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季節外れの贈り物

作者: 黒田皐月

 思いつめた顔をしたつばめに呼び出されて、香奈は屋上の扉を開けた。傾きかけた西日がまぶしかったが、それが映す影は見当たらなかった。

「こっちよ、香奈」

 左から呼ぶ声が届いてようやく、陰になった場所につばめがいることに気がついた。日陰に香奈を導いたつばめは、肉食獣を恐れる小動物のように、あたりに誰もいないことを確認した。香奈はそんなつばめの姿に首を傾げた。

 香奈とつばめとは高校入学以来の友人で、今さら改まるようなことなど何もない。それに、優等生とまでは言えないがお行儀のいい方のつばめが人から隠れなければならないようなことをするなど、あるはずがない。

 つばめは今も切羽詰まったように固く口を結んでいて、香奈の目からやや視線を下に外していた。これら一連のすべての理由が、香奈にはわからなかった。

「つばめ、どうしたの?」

 当然の疑問を香奈が口にすると、つばめはようやく香奈に視線を合わせた。つばめの目は大きく見開かれたようで、それは日陰の中で何か別のもののように光っていた。

「あ、あのね、香奈……」


 半年以上前の四月上旬にさかのぼる。

 将来のことなど何も考えずに、ただ学校の成績で青葉一高に進学した香奈は、ひとつの事態に直面していた。中学時代の友達が、誰一人いないのである。無論、同じ中学から進学した生徒も何人もいて、互いに名前くらいは知っている人もいることはいたが、友達付き合いとまでは言えなかった。

 まだ誰も高校生活には慣れておらず、とりあえず知っている者同士の塊ができていた。昨日あたりからいくつかの塊が溶け合うようにしているのを、香奈はぼんやりと眺めていた。

 授業についていくのが大変だと聞いてはいたが、まだよくわからない。中学時代の延長のように、香奈は次の授業の教科書をカバンから取り出した。

「三浦さん、ちょっといい?」

 その声が自分に向けられていることに香奈が気づくまで、たっぷり十秒はかかった。香奈は不審なものを見定めるかのような目を声の主に向けたが、彼女は待たされたことも不躾な目を向けられたこともまるで気にしていないようで、ほんの少し目を細めただけだった。

「よかったら、今日のお昼、一緒にどう?」

 警戒というものからほど遠そうな穏やかな声色が、彼女の口から流れ出てきた。香奈に否やはなかった。

 昼休み。彼女の隣の席が空いているとのことだったので、香奈はその席へ移って弁当箱の包みを開いた。

「改めまして。野中つばめです」

「三浦加奈です。誘ってくれてありがとう、かな」

 ゆったり話す彼女と比べると、香奈の硬さが余計に目立つ。それは自分でも明らかにわかるほどだった。

「こちらこそ、誘われてくれてありがとう」

 妙な感謝を口にした彼女はちょっと相好を崩して、中学時代の友達もいることはいるが、新しく友達を作りたかったのだと言った。言われてみると、塊のひとつの中に彼女の姿があったような気もした。

 出身中学を聞くと、香奈の住所から高校を挟んで反対側にある名前が挙がってきた。二人の住所がこの高校を通る一本のバスでつながっていることがわかって、遊びに行きやすいね、などという話を自然にしていた。

 そうして数日間彼女と昼食を共にしているうちに彼女の他の友達との接点もできて、程なく香奈はひとつの塊へと溶けこんでいった。香奈の中にあった硬さはその中に溶けて、いつしか消えてしまっていた。

 お互いを名前で呼び合ったり、やり忘れた宿題を見せてもらったり、休日に連れだって駅前で遊んだり、そんな友達と言えるようになるまでに時間はかからなかった。香奈の楽しい高校生活は、こうして始まった。

 あの頃の香奈は、その楽しさを何の疑いもなく享受していた。


 後になって思い返してみると、自分にも悪いところは間違いなくあったとはっきりわかる。それが思い返した回数だけ香奈の胸をさいなむ。

 あの夕方、つばめがこれまで香奈が見たことのない顔を向けていた。顔だけではなく、視線を外すことも奥歯にものが挟まったような言いようも香奈には初めてで、それに対処できずに香奈はつばめのことを探るように見つめるだけだった。

 見開かれた目はまた伏し目がちになり、日陰にいることもあって今ひとつ表情がつかみきれない。幾度となく小さく口を開き、しかしあるかないかくらいのため息を吐いて閉じてしまう。

「何かあったの、つばめ?」

 何かわからないものに耐えられなくなった香奈がもう一度つばめに問いかけたが、つばめは今度はそれに応じなかった。香奈を襲っていたのは、訳のわからない不安だった。それに突き動かされたようにつばめに手を伸ばしかけると、つばめはほんの一瞬、しかしはっきりと身を震わせた。

「ごめん、香奈」

 香奈の動揺を察したように、つばめは消え入りそうな声で謝った。しかしその次につばめの上げた顔に香奈が見たのは、何かの強い意志だった。抑えた声で、しかしはっきりと、つばめが香奈の名前を呼び、香奈は引き込まれるようにつばめの目を見つめた。

「私、香奈のことが好き。香奈は、私のこと好き?」

 さっきまでが嘘か幻だったかのように、つばめはまっすぐに私だけを見つめていた。香奈が感じたのは、逡巡さえ許さないほどの迫力だった。次々に見せられる未知のつばめに香奈の平常心は打ち払われてしまったようで、考えるということがまるでできなかった。

「好き、だよ」

 つばめは香奈の高校で最初の、そして一番の友達で、つばめがいたからこそ香奈の今がある。香奈にとってつばめは好意以外の感情を持ちようがない、大切な人に間違いはなかった。

「嬉しい。ありがとう、香奈」

 つばめは微動だにしなかったが、震える声を絞り出したようだった。揺れる目から頬に、涙が伝った。どうしてつばめが涙をこぼしたのか、香奈には今日のつばめが全くわからなかった。自分の知らない不思議なものを見ているだけのような気分だった。

「どうしたの、泣いたりして」

「大丈夫、大丈夫だから。ちょっとだけ待って」

 流れた涙は一粒だけで、一度の瞬きの後のつばめは、香奈がよく知っていると思えるつばめだった。いつもと同じように、そろそろ帰ろうかと促した。

 階段を降りようとすると、廊下から三年生の男子が三人階段に入ってくるのが見えた。何となく距離を置きたかったのだろうか、つばめは香奈の手を引いて三人の足音が遠ざかるのを待った。

 下駄箱で靴を履き替えて校門を出たところで、香奈とつばめは右と左に分かれる。

「また明日ね」

 つばめが見せた穏やかな笑顔は初めて会った時から変わっていないと、香奈は信じて疑っていなかった。


 週末、久しぶりに中学時代の友達と遊ぶ約束をしていた。つばめに予定を聞かれた香奈がそう答えると、一緒についていきたいと頼まれた。断る理由も必要もなかったので、香奈は二つ返事で了解して、その場で友達にもメールを送っておいた。

「野中つばめです」

「小田裕美です。香奈がいつもお世話になっております」

 始めて香奈と会った時と同じように、つばめは穏やかな声色で自己紹介をした。悪い感じを持たれた様子はないことに安心しかけた香奈だったが、裕美の所帯じみた返しとお辞儀に吹き出しそうになった。

「いいえ、私の方こそお世話になりっぱなしです」

「あーゴメン、肩ひじ張った感じは私には無理だった。よろしくね、野中さん」

 裕美にあんな真似ができるはずがないと思っていたら、二言目でもう降参していた。

「あたしは川崎千絵。野中さんも一高ってことは、すっごく頭がいいんですよね」

「ちょっと千絵ってば」

 香奈と裕美、千絵とは気が置けない友達だったけど、初対面のつばめにそれはないだろう。慌ててたしなめたが、つばめは気にも留めていないようで、ほんの少し目を細めただけだった。

「私だけ名字で呼ばれるのもちょっとよそよそしいから、つばめ、と名前で呼んでもらえませんか?」

「いいよ。じゃあ、つばめも敬語はいらないってことでオッケー?」

 良くも悪くも物怖じしないのが、裕美だった。中学時代はこの裕美に引きずられていたようなものだったと、香奈は懐かしく思った。

「オッケーです」

「言ってる側から、です出ちゃってるよー」

「裕美、厳しい」

 笑い声が四つ、晴れ空に重なった。

 ゲームセンターのクレーンゲームでしばらく粘っていたら、店員さんが位置を直してくれた。それで四人で何千円かの苦労が報われたが、胸に抱くのにちょうどいいくらいのちょっと不細工な猫のぬいぐるみは、実は誰も本当に欲しいとは思っていなかった。

 なぜここまで熱くなってこれを狙っていたのか、裕美が犯人探しを始めたのだが、取れそうだからやってみようと言い出したのが裕美自身だったというところに話が落ち着き、罰ゲームとして不細工な猫が押し付けられることになった。めげずに裕美がプリクラを撮ろうと言い出して、一人一枚ずつ不細工な猫を抱いた写真を撮った。

「変わってないよね、裕美のそういうノリ」

 プリクラの順番を待つ間に香奈が千絵に言うと、千絵は全身で同意を見せて最近の話を始めた。全員が撮り終わって缶ジュースで一息入れている間も、中学時代の話と今の話を比べるように行ったり来たりしていた。

「で、香奈がそこですっとぼけてくれちゃってさ。おいおいそれはわかってくれよって」

 それが現在進行形のことであるかのように、千絵が香奈をペチっとはたいた。今やったことでもないことではたくなと香奈がむくれると、その顔がおかしかったのか、三人そろって笑い出した。

「そんな我らが香奈嬢ですが、高校生になって少しは成長したのでしょうか」

 全員が知っているのが香奈一人だけだから、共通項である香奈の話題が多くなるのは仕方のないことかもしれないが、この集中砲火に香奈は少々辟易し始めていた。そして問われた方のつばめもつばめで、流したりなどせずにまじめに考えて答えようとしていた。少し目を泳がせたつばめに、期待の視線が集まった。

「成長したって信じたいかな、私としては」

「うわー大人な回答。さすが一高生」

 裕美と千絵がつばめをほめちぎった。自分のことでなければ香奈もそれに混じりたいくらいだったが、つばめの答えが自分をほめているとは思えなかったので、またむくれて見せた。

「私だって一高生なんだけど」

「香奈は香奈だからね。一高生とか関係なく香奈なんだよ」

 うまいことを言って煙に巻かれたように香奈は感じたが、そんなことが言えるくらいに旧友も成長したのだと好意的に思うことにした。

 カラオケボックスで意外なほどつばめがいい調子で歌って、バーガーショップで発散したエネルギーを補充して、その日はお開きになった。

「今日すごく楽しかった。また遊んでよ、つばめ」

 満足げに笑った裕美に、千絵も同意の声を上げた。

「私も。次までにまた香奈の面白い話を仕入れておくね」

 よろしく、と裕美は歯を見せて笑った。自分も負けていられないと香奈は敢えて言葉に出すと、三人とも絶対にそうは思っていないようなにやけ顔で、がんばれなどと言ってくれた。


 涼しいと思っていたはずの風が時折寒いと感じられるようになった頃、香奈はつばめに誘われて駅前に出てきた。

 待ち合わせ場所の銅像前に五分前に到着した香奈は、すぐに先に来ていたらしいつばめを見つけた。駆け寄る前につばめの方も香奈を見つけて迎えてくれた。おはようとにこやかに挨拶するつばめの笑顔は、いつもよりも輝いて見えた。

「なんかつばめ、気合入ってない?」

「うん、けっこうがんばってるよ。だから早速だけど、行きましょ」

 つばめは香奈の手を取って、脇のアーケード街へ入っていった。冬物の服を見る約束だった。今の時期ならばそれなりのものがそれなりに値引きされているはずと、つばめは意気込んでいた。

 そう張り切っていた割につばめが熱心だったのは、むしろ香奈の服選びだった。香奈の好みを聞いては、あれこれ持ってきて合わせてみたりする。香奈が首を傾げると、また手を引いて別の店に向かう。その様はかいがいしいとさえ言えそうだった。

 もともと香奈はあまり身なりに気を遣わなかったし、着るものはたいていジーンズショップで適当に調達していた。もちろん今日着ているものもそうで、気合の入ったつばめと並ぶとちょっとちぐはぐな感じがあった。

 つばめもそれを感じて、それで先に香奈の服を選ぼうとしているのかもしれないと、香奈は他人ごとのように思った。大人の女の人が着るようなものを合わせられても、香奈は今ひとつ実感が湧かずにいた。つばめは飽きもせず、次々と香奈があいまいに言った好みに合いそうなものを選んで持ってくる。

「つばめがこんなにおしゃれ好きだったとは、知らなかったよ」

「引いた?」

 香奈の目をのぞきこむつばめの顔が、香奈にはやはり輝いて見えた。外でもそう思ったのだから、店内の照明とか光の加減とかではなくて、つばめ自身が輝いているのだと思う。

「ううん、なんか感心してる」

 香奈の言葉をどうとったかつばめはほんの少し目を細めて、それからまた別の服を香奈に差し出した。試着してみようと思ったのは、つばめが選んでくれるものが香奈の好みに近づいてきたのか、それともただ香奈が繰り返しに倦んできたのか。

「思った通り似合ってるよ、香奈」

 単品で見るとけっこう女の子女の子している気がしていたが、意外と今日着てきたジャケットと合っていて、香奈は買ったその場で値札を取ったそれに着替えて店を出た。次は自分だと言って、つばめは三軒前に入った店に香奈を引っ張っていった。

 さっき買ったばかりにも関わらずもうお気に入りになれそうな服を見つけてくれたつばめに感謝して、香奈も同じようにしたいとつばめの好みを聞いた。しかし見る目を養っていない香奈に、つばめと同じことなどできるはずはなかった。散々迷って、つばめを苦笑させるばかりだった。

 それでも考えてどうにか一枚つばめに差し出すと、つばめは香奈を連れて大きめの鏡の前に立った。

「ちょっと、違うかな」

「ごめんねつばめ。私、ちゃんと選んであげられなくて」

「そこで謝られると困るな。せっかく楽しいんだから、香奈にも楽しんでいてほしい」

 そう言われても、香奈は気後れを振り切ることはできなかった。そんな香奈の顔を鏡越しにのぞきこんで、つばめは少し思案顔になった。

「じゃあこうしよう。香奈が選んでくれたのが一番気に入れたなら、何かおごってあげる」

 香奈は物に釣られようとする気にはなれなかった。しかしつばめが気を遣ってくれていることは、わかりすぎるほど感じていた。だから、言ってしまっていた。

「そうして私に勝ちを譲ってくれるのは」

「ないよ。今日の私は妥協するつもりは微塵もないんだから」

 それなら乗ってあげよう、香奈は勝負ごとに釣られたことにしておいた。手を抜くわけにはいかないなどと義務的に考えていたのは最初だけで、選んでみてはつばめに却下されることが香奈にはだんだん悔しくなっていたのだった。

 何軒も回ってようやく一着を選んだとき、二人は周りの客が目を向けるくらいに笑いあった。買ったその場で値札を取って着替えるつばめを待つ間、香奈は心地よい疲労感さえ感じていた。

「お待たせ。ごめんね、私の勝ちで」

 結局、つばめが買ったのは自分で選んだものだった。つばめには珍しいカジュアル系だったことが香奈の意表をついていたが、着替えてみると大人に見えるのが不思議だった。

「選びに選んだかいがあったね。きれいにあってるじゃん。これじゃ私のおごりでもしょうがないかな」

「いや、私が勝ったら香奈におごらせるなんて一言も言ってないけど」

 確かに、そんな約束はなかった。香奈は口をぽかんと開けてしまった。つばめが小さく笑って香奈はようやくそれに気づき、慌てて口元を押さえた。それがさらにつばめを面白がらせたようでひとしきり笑ったが、香奈が苦情を言うよりも先につばめが意外なことを言った。

「私、ちょっとずるかったことはあったけどね。香奈に合わせて選んでたって言わなかったから、香奈は私の言った好みだけを追ってたでしょう」

 つばめの言葉に、香奈は怒るでもなくうなずいた。

「その条件がなければ、もしかしたら香奈の勝ちだったかもしれない。それくらい、香奈は私のことわかってくれてたんだよ」

 機嫌のいい表情を見せるつばめに、香奈も悪い気はしなかった。その顔が照れたように崩れそうになった。

「それが嬉しいから、今日は私がおごっちゃう」

 そう言ってつばめは香奈の手を取って、すたすた歩きだした。アーケード街の奥の小さな喫茶店で、制限時間内に食べれば無料というジャンボパフェを二人で必死になって平らげた。


 年の瀬が押し迫ってきたこの頃、香奈には余裕がなかった。理由はいくつかあるが、ひとつは高校生が避けて通れないもの、期末テストである。

「これってどう訳すの? 慣用句っぽい何かだっけ?」

 そんな訳で、香奈は休み時間も方々に駆け込んでは質問を浴びせていた。ある者はそれを勉強熱心と感心し、ある者は少々面倒そうに顔をしかめ、またある者はこれまでなかったことに不審そうな目を向けた。

 そんな香奈に不快そうな表情を向け始めたのは、つばめだった。

「ねえ、香奈。確かに私じゃ何でもすぐに答えることはできない。でも、時間が取れればだいたいは教えてあげられると思うの。だから今度の休みに、一緒に勉強しよう」

「ゴメン、今度の休みも予定が入っちゃってるんだ。せっかく何度も誘ってもらってるのに、本当にごめんなさい」

 香奈はつばめを避けているつもりはなかった。休みの日に都合がつかないことも嘘ではなかったし、休み時間に駆け回るのはそれぞれ得意分野としている友達を当たっていたからだった。だから何でも平均点以上ではあっても飛び抜けてはいないつばめのところには、なかなか足が向かなかった。

「そう、それなら仕方ないかな」

 不満げに口を尖らせたつばめに、香奈は内心で両手を合わせて謝った。つばめに面と向かって謝れなかった事情、それは香奈に今余裕がない別の理由なのだが、それは香奈の家の部屋に伸びていた。

 編みかけの毛糸のマフラー。去年、高校受験の香奈のために母が編んでくれた手編みのマフラーを、今度は香奈が編んでクリスマスに一年お世話になったつばめにプレゼントしようと目論んでいた。かなり前から母に教わって始めていたのだが、初めてのことで慣れないせいか思いの外進んでいなかった。

 今のところ、手伝うと言ってくれる母の世話にはなっていない。しかしそれで間に合うのか怪しくなってきた。テスト勉強をするはずの時間にしわ寄せが行かざるを得なくて、それが休み時間のあの行動になっていた。その事情はもちろん誰にも言っていない。

 期末テスト直前の週には、さらに様相が変わっていた。寝る間も惜しんでという言葉がそのまま当てはまるほどに香奈は追い詰められていて、隠せないほどにやつれていた。それでも成績に自信のない香奈は休み時間をテスト勉強に充てるしかなかったのだが、聞いて回る先々で心配の言葉が先に立ってそれもはかどらなかった。

 変わっていたのは、それだけではなかった。

「あんまり言っちゃいけないんだけど、実はつばめが来てね、香奈を止めるように言われてるの。実際香奈フラフラみたいだし、ちょっと無理しすぎなんじゃないの?」

 それを教えてくれたのは、香奈とつばめの共通の友達のひとりの里子だった。これまでもつばめ自身からも何度となく無理はするなと言われていたのだが、自分以外からも言わせようとしていたらしい。

「つばめが、わざわざ?」

「うん、香奈とどんな話してたのか聞かれてね。まあ、時間がないって香奈が急いでたから実際聞かれた問題に答えてただけなんだけど、ずいぶん聞かれてからそう頼まれたの」

 里子の話に香奈はかすかな不快感を覚えた。なぜそれを感じたかはわからなかったが、少なくとも里子に対するものではないので、香奈は大丈夫だと笑って見せた。

 その日の午後の休み時間にも、香奈はつばめから寝不足になってまで勉強しても意味がないといったようなことを聞かされ続けた。本当のことを言えない香奈は生返事を返すことしかできず、つばめはそんな香奈に苛立った様子を隠さなかった。香奈にできたのは、振り切るように教科書を開くことだけだった。

 しかしそれでつばめが引き下がったわけではないのは明らかだった。試験前の緊迫感とは異質の緊張感が香奈とつばめの間に濃く漂っていて、何気ない会話などできそうになかった。香奈はそのことで余計に疲れていた。テストもマフラー編みも早く終わらせてしまいたかった。

 テストが近づくにつれて周りにもテスト勉強に疲れたような顔が増えて、香奈のそれもあまり目立たなくなっていた。改めてテスト勉強をすることはないと言っていたつばめも珍しくそういう顔をしていて、それがまた緊張感にある圧力を香奈に与えていた。

 週の半ばを過ぎた日の昼休み、この日も香奈は食後のわずかな時間も逃したくなくて、次の授業で使う教科書とノートを開いた。しかし読もうとしたとたんに教科書が目の前から逃げていった。驚いて顔を上げると、つばめが香奈の教科書を手にして香奈を鋭くにらみつけてきた。それから香奈が声を上げるよりも早く、くるり背を向けて教室を出ていった。

 速足でしかし逃げるでもなく、つばめは階段を昇っていった。追いついた香奈が、返して、と言ってもそれには答えず、それでも香奈を振り切ることはせずに屋上へと上がっていった。

「もういい加減にして」

 屋上に着くなり、つばめは香奈の教科書を抱くようにして、泣くのを抑えているかのような声を絞り出した。

「香奈、絶対無理してる。フラフラしてるのも見た。このままじゃ香奈倒れちゃうよ」

 すでに数えきれないほど同じことを聞かされ、さらに貴重な時間を潰された香奈には、怒りしか湧いてこなかった。

「私の教科書、返してよ」

 香奈は力づくで教科書を奪い返そうとした。つばめの腕を振りほどくことができずに胸の中で教科書が揉まれて、しわくちゃになってしまう。それが香奈の癇に障った。

「つばめ!」

 声を荒らげた香奈に驚いたのか、つばめが一瞬硬直した。その隙に教科書を取り返した香奈は、つばめを置き去りにして教室に戻った。それを境に、つばめから何か言ってくることは、間接的なものさえ一切なくなった。

 週が明けてテスト期間が終わり、終業式の前日になってようやく、香奈が編んでいたマフラーは完成した。渡したかったつばめとはもう何日も口をきいていないが、それでも香奈は編む手を止めなかった。

 折り畳んだマフラーを両手に乗せて、香奈は呆然としていた。せっかくがんばったのに当のつばめに邪魔されたという嫌悪感が、香奈の中に消しがたくあった。マフラーには渡すべき相手の名前が編みこまれていたが、しかしその思いが渡すことを拒んでいた。

 いったい自分は何をしていたのか、何に夢中になっていたのか、何もわからないことに苛立った香奈は涙をこぼしそうになった。しかし刹那に浮かんだマフラーを汚してはいけないという思いが、それを遮った。香奈は自分では使えないマフラーを、洋服タンスの奥にしまいこんだ。


 年が明けた新学期、香奈は真っ先につばめに去年の身勝手を謝った。

 あのようになる前に早めに書いてあっただろうつばめの無邪気な年賀状が、香奈に冷静さを取り戻させた。香奈も親に言われて早めに年賀状を出していて、それが話題のきっかけになってくれた。

 香奈はマフラーのことは伏せたまま、ただ身勝手だったとしてひたすら謝っただけだったので、つばめが納得してくれたかはわからない。それでもつばめは香奈をなじることもなく、許してくれたようだった。

 すれ違っていた時間を埋めるかのように、つばめはいつも香奈のそばにいてくれた。つばめの穏やかな笑顔が、香奈がまだ抜け出せずにいたぎこちなさをすぐに払ってくれた。休日も、毎週のようにつばめが香奈をどこかに連れ出して遊んでくれた。

 これまで以上に仲良くなれたと香奈は満足していた。しかしそのはずだった香奈にある疑念が湧きだしたのは、寒さが最も厳しい頃のことだった。

 久しぶりに千絵から電話がかかってきて土曜日に裕美と三人で遊びに出かけたその翌週、教室に入るなりつばめが飛んでくるかのように香奈に駆け寄った。

「二週連続で用事って、また何かあった?」

 先々週は法事があって、遊びに行けなかったのだった。それはつばめにも伝えてあった。そして先週は、と思ったところで、香奈は肝心なことを思い出した。

「中学の友達、前につばめも会った千絵と裕美と三人で遊びに行ってたの。言ってなくてゴメン」

 時間がないときに話したからだったか、用事とだけ言ってその中身を言わないままだった。改めて言わなければならないことでもないと思って、そのままにしてしまったのだ。

「そっかー、私も久しぶりに会いたかったな」

「本当にゴメン。今度また一緒に遊ぼう」

 ここまでは何ともなかった。しかし次につばめが口にした言葉に、香奈はいつか感じたようなかすかな不快感を覚えた。

「楽しみにしてるよ。でもね、用事とかあるときは必ず私に言ってね」

 つばめのどこにも嫌味なものは見えなかった。それでも香奈はその不快感を拭い去ることができず、あいまいなうなずきだけを返した。

 負の感情というものは、一度生まれてしまうと雪だるまのように転げまわり、大きくなるものらしい。かすかだった不快感が、いつしか香奈の中でそれが何かと言えるほどのものになってしまっていた。

 例えば、香奈がちょっと鼻をすすったときにつばめがカバンからティッシュとマスクを取り出して渡してくれた時。例えば、香奈が放課後に担任に呼び出されたときに終わるまでつばめが待っていてその理由を細かく問われた時。そんな折々に香奈が感じるようになったのは、圧迫感だった。

「大丈夫だよ。これくらい、何ともないから」

 香奈が笑い飛ばそうとしても、つばめは何かあってからでは遅いと不安がってばかりいた。そのような繰り返しのうちに、香奈はいつしかつばめを不安がらせないように身構えるような気分になっていた。

 これまで以上に一緒にいるということはこれまで以上に細かいものが見えてくるということで、香奈の気分が態度ににじみ出ていたのか、つばめは程なくそれを感じ取ったようだった。

「最近の香奈、私のことを避けてない?」

 何でもない雑談をしていたはずだったが、いきなりつばめが香奈の両手を包みこむように取って、真顔になって問いかけた。

「避けるとかあるわけないじゃん。私たちはいつも一緒だし」

 また、圧迫感が香奈を襲う。香奈はどうにかつばめに笑いかけて見せたが、それでつばめが納得したようには見えなかった。香奈の手を包むつばめの手にわずかに力が加わって、つばめの体温が伝わってきた。

「一緒にいても遠いって言うか、本当に香奈がここにいるのかって感じがして、ときどきすごく不安になるの」

「大丈夫、私はここにいる。それにほら、手だってつないでるから間違いないでしょう?」

 その言葉を確かめるように、つばめは香奈の手の輪郭をたどるようにそっと撫でた。体温から何かを感じ取れたのか、つばめはようやく安心したように表情を緩めた。香奈も表情を緩めたが、それは圧迫感から解放されたこの瞬間に安心したからだった。

 次の日曜日は、珍しく香奈がつばめと里子を誘って映画館に行った。香奈が好きなアクション映画の続編が上映されたので、それを見たくて二人はついでに誘ったようなものだった。

「女の子が連れ立って見に行く映画じゃないよね、これは」

 映画館の入口で予告映像を見た里子が肩をすくめてそう言って、違う映画にしないかと提案した。

「他に目当てもないし、せっかくの香奈のおすすめだから、これにしようよ」

 しかしつばめは一考もせずに、香奈の手を取ってチケット売り場へ向かった。開始時刻が迫っていたために考える時間はなく、里子も反論せずに後についてきた。人気作で開始間際のことだったので席はかなり埋まっていて、取れた席は最前列に近いところの右端というやや見づらい場所だった。

 映画はとにかく主人公の視点で展開されるガンアクションがすごかった。つばめや里子やほかの観客が思わず声を漏らすような場面が、何度もあった。駆け込むところを狙い撃ちされそうになって間一髪で踏みとどまってよけるシーンなど、スローモーションで弾丸が画面を横切る間、香奈の息はずっと詰まったままだった。

 そのままだったら、香奈は窒息していたかもしれなかった。その呼吸を取り戻させたのは、右手に触れた感触だった。それは右隣に座ったつばめの左手で、香奈がその左腕を伝ってつばめの顔をのぞきこむと、つばめも気づいたようで首を傾げて見せた。暗がりの中で、その表情までは見えなかった。

「いやあ、とにかく大迫力だったね。私はずっと三人で来てることを忘れちゃっていたよ」

 上映終了とほぼ同時に、里子が興奮冷めやらぬ様子でまくしたてた。つばめの方は興奮を言葉にできないようで、上気した顔で同意だと言うようにうなづいた。二人のいい評価が香奈にはうれしくて、しばらくは香奈が一人で前作の良さなどを語り続けていた。

「熱く語ってるところを悪いんだけど、寒いから早くどこかに入ろうよ」

 映画館を出てもさらに語り続ける香奈に呆れたように、つばめがたしなめるように言った。香奈が何も考えずに適当に歩き出したせいで、休むのに適当な喫茶店などが少ない通りに出てしまっていた。

「熱くカラオケなんかいいんじゃない? なんか適当に頼みながら」

 どうしようか香奈が困っていると、里子が少し先のカラオケボックスの看板を指さして助け舟を出してくれた。渡りに船と、香奈もつばめもそれに乗った。部屋に入るとつばめが一人掛けソファーに里子を、長ソファーに香奈を掛けさせて、飲み物を注文した。香奈は里子にリモコンを渡して、最初の一曲を譲った。

「ありがと。里子の次、つばめが入れていいよ」

 つばめは少し目を泳がせて考えるような表情をしたが、すぐに香奈に目を戻して、それなら遠慮なく、と笑った。選曲した里子からリモコンを渡されたつばめは、迷うそぶりもなくリモコンを操作していた。

「ね、これ。一緒に歌ってくれる?」

 歌っている里子の声にかき消されないようにつばめが体を寄せてきて、香奈にリモコンの画面を見せた。それは香奈も知っているデュエット曲だったので、一緒に歌うことにした。

「おーおー、仲いいねお二人さん」

 間奏に入ってすぐに、里子がまるで中年親父のような野次を飛ばした。からかわれた気分の香奈は顔をしかめて見せたが、隣で歌うつばめはそんな里子に見せつけるように香奈の手を取っていかにもうれしそうに微笑んだ。

 対抗するように里子もデュエット曲などを入れてきたので、三人とも休む間もなく歌っていたようなものだった。

「いやいや、まさかカラオケで必死になるなんて思わなかったよ」

 里子が降参したところで、やっと目まぐるしい時間は終わった。選曲に困っていた香奈は思わず、助かった、と脱力した。だらしない様をつばめが笑ったが、歌い疲れていたせいかどこか変な笑い方だった。それがおかしかった香奈も笑い返したが、同じように変な笑いしかこぼれずに里子にまで笑われる始末となってしまった。


 空気が浮ついていると、香奈は自分になじまないものを感じていた。しかしどこにいたところで、それからは逃れられそうになかった。バレンタインの季節である。

 記憶にある限り、香奈にとってその日はチョコレートを食べる日だった。自分で買って自分で食べるのは寂しいから交換して食べようなどという集まりに入ったり、試作品の味見という役得が回ってきたり、去年などは意中の人に渡せなかった千絵が泣きながら開封したものを一緒にもらったりしたのだった。

 そうして恩恵にあずかってはいたが、一方でそのような行動を起こそうと思うことのない自分が周囲とは違うということが浮き彫りにされることに、かすかな居心地の悪さも感じていた。

「香奈。今日の帰り、付き合ってよ」

 今年はその空気の中をただ漂っているだけでは済まなかった。つばめが絶えずバレンタインの話を持ち込んでくるからだ。自分で作るかお洒落なものを買うかを決めかねていて、おいしく作る方法だったり人気のお店の噂だったり、話の中身は毎日くるくる変わっていた。

 香奈が最初に、何の気もなく誰に渡すのかと聞くと、つばめからは香奈の名前が返ってきた。その時点では、香奈は深刻なものを感じていなかった。これまでのように、友達同士で交換するものだと思ったからだった。

 しかし香奈は日を追うごとに、それが間違っているのではないかという疑問を強めていた。熱の入り方が明らかに違う。例えて言えば、去年千絵がそうだったような本気が、つばめにもあるかのようだ。

 拒絶とまではいかないが、気圧されたように香奈は快諾ができなかった。

「お願いだから、ね」

 つばめが香奈の手を取って、さらに目でも訴えかけた。

「折角だからさ、他にも誘ってみんなで見に行かない?」

 香奈は何となく、そうしたいと思った。

「どうして? それはちょっと違うと思う」

 つばめは少しだけ拗ねた様子を見せて、合わせていた視線をやや外して香奈に問いかけた。そうしたいと思っただけで理由を挙げることができなかった香奈は、結局その日の放課後はつばめに付き合って駅前まで出たのだった。

 バレンタイン前日ともなってくると、教室の空気は間接的に体の内側にまで届きそうな熱を帯びているかのようだった。その熱に浮かされたような者もいれば、迫り来るものに緊張を隠せない者もいた。

 つばめが面白くないことを承知で、香奈はその日の昼休みに里子を誘った。ひとりだけではこの圧迫感に耐えきれなくなりそうだった香奈にとって、バレンタインをただ傍観しているだけの里子の存在は貴重なものだった。

「何か不思議な感じ。ここにいると明日のためにあくせくしているのがおかしい気がするね」

 自分で言ったそのままなつばめが、ひとりだけ浮いていると思ったのか、熱心に続けていた話を途中でやめて苦笑した。

「まあ、おかしくはないんじゃないの? 全体から見るとむしろ私の方が異常だろうしね」

 この空気に違和感を持っている香奈とは違い、里子はむしろそれを楽しんでいるようだった。つばめの苦笑を軽く受け流すように、わざとらしく肩をすくめて見せた。

「もっとも、私だって無関係じゃないよ。お父さんとお兄ちゃんには毎年チョコあげてるから、明日帰りには買いに出かけるし」

「それじゃ遅すぎない? 明日じゃもうだいたい売り切れちゃってるでしょう」

 昨日もお店を回っていたと言っていたつばめが心配そうに忠告したが、里子は大丈夫だと笑っただけだった。

「つばめは真面目だなあ。あげたっていう気分だけが必要だからね、スーパーのお菓子コーナーにあるものなんかを適当に買うだけだよ」

「そんな義理チョコ、本当に実在するんだ」

 つばめが呆れたように脱力したが、香奈も内心で同じことを思ったのだった。ただし、自分に話の矛先が向くのを恐れていた香奈は、それを口にすることは控えて聞き手に徹した。

 弁当箱を片づけ、つばめがトイレに立ち、里子は借りていた席を元に戻した。自分の席に戻ろうとする里子を、香奈は呼び止めた。その声が自分でも思っていなかったほどに鋭くて、呼んだ里子以外の視線まで集めてしまった。それで香奈は硬直してしまったが、里子がそんな香奈を廊下に連れ出した。

「どこへ行くの?」

 里子を呼んだはずの香奈の方が、戸惑ってしまった。

「どこでもいいよ。歩きながらでもよければ、話聞くけど」

「それなら、ここでいい。里子にね、聞いてみたいことがあるの」

 香奈は今度は声を潜めるようにして話し始めた。

「つばめの様子が最近おかしいと思うの」

 最初の一言に、里子は首を傾げるだけだった。同意するでも反論するでもなさそうだったので、香奈は思っていることを続けて口にした。

「いつも私とべったりしている、見ててそう思わない?」

「冬休み前にケンカしてたのが仲直りできたんだって、私は思ってたよ」

「それはそうなんだけど、なんかこう……怖くなるくらい近くて」

「そういうの、嫌なの?」

「押しつぶされそうな気がして、怖い」

 里子がちゃんと聞いてくれていることに安心して、香奈は自分が感じている圧迫感のことまで打ち明けてしまった。

「もしかして、冬休み前のケンカの原因ってそれなの? あの時の香奈、つばめからちょっと離れてた感じじゃん」

 周りから見るとそう見えるのかと、香奈は内心で改めて去年のことを後悔した。しかし、当のつばめにさえ言わなかった本当のことを里子に言えるはずはなかった。

「ううん、あれは違う。手っ取り早くそれぞれ得意な人を当たってただけだった」

「なるほど」

 里子はそれで納得したようだった。

「それで、香奈はどうしたいの? あ、ちょっと言い方きついか。どうなればいいと思う、のかな?」

 香奈の顔をうかがいながら、里子は慎重に言葉を選んでいるようだった。言えないことがある香奈もまた言葉を選ばなければならず、すぐには返事ができなかった。それでも里子は焦れる様子もなく、ただ香奈を待ってくれていた。

「私は、前みたいに」

 しかしようやく香奈が言葉を発した途端、それを鋭く止めた。後で電話して、とささやいた里子の視線の先に、教室に戻ってくるつばめがいた。

「あれ、こんなところで何の話?」

「何でもない、何でもないよ」

 慌てて口走った香奈に、二人の視線が刺さってきた。

「気になるじゃない、わざわざ場所を変えて話するなんて。何か都合の悪いこと?」

 言われてみればもっともな疑問で、香奈は助けを求めるように里子の顔をちらりと見た。しかしそれがまた悪かったようで、それを目ざとく見つけたつばめが表情を曇らせた。

「まさか、私に内緒のことなの?」

 つばめが探るような視線を香奈に向けた。避けたくなるほどの圧迫感を香奈は感じたが、ここで逃げてしまってはつばめの疑惑を肯定するようなものだった。

「教室に充満しているチョコの話題からちょっと逃げたくて廊下に出たけど、この様子じゃどこにいても同じみたい」

 脇からの里子の声で、香奈に掛かっていた圧迫感がそれた。

「里子はそんなにバレンタインが面倒なの?」

「面倒だとか、嫌だとかとは違うよ。ただ、本気でがんばってる話の中にいるとね、適当に買って済ます私が悪いことをしてるみたいに思えちゃってちょっといたたまれないんだよね」

 つばめへの答えのはずなのに、里子は香奈に目を向けてしゃべっていた。香奈は余計なことは口にせず、相槌をひとつだけ返して見せた。


 夕食後、いつもの香奈であればテレビを見ている時間に、香奈は里子に電話をかけた。電話はなかなかつながってくれない。ふと、つばめは今ごろ明日の準備に大忙しだろうと思った。

「もしもし。ゴメン、電話出るの遅くて」

「ううん、私の方こそごめんね。こんな時間に電話して」

 声だけでは相手の気持ちがわかりづらくて、何をどう言えばいいのか香奈にはわからなくなっていた。それでしばらくは取り留めもない話をしていたが、意味のない無駄なことだとは頭ではわかっていた。そう思うたび、話はいったん途切れた。

「あのね」

「辛い?」

 何度めかの意味のない話し始めを、里子が遮った。不意に訪れた沈黙の中で香奈は何かを考えていたわけではなかったが、胸の中が沸き立つようですぐに返事ができなかった。どれくらい経っただろうか、沸き立つものが収まったのか、返事をしなければいけないとだけ思った香奈はひとつうなずいた。声に出せなかったそれは、しかし里子には伝わったようだった。

「私が今思ってることを言うね」

 淡々とした調子で、里子が一方的に話し始めた。

「冬休み前に香奈とつばめがケンカをしたとき、私もつばめが言っていた通りフラフラになっていた香奈が心配だった。それが仲直りできてよかったって思ってた」

 香奈はあの時のことをつばめに謝ったが、他には誰にも改めて話をしたりはしなかった。今さらであっても同じように心配してくれた里子にも謝るべきかと香奈は一瞬だけ思ったが、答えを求めている口調ではなさそうだったので黙って里子の話の続きを聞くことにした。

「でもね、香奈がべったりって言ったのを聞いてから、ちょっと違う気がしてきたの。違うって言うのは間違いかな、それだけじゃないって思った」

 里子の言う別の何かが香奈を救ってくれる手掛かりにあるという予感がして、もしかするとただの他力本願な期待なのかもしれないが、香奈は身じろぎひとつせず、呼吸さえもひそめて里子の次の言葉を待った。

「そもそもバレンタインって、好きな人にチョコを贈る日でしょ。つばめが張り切って香奈にチョコを贈ろうとするってことは、そういう気持ちだからじゃないのかな」

 香奈は息をのんだ。放課後の秋の空の下、瞬時のうちにあの情景が鮮やかに脳裏に浮かんだ。

「もしそうだとしたら、何かの答えを出さないといけないと思う。ただ、本当にそうなのか違うのか、下手に確かめようとするわけにはいかないよね」

 里子はまだ何かを言っていたが、それは香奈の耳元を通り過ぎるだけだった。そして気がついたときは、電話が途切れたことを示す信号音だけが規則的に繰り返されていた。

 翌日、バレンタインデー。この時期には珍しく、朝からの曇天だった。雪が降るかもしれないとニュースで伝えられていたので、香奈は傘を手にしていつもよりも早く家を出た。しかしその足取りは重く、学校に着いた時にはいつもとそれほど変わらない時刻になっていた。

 風はしのげても、日差しがないので屋内も寒い。しかし教室の空気はそんな天気とも、香奈の今の心境とも違って、誰も寒さなど感じていないようだった。

「おはよう、香奈」

 珍しく香奈よりも遅い時間につばめが教室に現れた。つばめが気分がよさげだということは顔を見なくてもわかったが、香奈はその顔を見ることができずにいた。

「おはよう」

 机に目を落としたまま、香奈は挨拶を返した。それを不審に思ったのか、つばめは自分の席に向かわずに香奈の机の前にかがんで、香奈の顔をのぞきこんだ。どうかしたの、と問うつばめの目の下に隈ができているのを香奈は見つけた。

「つばめこそ、目の下に隈作って、大丈夫?」

 その場をごまかしたかった香奈だったが、言った瞬間にそれが失策だったことがわかった。つばめの視線が香奈を捉え、香奈はそれを避けることができなかった。

「本当は香奈に不安なんか持たれたくなかったけど、それくらい今日は大事な日だから。ごめんね、そこはちょっと見逃して」

 つばめは視線で香奈を捉えたまま、ほんの少し目を細めて笑った。逃れられない香奈も笑みを返したが、それは心底からの笑顔であるつばめとは違い、気圧されたようにひきつったものだった。

 チャイムが鳴ってつばめが自分の席に戻り、ホームルームを経て授業が始まった。しかし、今日の香奈はそれどころではなかった。何事もなく終わるはずはない今日をどうするのか、考えは何ひとつまとまらず、香奈は焦るばかりだった。

「お昼、一緒していいかな?」

 昼休み、香奈の前の席が空いたのを素早く見つけて飛び込んできたつばめの脇に、のんきな声の里子が立った。渡りに船と香奈が承諾すると、一瞬だけ表情を曇らせたつばめもそれには逆らわなかった。

「いやー、今日こんなだから落ち着けるところがほしくって」

「それがここなの?」

 つばめの返事には嫌味が少しにじんでいたが、里子はそれに気づいていないようだった。

「きゃあきゃあ騒いでるところよりはずっとましだよ。意外とないもんだよ、そういう貴重なところは」

 相変わらず里子はのんきな声をしていたが、一瞬だけ香奈に目配せをした。気づいていないなどということではなかった。しかし里子はそれを態度に出すことはなく、悠然と弁当箱を開いた。

「二人に、頼みがあるんだけど」

 食べ終わっておしゃべりが途切れたのを見計らって、香奈が声を上げた。

「何かな。なんか期待してもいいこと?」

 つばめが楽しげに問い返したので、期待されると困る香奈は大きく首を横に振った。

「今日の授業、全然聞いてなくて。後でノート見せてくれないかなって」

 二人は一瞬だけきょとんとした顔を見せた後、弾けるように笑った。

「そういうことならお安い御用、と言いたいけどね。こんな日に真面目に授業をしてもしょうがないって先生も諦めてたらしくて、まともに進んだのはひとつもなかったよ」

「こんな時でも真面目だね、香奈は」

「前みたいにテスト勉強で苦労するのは、もう嫌だったから」

 実は半ば本心からノートを頼んでいだ香奈は、茶化されたことに腹が立てたようにむくれて見せた。

「それなら放課後、私がノートを見せてあげる。その代わり、終わったら付き合って」

 つばめの言葉に反応して、里子が香奈に鋭く目を向けた。どうせ避けることはできなかったのだと、ようやく香奈は思いきることにした。ひとつうなずいて見せたが、それは里子にも向けたものだった。

「ありがとう」

 これも里子にも向けたものだった。それは通じたらしく、香奈を見つめたままの里子の視線はそこで伏せられた。


 本当に今日の授業の内容は薄かったらしい。つばめのノートに書き込みが少なかったので、香奈は手っ取り早く丸写しさせてもらった。

「私も全部ちゃんと聞けてなかったから、大事なところが抜けてたらごめんね」

 香奈が礼を言うと、つばめは照れたような笑いを浮かべた。それからノートや筆記用具をカバンにしまうと、香奈を促して廊下に出た。どこの教室にも誰かを待っていたり、おしゃべりをしている女子が何人か残っていた。

 つばめはどこに行くか言わずにいたが、香奈には見当がついていた。口数が急に減って、階段を上るときには二人とももう無言だった。どうせ避けられない、香奈は心中でそれを繰り返すばかりだった。

 屋上へ出るドアを開けると、冷たい風が二人を取り巻いた。天気予報は外れて、雪どころか雨さえ降らず、午後になると晴れ間さえさしていた。

「寒いから誰もいないと思ってここまで来たけど、ちょっと厳しいね」

 つばめは肩をすくめてちょっと笑いかけた。寒さに震える香奈も同じようなものだった。

「風の音が強くて、ちょっと声が届きにくいかな?」

「それは大丈夫だけど、長くいるのはきついね」

「これは失敗だった、ごめんね。だけど誰にも邪魔されたくなくて、どうしてもここしか思いつかなかったの」

 そう前置きしてつばめはカバンを脇に置き、中からペンケースくらいの大きさの、ラッピングされた紙箱を取り出した。つばめはそれを両手で持ち直し、香奈の正面に立って香奈の目をまっすぐ見つめた。風の音の中にも関わらず、つばめが幾度か目を閉じて呼吸を整えたことさえ、香奈には感じ取れた。

「私の好きって気持ち、受け取ってください」

 つばめのまっすぐな目に吸い込まれるように静止していた香奈の胸元に、つばめが紙箱を差し出した。わかっていたことだった。そして、避けられはしなかった。でもそれが、どうにかなってしまいそうなくらいに、辛かった。

 香奈は手を伸ばせなかった。捧げ持つつばめの腕は、寒さのせいか震え始めていた。それでもつばめは、まっすぐに香奈の目を見つめて待っていた。香奈にはそれが、逃げ出したくなるくらいの圧力だった。

「ごめんなさい」

 もう何分か経過したかという頃、ようやく香奈は絞り出すようにしてそれだけつぶやいた。しかしそれは風にかき消されてつばめの耳に届かなかったのか、つばめは何の反応も示さなかった。それでも、今言ったことをなかったことになどできない。

「私、それを受け取ることはできない」

 つばめの目が、口が、驚いたように開かれた。まっすぐ伸びていた腕がやや曲げられて、紙箱は二人の間の半端な位置を漂った。

「どうして」

「ごめん」

 どちらも、かすれるような声だった。それでもつばめはまだ紙箱を下ろさず、そうしてまたどちらも互いを見つめたまま静止した。寒さに震えが来たが、震えるままに静止していた。

「どうして!」

 捧げた腕を胸元に引いて、つばめは叫びながら香奈に詰め寄った。

「私が香奈のこと好きって知ってるでしょ? 香奈も私が好きって言ってくれたじゃない」

 放課後の秋の空の下のこと、それはすべて事実だった。しかしそれは事実ではあるが、違う。

「私は、そういうつもりで好きって言ったんじゃなかったの。そんなふうにバレンタインチョコをもらうような、そういう好きじゃなかった」

 香奈はそれを誰にもわかるように説明することができなかった。ただ思うことをできる限り伝えるしか、できなかった。

「だからごめん。つばめの好きが、辛かった。もう正直に言うとね、押しつぶされそうなくらい、辛かった」

「うそ」

 一歩後ずさったつばめが、口の動きだけでそう言った。香奈は首を横に振って答えた。

「私は、ひとりで……」

 うつろな表情をしたつばめが、震えながら言葉にならない何かを口にした。

「つばめは私の好きな友達。つばめがいてくれたから、私はここで友達ができたの。それくらい大切な友達。だけど」

 思うことをそのまま口に出すしか、香奈にはできなかった。しかし、つばめがそれを遮った。

「もう聞きたくない! そんな言葉、いらない!」

 紙箱を脇に投げ捨て、駆け出しざまにカバンを手にして、つばめは階段を駆け下りていった。香奈はそれを追うことはせず、しばらくの間捨てられた紙箱をぼんやりと眺めて立ち尽くしていた。それを拾うことは、できなかった。


 あれから二年、香奈とつばめは険悪な仲にまではならなかった。挨拶も交わせば、おしゃべりもした。ただしそれは、他の友達を介してだけのことだった。直接二人だけで会うことは、互いに避けていた。

 里子をはじめとして友達が何人かできていた香奈は、それで孤立することはなかった。だから、充実した高校生活を送ることができた。しかしつばめのことについては、後悔ばかりだった。

 進学も無事に決まり卒業を間近にして、思うことはそればかりだった。春に向こうからやってきた出会い、秋に見た涙、暮れのすれ違い、真冬の受け取らなかった贈り物。

「今でもこれ、一番のお気に入りなんだよね」

 洋服タンスに畳んでしまってある、二年前に彼女に選んでもらった服。あれからいくらがんばって探してみても、それ以上に気に入れるものは見つかっていない。自力で探すことを諦めて、里子や裕美や千絵などを引っ張り回しても、結果は変わらなかった。

 思い出したように、香奈はタンスの別の引き出しを開けた。

「これ、まだあったんだ……」

 彼女に感謝を伝えたくて、懸命に編んだマフラー。懸命になりすぎて彼女とすれ違ってしまい、せっかく完成できたにもかかわらず渡すことができなかったそれが、まだここに残っていた。

 彼女の好きを、香奈は受け止めることができなかった。しかし、このマフラーを編んだ時の気持ちに偽りはなかった。いや、それは過去にだけあるものではなく、今も同じように思う気持ちなのだ。

 伝えたい。不意に、切ないくらいに思った。なぜ今頃になってという理由や、どのようにしてという手段や、その後にどうなりたいという展望など、どうでもよかった。許されたいとさえ思わなかった。

 香奈は翌日から、カバンにマフラーを忍ばせて登校した。しかし二年も直接接することを避けてきたことによる壁は思いの外に厚く、つばめを目の前にする機会が何度もあったにもかかわらず、香奈はなかなか言い出せなかった。月をまたぎ卒業式が間近になって、いよいよ香奈は追い詰められてきた。

 眠りが浅く、早くに目が覚めてそのまま早めに登校した朝、珍しく校門でつばめと出会った。

「おはよう」

「おはよう、香奈」

 少しぎこちない香奈を気にすることもなく、つばめはごく普通に挨拶を返した。そのまま香奈を避けるでもなく、しかし並ぶでもなく、校門に入っていく。逡巡しただけ、香奈は数歩つばめに遅れた。

「つばめ」

 その背に香奈は呼びかけた。つばめは、やはりごく普通に足を止めて香奈に振り向いた。

「今日の放課後、屋上に来て」

 つばめに追いつきながら香奈はそう伝えた。つばめは一瞬驚いたようだったが、拒否はしなかった。二人はそのまま並んで、しかし黙ったまま教室へ向かった。

 放課後、先に屋上に来ていたのはつばめだった。遅れて上がってきた香奈に苦情を言うこともなく、つばめは陰にならない場所に香奈を誘った。気温はまだまだ低いが風は弱く、日差しが暖かかった。

「二年前の冬休み前のこと、覚えてる?」

 足を止めたつばめに、遅れた詫びも抜きで香奈は問いかけた。つばめは口を開かず、問い返すような目を向けてきた。

「テスト勉強でいろんな友達のところに頼って回って、週末もつばめからの誘いを断って。あの時つばめ、すごく怒ってたよね」

 香奈の声には、隠しきれない震えがあった。

「覚えてるよ。あの後香奈、すごく謝ってたけど、本当は勝手とかどうでもよかった。ただ香奈が倒れちゃわないか、怖かっただけだった」

 対するつばめは平然としていた。しっかりと香奈の目を見て話をしてくれているが、そんなつばめを香奈はまっすぐ見ることができなかった。

「本当は、隠してたことがあったんだ」

 香奈はカバンからマフラーを取り出した。プレゼント用のラッピングも何もない裸のままのマフラーを、両手でつばめの前に差し出した。

「つばめにありがとうって伝えたくて、ずっとこれを編んでたの。普段の夜も休みの日も、家にいる間はずっと。だから時間がなくて、学校にいるうちになんとか勉強してた」

「そう、だったの?」

 ここまで言って始めて香奈はつばめの顔をまっすぐに見つめた。その声と同じように、つばめは戸惑った表情をしていた。

「つばめとは行き違いばっかだったけど、でもありがとうって気持ちは今だって変わらない。だからこれ、今さらだけど、受け取って」

 香奈は真剣だった。多分、あの頃香奈がつばめから感じた圧迫感と同じようなものを、今つばめは受けているだろう。でも今、一度だけ、それは許してほしい。

「あ、ありがとう」

 戸惑いを浮かべたまま、つばめはマフラーを受け取った。受け取るときに畳んであったものが崩れてしまい、畳みなおすときに編みこまれた名前を見つけて、つばめの戸惑いの表情は驚きに変わった。たっぷり十秒は経ってから、つばめはマフラーを畳むのをやめて首に巻いた。長さが測ったように合っていて、編まれた名前が肩から胸元に垂れて見えた。

「本当に、今さら」

 押し殺したような声で、つばめが言った。

「本当、今さらでごめん。でも、どうしても渡したかった」

「今さらこんな時期に渡されても、次の冬まで使い道ないじゃない」

 今度は香奈が驚いた表情を見せる番だった。それを見たつばめが、初めは抑えたように、しかしすぐにそれも捨てたようにして笑った。申し訳なさそうな苦笑いを浮かべた香奈も、そのうち弾けるような笑い声をあげた。笑い声がふたつ、晴れ空に重なった。


 卒業式と最後のホームルームが終わった教室は、いつまでもざわめいていた。皆それぞれ各地に進学するので、別れを惜しむ声で満ちていた。

「やあやあ皆さん、お待たせしたね」

 担任との写真を撮りに行っていた里子が、手をひらひら振りながら戻ってきた。思った以上の人気で、まだ行列ができているらしい。写真を残すことなど考えていなかった香奈は、他の友達数人と思い出話をしながら里子の戻りを待っていた。

 里子を加えて、他愛もないおしゃべりは続いた。夏休みにでも会いたいと誰からか出てきた話は具体的な日程の話にまで膨らみ、お盆前に連絡を取るということで落ち着いた。香奈も大きくうなずいて、賛意を示した。

「それじゃそろそろ、打ち上げにどっか行こうか」

 その声を機に、皆が動き始めようとした時だった。

「ごめん。私、行けない」

 輪の中でひとりだけあまり口を開いていなかったつばめが、硬い声を上げた。つばめに漂っている場違いな雰囲気が、全員の注目を集めた。香奈にもそれは意外で、思わず足を止めてまざまざとつばめを見つめた。ひと時の静寂が生まれた中つばめは香奈に歩み寄り、その手を取った。

「今から少しだけ、つきあって」

 つばめの顔は伏せられていて、どんな表情をしているかは読み取れなかった。その声音は押し殺したように低くて硬く、香奈は不意打ちを受けたように硬直してしまった。自分が注目を浴びていることがわかるまで、たっぷり十秒はかかっただろう。

 つばめがさらに一歩香奈に近づいて、顔が触れそうな距離で上目遣いにして香奈の目を捉えた。つばめの手がそっと香奈から離れて、香奈はハッとした。

「うん、いいよ」

 香奈が感じたのは、いつかの圧迫感ではなかった。名前はわからないが切ないような何かが、香奈を動かした。そうしなければいけないとしか思えなかった。

「ごめんね、みんな」

 香奈が努めて笑顔を見せて、やっと注目は引いた。一瞬だけ里子と目が合い、里子ははっきりと笑い返してくれた。

「じゃあ、またね」

 いつもと変わらない下校時の挨拶を交わして、里子たちは教室を出ていった。それを見送ってから、つばめと香奈も教室を出た。向かった先は二人の思い出の場所、屋上だった。

 目の前に広がる薄く青い空には、白い太陽だけがあった。日差しが暖かくて、髪をくすぐるような緩やかな風が心地よかった。横を歩いていたつばめが立ち止まり、一歩前に出てしまった香奈は斜め後ろに振り返った。

「来てくれてありがとう」

 つばめは目を細めてうれしそうに笑い、それからカバンの中を探った。

「これ、もらってくれる?」

 軽やかな声とともに差し出されたのは、見覚えのある紙箱だった。何でもないものを渡すように、それは片手で差し出された。一瞬面くらった香奈だったが、そんな香奈を見てもつばめは変わらず微笑んでいるだけだった。

「ありがとう」

 だから香奈も、何でもないもののように受け取ることができた。何でもないもののように、それをカバンにしまった。

「今さらだけどね」

 笑顔の口角をさらに上げて、いたずらっぽくつばめがささやいた。香奈はそれを肯定も否定もできず、ただ微笑んで見せた。

「私ね」

 手にしたカバンをその場に置いて、つばめは踊るようにして香奈の右側に回った。香奈は目だけでそれを追った。

「香奈に会えて本当に良かった。後悔もしたことあったし、もったいないことをしたかもしれないけど、でも今ははっきりそう思えるの」

 芝居がかった動作で、つばめは両手を胸の前で組んだ。香奈はそれも横目で追っていた。

「だからね」

 そこで言葉を切ったつばめは、肩で大きく一呼吸した。その間にすべての表情が消えていた。息をのむ香奈の右腕に、つばめの両手が軽く添えられた。

 ちゅ。

 右頬に、柔らかくて瑞々しい感触が、ほんの瞬間、あった。

「御機嫌よう」

 正面に戻ったつばめが満面の笑みでそれだけを言い、香奈の脇を通り過ぎていった。それから、階段を駆け下りる音が耳に届いた。

 どれくらい立ち尽くしていただろうか。香奈が最初にしたことは、右手で右頬をなでたことだった。卒業したのだと、取り留めもなく思った。

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