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それは何を示唆するというのか



 レアンドラはぼうっとした頭で、暗闇へ視線をさ迷わせた。レアンドラの頭は霧がかかったように、きちんと思考できる状態ではなかった。

 レアンドラは今、牢獄の中に藁にくるまって横たわっている。

 レアンドラの横たわる辺りは、真っ暗な完全な闇だった。牢獄には、脱獄を防ぐために窓がない。

 牢獄の唯一の灯りは、蝋燭一本。レアンドラからはかなり離れているのか、それともレアンドラの目がもうまともでないのか、唯一の灯りは、レアンドラの目にはまるで豆粒のように映った。

 微かな弱々しいその灯りは、錆びきった金属の格子を闇の中にぼんやりとしたシルエットを浮かび上がらせている。まことに頼りない灯りだ。

 ちろちろと、レアンドラは離れた場所の蝋燭を見やって、自嘲の笑みを浮かべた。


(――何て、今の自分のようなのでしょうね)


 今のレアンドラには、かつての面影など見当たらなかった。

 レアンドラの顔は、やつれたを通り越し、骨に皮が張り付いてもはや別人の顔になってしまっていた。

 牢獄に横たわるレアンドラには、かつての豊満な身体をもち、凜乎とした雰囲気をまとった令嬢の面影はなかった。

 艶やかで黒々と波打つ夜闇の髪は艶をなくし、所々白髪が目立ち乾燥し、まるで岸に打ち上げられて干からびてしまった海草の有り様。

 覇気と自信に満ち溢れ、きらきらと光を放っていた黒真珠のような瞳は幻を映し出すようになり、ぎらぎらと輝いて、自嘲と狂気の境をさ迷うだけの、濁った狂人のそれに落ちぶれた。

 雪のような白さ陶器のような滑らかさを持つ肌は、年相応の肌の健康さなど欠片もなくなり、乾燥して一気に老化した印象しか与えなく、黄ばんで骨に張り付く皮と成り果て、生気の無い力尽きた病人そのものだった。

 身に付けている着衣だって、好んできていた緋色や紫のドレスではない。あるだけまし程度の、雑巾より酷いぼろきれを身にまとっていた。もちろん、アクセサリーの類いなんてない。

 ――いまのレアンドラは、もはや貴族令嬢ではなく、ただの刑の執行を待つ罪人で、お迎えを待つだけの病人のひとりだった。

 正気を保つなど、ほぼないといっていい。自嘲を浮かべるくらいに正気を保てるのは、ほんの一瞬だ。それも、一日一度あればいいくらいである。

 レアンドラは焦点のあわない白濁した瞳を空へさ迷わせ、何もないあたりにぴたっと視線を固定した――視線を固定しても、病みきった瞳は相変わらず焦点はあわないまま。


「あ、あ……あぁ……」


 レアンドラの口から嘆息とも、感嘆ともとれる喘ぎが漏れ、白濁し生気の無い眼から涙が溢れ出る。


「あ、……ぁいに、き、て、くれ……」


 レアンドラは、そこにはいない誰かに向かって震える手を伸ばした。

 その先は、ただの暗闇が広がるだけで、枯れ枝のように細くなった指は、もちろん何も掴むことはなく、ただ空を切るだけ。それもそうだ、この牢獄にはレアンドラしかいないのだから。

 それでも、レアンドラは誰もいないはずの空間に「誰か」を見て、手を差し伸べている。レアンドラはその「誰か」に、差し伸べた自身の手をとってもらうことを「望んで」いる。

 「誰か」――病んだレアンドラの瞳に映る、幻の「誰か」。


「え、どぅ、びん……さ、ま……」


 レアンドラが、もうすでに上手く回らない舌で紡いだ名は、かつての婚約者――恋に落ち、身を滅ぼすきっかけとなった相手、エドヴィン・カシーリャスだった。

 衰弱しきったレアンドラの瞳には、エドヴィンが見えていた。

 あの日、ふたりが出会ったあの瞬間のときにレアンドラは戻っていた。

 あの日あの瞬間――レアンドラが恋に落ちた日だ。


『はじめまして、アウデンリート公爵令嬢』


 レアンドラの瞳に映る幻のエドヴィンが、あの時の春のひだまりのような微笑みを浮かべ、レアンドラに手を差し伸べた。


「は、じめま、して」


 レアンドラも微笑みを浮かべ、あの時と同じように眩しいと眼を伏せながらも、火照る顔を逸らさないように微笑み返した。

 レアンドラは嬉しそうに、満面の笑みを浮かべて「彼の手」を掴んだ。

 レアンドラはとても幸せに満ち溢れた笑顔を浮かべ、大きな涙を滂沱と流し、ゆっくりと眼を閉じていった。


「レアンディ!」


 そして低い誰かの声が、彼女の愛称を狂おしく呼ぶ幻聴を聞きながら、レアンドラ・ベルンハルデ・アウデンリートは、アウデンリートは若い生涯に幕を下ろした。




☆☆☆☆☆




 あれから自宅に帰った薫子は、いつものように家族と夕食を済ませ、テレビを見て一家団欒の一時を楽しく過ごし、読書をしてついつい長風呂になってしまって怒られ――いざ床につこうとして、全く寝つけていなかった。

 帰宅途中に遭遇した彼との、あの再会のせいだった。

 彼との――エドヴィン・カシーリャス公爵子息、レアンドラの婚約者との、思いもよらない再会。

 それが薫子を悩ませ、安眠の妨害をしていたのだった。

 眼を閉じてもあの顔、振り払うようにごろごろしてもあの顔、何をしてもあのエドヴィンの生まれ変わりの青年の顔が頭から離れない。

 それは家へ帰ってから、ずっと続いている。もちろん食べている時も、入浴中もあの顔が離れなかった。

 それだけ衝撃的だったのだ。彼が生まれ変わっていたということに。

 あの青年がエドヴィン・カシーリャスの生まれ変わりなのは、ほぼ間違いない。薫子は否定したいけれど、レアンドラとしての直感で「そうだ」とピンと来てしまったため、何とも否定しきれなかった。

 レアンドラが薫子となったように、あの世界からこちらの世界への生まれ変わりが全くいないわけではない、と薫子は薄々感付いてはいた。

 薫子の他に生まれ変わりの当事者がいないと、あの「カルツォーネ乙女物語」が書かれて書籍として世に出回っていることを説明できないからだ。

 だからとはいえ、まさかエドヴィン・カシーリャスがこちらにの世界に生まれ変わっていようとは、薫子は露ほども疑わなかった。

 今となっては、おそらく無意識に「彼も生まれ変わっているかもしれない」という可能性を捨てていたのだろう、と薫子は推測していた。

 何しろ、レアンドラにとっては身を滅ぼすきっかけとなった人物なのだから。


「…………」


 やはり、眠れなかった。考えれば考えるだけ、はっきりと目が冴えていく。

 薫子は、もうやけくそとばかりに考えに没頭することにした。もうどうにでもなれ、後は野となれ山となれだった。

 薫子はゆっくりとあの青年を思い出した。

 レアンドラの婚約者、エドヴィンは生まれ変わっても根本的な性根はエドヴィンだった。

 優しすぎて、極端なお人好しで、馬鹿のつくくらいの鈍感で、騙されやすいエドヴィンのまま。

 エドヴィンはお人好しすぎた。

 周囲を彷徨くあの女の戯言に騙されて、レアンドラの忠言も耳に入れながらもあの女を頭から信用したくらいだった。

 根っからのお人好しは、死んで生まれ変わっても治らなかったらしい。助けた相手に多少冷たくされても、背を向けられてもなお、『どこか痛くなったら病院へ行くんだよ〜』と最後まで相手を心配していたのだから、間違いはないだろう。

 ――お人好しなままならば、もしや。


「っ……、ふぅ……」


 薫子は頭を振った。

 あの青年が、またぞやあの女のような厄介な出会いをした想像が、一瞬過ったからだった。

 あの青年が、薫子がレアンドラでもあるように、エドヴィンでもあるとは限らない。

 だからこそ、限りなくエドヴィンの特徴を残していた彼が、今生でも女運が悪い可能性が高そうだった。

 ならば、やはりあの再会は良いものではなかった。

 再び出会ったこと、再び恋に落ちたこと、それはひとつの可能性を示唆する。

 あの女も生まれ変わっていないとは限らないということ。

 あの女、レアンドラが牢獄にて病により衰弱し、獄中死という最期を迎えた直接の原因である、アーシュ・チュエーカ。

 薫子はだんだん腹が立ってきた。悪いことはしたけれど、獄中に入れられ処刑を待つまでの罪ではなかったのに、あの女の手によってレアンドラは処刑される羽目になったといっても過言ではない。

 思い通りに物事が進まないと気がすまない、自分が世界の中心だとレアンドラに叫んだあの女。自分の思い通りにするために、レアンドラが犯した罪を脚色し上乗せし、レアンドラの言い分など誰も信用しないようにしたあの女。

 レアンドラがあの女と対峙したとき、あの女はこう叫んだ。


『あたしの力を、世界は求めているの! あたしの力が、世界には必要なの! 世界はあたしの力なしには続かない。だから、あたしは世界を思うがままに動かしてもいいの!』


 あの叫びを放ったときのあの女の浮かべた顔は、狂気と自信に満ち溢れていた。見るものを怖じ気付かせる、狂人の笑み。

 薫子はあの女の笑みと叫びを振り払うように、また頭を振った。あの青年はいつの間にか脳裏から消えていたが、今度はさらに厄介なヤツが脳裏に陣取った。

 後は野となれ山となれと、やけくそに思考に没頭した薫子の完全な落ち度の結果だった。


「…………」


 薫子は気分転換とばかりに、本日いきつけの古書店で購入した新書――日本海に沈む人工物に見える地形を論じた一冊――を鞄から取り出そうとして、連鎖的に蔦村のほわわんとした笑顔が思い浮かんだ。


「あ……」


 あの青年に会う原因ともいえなくもない、没頭していた思考の原因。


「メモ……!」


 蔦村から渡されたあのメモの存在を、薫子はすっかり失念していた。


「明日でいいや、明日で!」


 そうして、薫子はちゃっちゃと布団に潜り、すぐさま眠りについたのだった。

 あの女の嫌な記憶は、蔦村のほわわんとした笑顔によって、すっかり頭の外へ追い出されたのだった。


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