わいら
私は一人、塹壕にいる。剣付き鉄砲を一丁と柄つきの手榴弾を一つ、トンガリ付きの鉄兜を一つ、チョコレートを一かけら。それ以外に持ち物はない。空は白いが、それは晴れているからではなく、世界から色彩が失われたからに他ならない。
ホイッスルが鳴った。攻撃開始だ。塹壕から出撃しなければならない。だが、左右は高い泥の壁である。梯子がなければ、到底昇れるものではない。何度か試したが、駄目であった。冷たい雨が塹壕の上に渡した板に当たり、ちらちらと筋を作って垂れてくる。
私以外の分隊員はみな、わいらに食い殺された。わいらは妖怪である。鬼の顔をした大きな体から鉤爪が一本だけ生えた前足が二本伸びている。わいらの後ろを見たことはないから、体の後ろ半分がどのようになっているのか、私には分からない。
わいらに食い殺されるか、砲弾で吹き飛ばされて死ぬか、どちらか選ばなければならない。私は熟考した結果、砲弾に吹き飛ばされて死ぬことにした。
雨がしとしと落ちてくる。もう何年間戦争をしているのか、分からない。空を見上げると、翼に黒い十字を描いた赤い複葉機が飛んでいて、爆弾を落としてくる。爆弾が塹壕のなかで破裂すると、その音は響きを重ねて、バァン、ァン、ァン、と聞こえてくる。
むき出しの土が水を吸って、靴を染み通って、靴下を濡らす。足がひどく冷たく、乾燥した靴下が欲しい。
私はもうこの塹壕に何年もいるはずなのに、道に迷ってしまった。塹壕の壁を支える支柱には案内の矢印があるのに、そこに書いてある字を読むことができない。それは確かに今日まで私が使ってきた言語のはずなのに、読むことができない。読み方を忘れてしまったようだった。
砲弾が遠くに落ちる音に乗せて、わいらの叫び声が聞こえてきた。どうやら、腹をすかしていると見える。だが、こちらは食われてやる気はさらさらない。砲弾で死ぬと決めた以上、わいらにやられないよう全身全霊をもって、動くべきである。
しかし、足が冷たい。このままだと間違いなく塹壕足である。どうせ死ぬ身と決まっていても、塹壕足にはなりたくない。少なくともお国のために戦った古参兵なのだから、もう少し大切にするべきだ。
しかし、お国とはどこの国だったか。とんと思い出せない。私には妻もあり、子もあり、家もあり、勤め先もあったはずなのだが、それらがすっぽり抜け落ちている。最初のうちは家族のために戦うのだと言っている輩が大勢いたが、みなこれことごとく戦死して、今では軍隊の残りカスが戦う理由も忘れて、塹壕のドブに足を埋めているのである。
わいらの鳴き声が聞こえた。先ほどよりも近い。
私は塹壕の道を歩く。案内板の文字を判読できないので、自分のカンが頼りだ。塹壕の上には爆弾で葉と樹皮を吹き飛ばされた無残な木が生えていて、その枝に味方の死体がひっかかっている。鉄の破片を幾度も浴びて、もうボロボロになったが、戦争はまだ彼を痛めつけるべく、枝にひっかけたままにしている。
鉄条網が塹壕の左右を覆ってしまい、ますます塹壕から出られなくなってしまった。わいらに合う前に出撃壕を見つけなければならない。
しかし、梯子は見つからない。道は暗くなり、泥は深くなり、歩きにくくなっている。泥まじりの雨がざあざあと降るようになり、水でけぶった塹壕はいよいよ水がたまり始め、膝まで水が来るようになった。
どうも、私の敵は無人地帯の向こうにいる敵の兵士ではなく、この塹壕らしい。塹壕は私の邪魔をしているようでならない。
ひょっとすると、塹壕とわいらはぐるなのかもしれない。こうして、人間を疲弊させ、もう、どうにでもなれという心境に追い込んでから、わいらに食させている気がしてきた。現代には銃があるし、手榴弾もある。いかに人間といえども、手榴弾を投げられれば、わいらとてひとたまりもないだろう。だから、塹壕が弱らせるのだ。
そう思った途端、私のなかでめらめらと怒りの炎が燃え上がった。そうか、クソ塹壕め。妖怪と結託し、おれを食らおうなどとは笑止千万。誰が貴様らの思い通りになるか。私は何が何でも塹壕を脱して、砲弾に当たって死のうと心に決めた。
私はドブ川のようになった塹壕をせっせと歩く。足を泥から引っこ抜いては一歩前の泥に差し込み、また引っこ抜くといったことを繰り返す。
そのときだった。私の目の前の突き当たりから、何とわいらの一本爪がにゅっと伸びてきた。
私は大急ぎで、横の塹壕に曲がった。トタン板を張った通路で雨粒がトタン板を乱打する音が黒人の太鼓のように激しく鳴る。その音が私の気配を消してくれたらしい。わいらは私に気づかず、別の通路へと体を引きずっていったらしい。
来た道を戻って、わいらの体の後ろ半分がどうなっているのか見てやりたい気もしたが、ひょっとすると、わいらは後ろにも顔と一本爪の前足があって、こんなふうに好奇心で覗きに来たやつをぱくりと食ってしまうのかもしれない。
塹壕と結託して人間を食らう妖怪ならば、そのくらいの知恵はあるだろう。あぶないところだった。私は自分の好奇心によって殺されるところだったのだ。
塹壕はいよいよ小川の態をなしてきた。落ちる雨の激しさで水面は沸騰したスープのように水を跳ね散らかしている。その水面上にサッカリンの空き缶や誰かの妻子らしき写真が浮いていた。私は写真を拾ってみた。風船のように袖がふくらんだドレスを着た丸顔の女性が子どもたちと写っている。みな男の子である。一番上は九歳ほどで、下は母親の腕に抱かれた赤ん坊である。全部で七人いた。みな水兵の服を着ていた。
ああ、かわいそうに。この写真の持ち主はおそらく、もうこの世にはいないだろう。わいらに食われたか、出撃して砲弾に吹き飛ばされ、戦場の肥やしになっているはずだ。七人の父なし子を母親一人で育てねばなるまい。
写真を水に捨てると、私は塹壕とわいらに対する怒りを更新し、何としても砲弾で死なねば、この七人の子どもたちに申し訳が立たぬような気がしてくる。忘れてしまったが、私にいるはずの妻子や親兄弟、勤め先の同僚も私がわいらに食べられて死ぬよりは砲弾に当たって死んでくれたほうが心安いはずだ。
私は塹壕の泥壁を銃剣で突き刺し、お前の思い通りにはならんからな、極道塹壕め、と気炎をあげた。
ガタンと音が鳴った。私は慌てて銃の安全装置を外した。
塹壕はジグザグに掘られているので、もし角の向こうにわいらがいたら、ひとたまりもない。
私は、誰か、とたずねた。返事がないので、もう一度、誰か、と言った。そして、返事がないなら手榴弾を放り込むぞ、と付け加えるとようやく、味方だ、という声がおっくうそうに返ってきた。
私は恐る恐る声のするほうへ歩いた。
塹壕の曲がり角にちょうど人一人が入れるだけの大きさの横穴があった。そこに軽騎兵将校の軍服を着け、モノクルをかけ、カイゼル鬚をたくわえた男が窮屈そうに座っていた。頭には髑髏の縫い取りがしてある毛皮帽を被っていた。
「わしはフォン・リンデンドルフ大尉だ。お前は誰だ?」
私は直立不動の姿勢を取り、姓名と階級、所属の連隊を述べた。
「ここで何をしている?」
「梯子を探しているのであります」
「梯子など見つけてどうする?」
「梯子で塹壕を昇って、出撃するのであります」
「馬鹿な。あの音が聴こえんか? 塹壕の上では機関銃と迫撃砲弾が味方を吹き飛ばしているのだぞ」
「しかし、お言葉ですが、大尉殿。ここにいれば、我々はわいらに食われてしまいます」
「あの化け物か。わしの部下も半分は砲弾にやられたが、残り半分はあいつに食われた」
「だからこそ、梯子が必要なのであります。わいらから逃れて、砲弾で吹き飛ばされるために」
「お前の言い分を聞いていると、わいらに食われて死ぬのはみっともないが、砲弾で木っ端微塵に吹き飛んで死ぬのは素晴らしいと言っているように聞こえるな」
「事実、その通りなのであります。大尉殿」
「おい、一等兵。わしの帽子の髑髏が見えるか? これは死ぬまでお国のために戦いますというシンボルだ。だが、わしはもうほとほと戦争に懲りた。もう、これ以上は戦争をしないつもりだ」
「では、わいらに食べられるのですか?」
「これ以上戦争はしない。そう言ったはずだ。わいらは戦争に含まれる」
大尉は皮のケースから自動ピストルを取り出した。
「こいつを自分の頭につきつけて、人差し指をちょいと引けば、戦争は終わりだ。さあ、もう行け、一等兵。お前はお前が望むやり方で死ね。わしもそうするから」
私はフォン・リンデンドルフ大尉を、その場に残して去った。ジグザグの塹壕を七回曲がったとき、パーンという軽い銃声が聞こえた。
塹壕は典型的な貴族将校でさえも、あのような落伍者にしてしまう。私は改めて敵の力の凄さを思い知った。私は不安を感じる。貴族将校と違って、私には軍事に関する専門教育もなければ、守るべき家名もなく、貴族としての義務もない。つまり、しっかり生きようとする芯がないのだ。お国言葉も読めなくなり、自分に妻子がいるのかも分からなくなった私は世界の孤児になったのだ。そして、環境というものはいかなるものであっても、孤児に対しては冷たいものだ。塹壕とわいらを相手に戦う私の味方は自分自身しかいない。
頼れるものがいないことがこんなにも悲しいとは思わなかった。私はこの悲しみから逃れるために、はやく砲弾に吹き飛ばされて死んでしまいたくてしょうがなかった。
そのとき、大自然の采配が私に味方した。塹壕を曲がった向こう、十メートルのところに鉄条網が途切れた場所があって、そこに梯子がかかっているのだ!
私は矢も楯もたまらず、駆け出した。何時間と足を泥に突っ込んで動き回った末にようやく見つけた梯子だ。これに昇らないでいられようか。
梯子まで後五メートルのところで、突然わいらが工兵用トンネルからその醜いビヒモスのような顔を出し、一本爪で私を切り裂こうとした。梯子は塹壕の卑劣な罠だったのだ! 背中を切られ鋭い痛みを感じたが、背負っていた小銃が背骨の代わりに真っ二つになってくれた。私は纏わりつく革の銃吊りベルトを払いのけた。そして、ベルトがわいらの顔に当たって動きが止まっているあいだに梯子に手をつけ、私は戦場へ躍り込んだ。
目の前には枝と皮をそがれた黒焦げの木々や破壊された戦車、砲弾が作った泥水の池が見渡す限り広がっている。塹壕からもわいらからも解き放たれた私は雄叫びを上げた。
さあ、砲弾よ! 砲弾よ! おれを殺せ!




