが、精神的な疲労は別。二百年前の、人間の時の癖がまだ残っていることに少しだけ嬉しく思いながら、僕は立ち上がった。タイマーもセットしたし、朝が来れば彼女は永い眠りから覚めるだろう。
彼女の元に戻ると、すでに太陽は沈みかけていて、薄い橙色の光が差し込んでいた。僕は、相も変わらずに眠り続ける彼女を眺めながら、明日の事を考える。
(明日、サクラと何を話そうか。何をしようか。また外での出来事を話してもいいし、他にも……)
……毎年、僕は前日にこうして明日何をするかを考えている。まあ、その通りになったためしはほとんど無いのだが、それでも彼女「サクラ」と話せる事を考えるだけで、胸が躍った。
そして、辺りも暗くなり、天窓から数え切れないほどの瞬く星々が覘く頃まで、僕は彼女の愛らしい寝顔を、ただただ眺めていた。
*****
……微睡みに揺れる朧気な意識の中に、歌声が響いた。かすれるほどに微かで、儚げで。それでも果てしなく透明で、どこまでも純粋なその旋律に、僕は何故か懐かしさを覚えていた。その音色は、薄れかかっていた僕の記憶を呼び起こすようで――
――その瞬間、ガタン、と大きな音を立てて飛び起きた。周りを見れば、薄く壁を這う蔦が朝日に照らされて深緑に輝いている。昨日、僕はあのまま寝てしまっていたらしい。
――そしてサクラは体を起こし、目を開けていた。僕の機械仕掛けの目とは全く違う、純粋無垢な瞳を、外の光を求めて開いているのだ。
彼女の視線が僕の視線と交錯する。彼女は少し驚いて、歌を止める。そして、少しはにかんで頬を赤らめた。
僕は、一部始終をただ呆然と眺めていた。一年ぶりに目にする目覚めた彼女が、あまりにも可憐で、清純で、何よりも愛しかったから。
「おはよう、シャラ――」
彼女が言う。
「――おはよう、サクラ」
僕が答える。
――そして、僕らは無言で抱き合った。言葉など、そんなものは必要なかった。
全身を包む彼女の柔らかな温もり。挨拶をして、返すという、その当たり前の行動が何よりも嬉しくて、僕の目から流せぬ涙が零れる。
「話したかったよ、サクラ」
「わたしもだよ、シャラ」
僕らはそのまま名を呼び合う。お互いの存在を再確認するように。お互いの生を再認識するように。
そして、僕らは暫く暖かい抱擁を続けていた。
……しばしの時が流れ、場所は時の歯車の文字盤前。僕らは隣り合った椅子に肩が触れあうほどの距離で腰掛けていた。明鏡のように光りを放つ彼女の瞳は忙しなく動いていて、小動物を思わせる。呼吸をするたびに動く柔らかな三角の耳も、空気を含んで膨らんでいた。
「相変わらずシャラは静かだね」
彼女の澄んだ声が広い空間に響いた。
「丸一年も誰とも話さなかったんだから、すぐに昔みたいにはしゃげるわけがないよ」
僕が答えると、彼女は少し目を丸くする。
「えっ、外の人たちと一度も話してなかったの?」
「ま、まあ、そうだね」
僕は慌てて目を伏せた。
「そんな! だめだよ、人と話さなきゃ――」
そこで彼女は何かに気づいたように、僕の機体を覗く。
「な、なんだよ」
「去年に剥がれてた塗装が、直ってないね。直すって言ってなかった?」
「うん、確かに言ったけど……」
目をそらす僕の視線を逃さまいと、彼女は僕の顔をのぞき込む。
「わたしに、何か隠し事してない? わたしはシャラともう二百年の付き合いなんだから、隠し事はナシだよ?」
サクラはわざとらしく立ち上がり、戯けてみせる。
それでも口をつぐむ僕に彼女は少しため息をついてから、まっすぐに向かい合った。
「まあ、いいわ。話せない、ってことは何か理由があるんでしょ? なら、わたしはあなたを信用して、訊かないでおいてあげる!」
気持ちの良い笑顔を振りまく彼女に、僕はほっと胸をなで下ろした。
「――でも、いつか話せる時が来たら、きっと話してね」
彼女は優しく微笑んでそう言う。しかし、その笑顔には、微かな影が見えた。
「……ああ、話すべき時に、必ず」
僕はしっかりと彼女と目を合わせて答えた。彼女への贖罪として、真摯に向き合うことくらいしかできない自分が歯がゆい。
それでも彼女は満足したように頷くと、僕の隣に腰掛け、足を交互にパタパタと振りだす。
「サクラ、今年は何か、やりたいことはある?」
僕は、毎年最初にこの質問を彼女にしている。まあ、最近は殆ど同じ答えを彼女はするのだが。もう、僕たちにとってこれは一種の様式美となっていた。
「うん。わたしが眠っている間にあった話をして」
僕はいつもと同じように答える姿に安心して――
「――と言いたいところだけど、今年は別にやりたいことがあるの」
彼女は神妙な面持ちでそう続けた。
不意を突かれることになった僕は少し驚いてから言う。
「あ、ああ。何でも言っていいよ」
「じゃあ――」
彼女はそこで一呼吸をおいてから、意を決したように言った。
「――外に、行きたいの」
そう言う彼女の瞳には、確固たる意思が宿っているように見えた。
いつか、彼女がそう言ってくるとは思っていた。そりゃあ、ずっと外の話を聞き続けていれば、また外を見に行ってみたいと思うだろう。
百五十年ほど前、彼女は今日と同じ望みを僕に言った。そして、そのとき僕はその望みを叶えてあげられなかった。それから、今まで彼女が外に行きたい、と再び言ってくることはなかったのだ。
また、いつか外に行きたい、と言ってくると分かっていても、僕は何もしてこなかった。彼女が外に行きたいと言い出してこなかったことに胡座をかいて、このときが来たときを考えることから逃げていたのだ。
僕は逡巡する。この彼女の望みを叶えることは簡単だ。しかし、そうすれば、彼女はどう思うだろうか。僕が頑なに隠していたことが暴かれ、彼女はどれくらいのショックを受けるだろうか。
彼女はじっと僕を見つめている。返事を催促するわけでもなく、口ごもる僕を責めるわけでもなく、ただただ僕を見つめている。
……ああ、そうか。
僕は気づく。彼女は僕を信用しているのだ。もし僕が彼女のやりたいことをやらせてあげなくても、きっと不平や不満の一つも言わないだろう。僕がサクラ自身にとって不利益になることをするはずがない、と信じてくれているから。
ならば、僕が彼女のためにするべき事は一つしか無い。
「――分かった。一緒に外に行こう」
僕も彼女を信用して、真実を伝えよう。
その結果彼女がどんな風になっても、彼女はきっと立ち直ってくれる。そして、これからのことも……。
「やった! ありがとう!」
彼女は弾けるような笑顔を浮かべて言う。僕がどれだけ悩んでいたのかも、なぜ外に行かせなかったのかも、彼女はまだ知らない。
それでも、僕の知っている彼女は。僕が恋した彼女は、必ず最後は僕と一緒にいてくれる。
これが独りよがりのエゴだということは分かっている。どれだけ彼女に責任を押しつけてしまっているのかも。それでも、僕は。
「それじゃあ、明日。この時計台を出発しよう」
僕は宣言した。彼女との、七日間だけの旅の始まりを。
「うん! 楽しみにするよ!」
彼女も満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
……これから、彼女には苦痛を強いることになる。それでも、彼女の本当にうれしそうな様子を見て、僕も同慶の笑みを浮かべていた。
******
そして夜が明ける。彼女と迎える二回目の朝。空は清々しく広がる蒼穹に、純白の碧雲。そして横に並ぶ、暖かい気配。
「それじゃあ、行こうか」
僕はサクラに声をかけた。
「うん! 行こう!」
僕らは時の歯車を発った。計らずとも二人の足並みは揃う。
暫く行くと、目の前に広がるのは鬱蒼とした雑木林と、その隙間を縫うように伸びる細い道。僕らは肩を並べて一歩ずつ歩いていった。
雑木林を抜け、寂れた道中に出る。僕らは無言で歩いていた。彼女が隣にいるにもかかわらず、僕の足取りは重い。
足下のレンガは割れて散らばり、整備された形跡が全くない。彼女も何かに気づいたように、落ち着かないようだった。
……そして、小さな町に着いた。いや、今となっては「町だった」場所に。
木造の建物は跡形もなく焼け崩れ、腐って土と同化した木片だけが、微かな建物の痕跡を示している。村一番の高さを誇っていた石造りの教会も、ただの瓦礫の山に成り下がり、無残な姿をさらしていた。
「ねえ、何があったの……? この町に住んでいた人たちは、どこに……。前見たときは、あんなに活気づいていたのに……」
彼女は言葉を失って、立ち尽くしていた。
「――隠していてごめん。この町の人々は。いや、違う。この世のすべての人間は、獣人は、すべて絶滅しているんだ」
僕は淡々と言った。
「……えっ、何を言っているの? 去年も、その前も、わたしに話してくれた外の話は?」
「ごめん。あれは、全部嘘なんだ」
「そんな……」
彼女は膝から崩れ落ちる。目を見開いた彼女の視線は泳ぎ、焦点が揺れていた。
僕はただ謝ることしかできなかった。人類が絶滅したことを彼女から隠せば隠すほど知った時の落差が大きくなっていくことには気づいていたのに、嫌われるのが怖くて、伝えられなかったことを。
「ねえ、いつから隠していたの?」
震える声で彼女が尋ねる。
「時の歯車ができてから五十年後くらいから」
「そんなに昔から……」
僕はせめて素直に答える。
「時の歯車が完成してすぐ、獣人が人間に対して進攻したんだ。時の歯車のせいで、獣人が人間に虐げられている、って主張して」
「そんなことは……!」
僕は怒りを露わにする彼女を視線で制して後を続ける。
「そしてそのまま人間も反攻して、そこからは泥沼の戦いだった。仕返しの仕返し、そのまた仕返しが、永遠に続いて……」
サクラは俯いたまま僕の話を聞いている。
「そしてついに最後がやってきた。あっけなかったよ。兵器の開発競争が起きて、お互いに資金が枯渇して、そのまま消え入るように……」
僕は彼女に淡々と伝えた。
「そう……」
彼女の瞼から涙が溢れた。僕の耳に入るのは、肌寒い風切りの音と、擦り切れるような彼女の嗚咽のみ。
「僕が悪いんだ。戦争をしているときにも『自分には関係ない』って言い聞かせて見て見ぬふりをして。その上我が身可愛さでそのことをサクラに隠して。僕は――」
「――いいや、シャラは悪くないよ! 悪いのは、戦争をした人間と、獣人」
そう力強く言った彼女は涙を溜めて立ち上がる。
「シャラは、わたしにショックを受けて欲しくなかったからこのことを言わなかったんだよね。それに、最後まで人間と獣人を信じていたんでしょ? いつか、戦争の空虚に気づいてくれるって」
彼女は振り返って僕を見下ろす。雲の合間から差し込んだ日の光に、彼女の涙が煌めく。
「わたしはシャラを責めたりなんかしない。だって、わたしは――」
彼女は大きく息を吸う。
「誰とも話せなくても、人類がいなくなっても、わたしのために時の歯車を回し続けてくれていたシャラが、わたしは誰よりも――」
「大好き、だから」
そう言って無理矢理に笑顔を浮かべる彼女は、誰よりも愛しく思えて、何よりも輝いて見えた。
「ありがとう」
僕はただそれだけを伝え、彼女を抱きしめる。
「……でも、少しだけ、少しだけでいいから、そのままでいて」
消え入るような声でそう言った彼女は、僕の胸に顔を埋め、声をあげて泣いた。僕は、小さな子供のように泣きじゃくる暖かい彼女の髪を撫で続ける。
人が去った町と自然が息吹く大地に、彼女の慟哭だけがいつまでも響いていた。
*****
「ねえ、わたし達が最初に出会った時のこと、覚えてる?」
「もちろん、覚えているよ」
僕らは埋もれた瓦礫に腰掛けて、話をしていた。
「じゃあ、その場所へ行こうよ。あの桜の木の下に」
「えっ、あそこは歩いても二日ぐらいかかるけど、それでいいの?」
「うん。折角外に出たんだから、もう一度あの景色が見てみたいの」
サクラの意志は固そうだった。
「分かった。一緒に行こう」
そうと決まればすぐに行動するまでだ。今年彼女に残された時間はあと五日。悠長にしていられる時間の余裕はあまりない。
僕らはこの小さな町を出発する。目指すは僕らの思い出の場所。二人で足早に寂れた道を歩いていった。
「ふと気になったんだけど、シャラは一人で過ごしている間、何をしているの?」
彼女は歩きながらそう尋ねて可愛らしく首を傾げる。
「そうだなぁ。最初の頃は外を散歩したり、自分の身体を改造したりしてたんだけど、いつの間にか飽きちゃって。ここ百年以上は、何もしないで振り子を眺めてることが多いかな」
「そうなんだ……」
彼女はそう呟いたまま浮かない表情で考え込んでしまう。
(あれ? 何か変なこと言ったか?)
僕は少しだけ疑問に思いながら、彼女と歩幅を揃える。
「シャラだけ、大人になっていくんだね……」
彼女が微かな声でそう呟いたことに、僕は気がつかない――
僕らは歩いた。丸二日歩き続ける事は、体力に優れた獣人であるサクラにとっても想像を絶する重労働だろう。しかし彼女は道中、弱音の一つも吐くことはなかった。
僕らは大きな街に入っていた。道中にあった全ての村や町と同様に、目の前に広がる光景は瓦礫の山。僕らの故郷であるこの街の惨憺たる現状を目の当たりにして、僕は抑鬱だった。
「あっ、あそこ!」
と、そのとき彼女が突然走り出した。僕も彼女を追いかけて、走り出す。
――瞬間、僕の目の前に鮮やかに広がるのは、風光明媚な桜色。清らかな水の流れを覆うように整然と立ち並ぶのは、満開に咲き誇った桜の木だった。
そして僕の脳裏に、あの時見た情景がまるで昨日のことのように思い出される。
まだ幼気な少女だったサクラに出会ったその瞬間、僕の見える世界が色づき、鮮明になった。
当時の僕にとって、彼女は高嶺の花だった。話しかけることすら憚られるほどの清純。そんな彼女は、僕を見つけるたびに話しかけてくれて、それが幼かった僕の、最高の楽しみだった。
「ねえ! わたし達、ここで出会ったんだよね。この桜の木の下」
そう言って目一杯手を振る彼女が、あのときの幼い彼女の姿と重なる。
「変わらないんだな……」
口をついで零れたその言葉に、僕は正体の分からない恐怖を感じた。彼女との、見えない溝が広がっていくような。
いや、そんな負の感情を今持つべきではない。折角彼女と思い出の場所に来ているのだから、楽しまないと。
僕は目を輝かせて上機嫌の彼女の隣に腰掛ける。 彼女は僕の肩に頭を乗せ、話しかけてくる。
「わたし達が出会った頃は、こんな風に世界を二人だけで独占できるなんて、想像もしてなかったよね」
「ああ、そうだな」
確かにそういう見方をすれば、そうだ。
「こうやって川の流れを見ていると、思うの。この星の歴史から見れば、人間なんてどんなにちっぽけな存在なんだろう、って。人間がいなくても花は咲くし、緑は芽吹く」
彼女は、桜吹雪が舞う河原を見据えてそう呟く。
「時の歯車って、何なんだろう。それを作り上げた人間はもう何処にもいない。それなのに、わたしとシャラがいるから、時間は進み続けている」
……きっと、彼女は悩んでいるのだ。人類がいなくなった世界の時間を進める意味が、何なのか分からずに。
「僕は、サクラと一緒に生き続けるためなら、永遠にだって時の歯車を動かすさ」
僕の生きる理由なんて、それだけでも十分すぎる。彼女の笑顔を見るために。彼女の声を聴くために。
「わたしも、シャラと生きるためなら生きていける。一年に七日しか目覚められなくても、何年、何十年分もシャラと過ごすために」
彼女は微笑む。
「約束をしよう。二人で、永遠に時を進め続ける。時の歯車を回し続けるって」
「ああ、約束する。僕はサクラと、永遠に時を進め続ける」
僕らは指を重ねる。そして、二人の「これから」を確かめ合った。
「よし、帰ろう。時の歯車に」
「うん、帰ろう!」
僕らは手をつなぎ、帰路につく――
*****
美しい音の躍動が、時の歯車を包む。彼女の弾くオルガンの音色は、僕を感傷的な気分にさせた。
彼女はいつも眠りにつく前にオルガンを弾く。曰く、「ずっと弾かないでいると、腕が鈍るから」なのだそうだが、僕にとってこの儚くも希望に満ちあふれたオルガンの音色は、いつしか彼女との長い別れを意味するものになっていた。
この演奏が終われば、また一年間孤独が続くことになる。この寂しさは、始まってから二百年経った今でも慣れることは一切無い。
そんな僕をよそに、彼女の演奏は終わりを迎えようとしていた。
演奏を終えたサクラは戯けるように一礼をして、僕はそれに拍手で返す。
その一連の流れに嬉しそうに顔を綻ばせる彼女に、僕は一言、声を掛けようとして――
――その瞬間は突然、やってきた。立ち上がろうとした瞬間に僕の足の感覚が抜け落ち、僕の身体は崩れるように倒れ込む。
それと同時に、末端から徐々に身体感覚が消えていくのが分かった。
「脳の寿命――」
昔、この身体を作った人に言われたその言葉が、何故か脳裏に浮かんだ。
霞んで消えかかった聴覚に、シャラ! と名前を呼ぶ叫び声が聞こえてくる。
(サクラ、ごめんな。約束を守れなくて……)
遠のく意識の中、彼女にこのことを話さなかった事を深く後悔した。
そして、僕の精神と肉体は、抗えない虚無という深淵に墜ちていく――
「シャラ!! シャラ!!」
少女の、悲痛に染まった叫び声が、時の歯車の冷たい壁に反響した。
彼女が揺らすのは、止まって動かなくなった機械人形の体。
「どうして……! なんでシャラが……!」
噎び泣く彼女は、際限のない悲痛に顔を歪ませる。
彼女は何もできなかった。シャラから常に鳴っていた歯車の音が徐々に聞こえなくなっていく間も、生気が失われていくその間も。
泣き疲れた彼女は、憤った。何もできなかった自分に。無力で、非力な自分を責めた。
「わたしは、シャラの寿命が迫っていたことにも、何も気がつかなかった! 気づいてあげられたのは、私しかいないのに……!」
……そう嘆き、ふと、顔を上げた彼女は、何かに気がついたように、口をぽかんと開いていた。
「そうだ……。時の歯車!」
そう叫んだ彼女は立ち上がって、時の歯車の制御卓に向かう。
彼女に時の歯車の操作方法など分からない。ただ、闇雲に計器を弄るだけである。
「動いてっ!! 動いてったら動いて!!!」
思い通りに行かない怒りに任せ、拳で制御卓を叩く。耳を劈くような警報の音が鳴り響く。
そのとき、感情を爆発させる彼女の視線の先に、彼女が眠るためのベッドがうつる。
一種の狂乱状態にある彼女はそのベッドに駆け寄った。
そして、隣に掛かっていいる透明なチューブを手に取り、その先に付いた針を、自分の腕に突き刺した。
躊躇いなく突き刺された管から、真っ赤な鮮血が迸る。鋭い痛みが腕を駆けるが、シャラのために狂気に染まった彼女は意にも介さない。
時の歯車に動力として認識された彼女は、すぐさま精神が吸い取られるような感覚に呑まれる。しかし、腕の痛みにしがみつき、失いそうになる意識を確かにする。
「お願い!! 七日、七日だけでいいから、時間を巻き戻して!!!」
そう彼女が念じた瞬間、彼女の視界から光が消え失せた。そして、吸い取られそうだった意識がすっと鮮明になる。
闇に染まった視界に、赤い文字が躍った。
【警告:このコマンドを行うと、指定された時間以降の物事・事象が、記憶も含め全て初期化されます。本当に実行しますか?】
彼女にとって、シャラを助けられる可能性があるのなら、考えるまでもなかった。
「もちろん、実行する!」
――そう彼女が叫んだ瞬間、世界が逆流した。
世界の普遍的な法則が破られ、不条理な斥力に空間が悲鳴を上げる。その悲鳴を切り裂き、時の歯車は時空を歪めて強引に世界を巻き戻す。
……そして、時間は七日前に戻される。春の風が吹く、優しい朝。透き通るような日差しが、身じろぐ「彼」に降り注ぐ。
――全てが巻き戻ったその世界で、「時間重複」を示す指針だけが、ピクリ、と蠢いていた。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
評価・感想をしてくださるとモチベーションに直結します。
よろしくお願いします。