これは何の因果というのか
レアンドラは社交界にて、黒薔薇姫と呼ばれ高嶺の花だった。
しっとりと艶を放つ黒髪と黒真珠の瞳といった美を際立たせる色彩に、たぐいまれな美貌、歴史のある名門公爵家の令嬢とくれば、引く手あまたなのである。
まさしく蜂が常にまとわりつく極上の蜜であったため、レアンドラは貴族令嬢として「当たり障りのない」表面的な社交界的会話術を身に付けていた。
そう表現してしまえば、何て悪嬢だ、何て小悪魔な、何てふしだらな、となるだろう。
しかしそこは規格外なレアンドラである。
表面上は特大級の猫を被り、艶やかに当たり障りのない社交をする反面、中身は色恋に全く興味が湧かないために、社交の先には恋愛沙汰に繋がることは決してなかった。
つまり、色気も欠片もないどころか、全く無縁なのである。
一般的な貴族令嬢らしい態度ではないが、一般的な貴族令嬢の枠外のレアンドラとしてはどこまでも「らしい」態度ではあった。
レアンドラは婚約者がいるとはいえ、名門公爵家の姫であり、薔薇に例えられる美貌をほこっていた。
どの舞踏会に名代として、また父母について出席しても、壁の花となることは決してなかった。
そのため、話しかけられる分だけ「無縁」の数が増えていき、レアンドラに淡い思いを抱くものの墓標が増えていった。
「レアンドラさま、本日も人気ですわね」
「さすがレアンドラさまですわ」
そして、レアンドラのまわりを取り巻くものたちが、自然と「レアンドラさまに特攻してきた殿方をハントする」肉食系令嬢となったのも無理はなかった。
レアンドラは高嶺の花であり、同時に誘蛾灯だった。
当人は婚約者ができる前も「恋を馬鹿にしている」ためにハンターたる肉食系令嬢には無害だったし、
婚約者ができてからも「婚約者にぞっこん」だっため無害のままだった。
また、レアンドラも婚約者ができる前は、寄ってくる男たちを追い払ってもらえることで、婚約者ができたあとも同じ意味でお邪魔虫を追い払ってもらえるたので、彼女たちの利害は一致していたのだ。
彼女らは、レアンドラの友人やとりまきではなく、レアンドラの協力者であった。
それは社交界だけではなく、舞台を学園に変えても同じだった。
――あの日も、既に婚約者ができていたレアンドラは、いつものように彼女らの壁に守られていた。
学園の二学年のカリキュラム通りの講義を受けるべく、移動していたときのことだった。
「ちょっと、貴女何ですの!?」
「お話を、ですって? お約束も無しですって、貴女、まずご予定を確認してお約束をするのが常識ですわよ!」
「お話をしたいから、来たですって? 相手様のご都合やご予定を確認しないとは、何て人としてなっておりませんの!」
「わたくしたち、今から講義ですのよ!」
「まあ、目上の方への口の聞き方もなっていませんわ!」
「生まれ関係なく、年上の方には礼を失してはいけないのが常識! わたくしたち、上級生でしてよ!」
――アーシュ・チュエーカが、アポなしで自分の都合のいい時間に突撃し、タメ口で抗議をしてきたのは。
☆☆☆☆☆
その日は平日だった。
「ね、寝坊したっ」
薫子の目が覚めたとき、枕元の置き型目覚まし時計の針は七の数字を示していた。
薫子は時計を見たまましばし固まり、すぐさまロスした時間を短縮するべく行動を開始した。
薫子の通う平良島第二高等学校は、薫子の自宅から徒歩で十分少々の駅からふたつ目の駅で降り、さらに十分くらいバスに揺られる。ちなみに車では三、四十分というところだ。
いつもならば、電車とバスなどの移動時間を鑑みて六時に起床し、七時には家を出ないといけない。
なのに、今は七時。家を出ている時間に目が覚めてしまったわけだ。その原因は確実に昨夜寝れなかったことによる睡眠不足である。
「おはよう、太一郎兄さん、いる?」
五分で身支度を済ませた薫子は、焦ることなくリビングまで降りてきた。
薫子はレアンドラだ。
――貴族の長子は、常に泰然とあれ。
このアウデンリート公爵家の家訓のようなものの影響で、レアンドラはかなり度胸が据わった令嬢だった。
薫子になった今でも、レアンドラの動じない性格は全く変わっていない。そもそも寝坊ごときで取り乱す者は、アウデンリート家の名は名乗れない。
「おはよう、薫子。何、おまえ、寝坊したの。明日は雷雨か? 猿も木から落ちるってか」
リビングにてテレビを見て寛いでいたスーツ姿の青年が、薫子の声に返答しながら振り返った。その顔は今にも吹き出しそうである。
このきっちりスーツ+黒髪+七三分け+眼鏡という真面目な組み合わせなのに、なぜか女タラシのような軽い雰囲気を醸し出しているのが、薫子の長兄・太一郎である。
「きっと大雪かもね」
薫子は太一郎の側へ赴き、彼が持つリモコンをさりげなく奪い取った。
「誰が猿よ、誰が」
そしてついに笑いだした兄の後頭部を叩くのを忘れなかった。
「兄さん」
薫子は、四兄妹の末っ子で唯一の女児として生を受けた。下に三人も弟がいたレアンドラとは全くの正反対である。
レアンドラである薫子は弟の扱い方には心得がある(※ただし貴族に限る)。けれど兄の扱い方は本当にわからない。全くもってわからない。
生まれ変わった当初、しばらく薫子は戸惑いの連続だった。たたでさえ生まれ変わりという事象が理解できないのに、常にやんちゃ盛りなガキ――否、兄三名に囲まれ、見下ろされていたのだから(この頃の薫子の定位置はたいていベビーベッドだった)。
でも、そこはアウデンリート公爵家長子・レアンドラである。
レアンドラは薫子となっても、環境やら周囲――生きていく世界が一変してもすぐに適応した。
慣れるまでのほん数時間こそ扱い方はわからなかったが、すぐさまもちろん扱い方を学習したのである。
そして薫子となったレアンドラは、兄の扱い方をマスターし、レアンドラの頃では考えられない習慣を身につけた。
「兄さん、お願いがあるんだけど?」
出勤前だった長兄を捕まえた薫子は、兄の横に座り、つんと服の裾を軽く引っ張った。
――これはまだ序章に過ぎない。
「ん?」
薫子を見下ろした長兄に、薫子は兄たちに――とりわけ長兄に効果的な手段を選んだ。
これもチェックメイトではなく、それまでの布石である。
この布石で兄がこちらを見たことを確認し、薫子は王手をかけた!
「兄さん、送って?」
――淡々と、上目遣い。
このとき、瞬きをせずにじぃっとじっくり見つめるのが、太一郎にはより効果的である。
これこそ、薫子が習得し、年々磨きあげてうなぎ登りに上達しつつある兄の扱い方(決勝パターン法)である。
――秘技、兄萌え殺し・太一郎版。
「よっしゃ、お兄ちゃんに任せなさい!」
でれでれと鼻の下をのばし、それ社会人としてどうよ的なだらしない顔をする兄に対し、薫子はどこまでも淡々としていた。
一般的な妹なら、兄に対しドン引きしている場面である。対し、薫子は動じなかった。
――レアンドラという別の人生経験があるがゆえに、「兄とは妹に対して無条件にデレるものであり、目の中へ入れても痛くない存在」だとたいへん誤った「兄妹関係」の認識をしていたのだった。
つまり、規格外なレアンドラは、生まれ変わっても色々規格外だった。
こうして嶌川家の兄妹の仲は本日も平和だった。
――薫子は、妹のお願いにルンルンな長兄の運転で、無事に遅刻なく登校したのだが。
いつもより遅い時刻に教室に到着した薫子を出迎えたのは、お祭り騒ぎなハイテンションな熱気に溢れたクラスメートたちだった。
そわそわし、落ち着きが全く見られないクラスメートたちは、かなり興奮しているらしい。代鈴ギリギリの時刻で入室した薫子はもちろん、いままさに代鈴が響いていることにすら気づいていないらしい。
「……?」
何だこれは、と疑問に思いながら着席した薫子は、すぐさま情報することにした。
代鈴が鳴り、担任が朝礼に来るまでまだ僅かに猶予がある。
「おはよう、五月子」
薫子は前の席の五月子の服を引っ張った。五月子はらしくもなく苛立ち、ピリピリしていた。どうやら五月蝿さにご立腹のようだ。
「薫子、遅ようさん?」
振り向くなり、五月子はむにっと薫子のほっぺを摘んで伸ばした。薫子のほっぺをむにむにしながら、五月子は続ける。
「いつもならもっと早く来てる薫子がこんなに遅いって、もしかしなくても、寝坊介さんな理由で太一郎さんあたりに送ってもらったのかな〜?」
「正答」
むにむにされながらも、薫子は淡々と答えた。五月子とは、薫子が小学生の頃からの付き合いである。故なのか、五月子には薫子のとる行動が筒抜けである。
「あんた、今回はそれで良かったのかもね、不幸中の幸いってやつ」
むにむにから薫子を解放した五月子は、非常に疲弊した顔で続けた。
「あんたが嫌いそうなヤツが転入生として、徒歩で登校してきたんだよ、転入初日に」
長い付き合いである五月子が、薫子が嫌いそうな、と断言するとくれば――
「悪嬢……とか?」
「いや、あれは……どっちかっていうと……」
眉間にシワを寄せ、背に吹雪を背負い始めた薫子に、五月子はいいよどんだ。
どうやら、的確な言葉がすぐに見つからず、あぐねているらしい。
そして、ふたりの会話は一旦中断となる。
「ほら、席につけ席につけ!」
がらっという開閉音とともに、担任がやって来たのだった。
「ほら、百聞は一見にしかず!」
結局いいたいことを言葉に形容できなかった五月子が、考えることをやめたとばかり投げ遣りに答えた。
薫子は五月子に促されて、担任の後について入ってきた転入生を見て瞠目した。
(…………!)
――この日この瞬間、薫子は久々に動じた(内心で)。
「転入生を紹介する」
あと一ヶ月もすれば春休みという、あまりなさそうな中途半端な時期に転入してきた生徒を見て、薫子は「レアンドラ」として腹が煮えたぎった。
「――です。よろしくお願いいたします」
――転入生は、レアンドラの執念をぶつけるに相応しい相手だった。